第12話

 陽が落ち、世界が夜の帳に包まれたころ、無数の人肌に当てられて生温さを秋風に吹かれながら二人は人通りがそれなりにある街路を歩く。もちろん、二人が仲良く肩を並べて歩くわけではない。明野が藤野よりも数歩先を歩き、彼女の背中を重すぎる枷の付いた足を引きずりながら彼が追いかける形である。

 精神的な重圧がのしかかっている彼に比べて、明野の足取りは妙に軽やかである。青々とした空の下、美しい自然が並ぶ野原をスキップしながら巡るような気分を彼女は持ち合わせている。このため、彼女の周囲の空気は極めて清々しく、暮れかかった秋とは正反対の季節で充満しているのだ。

 多幸感に包まれる彼女の背中と、すれ違う多種多様な人々の背中を比べながら彼は歩く。曇った眼と縮まった背、よれたスーツとだらしなく緩められたネクタイに彼は世知辛さを覚えると同時に、社会という規律に嫌悪感を示す。自らの自由な意思を限りなく制限され、社会の歯車として一生終えるであろう、すれ違う全ての年代、全ての職業、全ての性別に対して彼は反抗的な意識を抱いたのである。あまりにも刺々しい上に、青臭く、身勝手な意識であるが、彼の自分自身の処遇に関する焦燥感と、人混みに溶け込むことなく異様な存在感を覚えさせる彼女に対する苛立ちが、彼の刺々しい意識を誘発させたのである。

 傍若無人な感情を宿す彼の目元はナイフのようにとがっており、近づく人々を遠ざける作用を持っている。このため、彼の傍を通りかかる全ての人々は、彼から積極的に遠ざかろうとして、反って彼に注目を向けるのである。人々から向けられる視線は、彼の琴線をより刺激して、彼自身の苛立ちをより募らせることとなり、それは彼の足首を繋がる形而上の鉄球をより重くするのである。

 自ら発するすべての物事が反作用の性質を帯びて自分に返ってくる彼に対して、彼女はまだ見ぬ未来に心を躍らせている。それは足取りからも、身のこなしからもうかがえることである。また、彼女の真面目さを象徴する金縁の眼鏡をかけていながらも、つまり学校で彼女が見せなければならない仮面をつけていても、もう一つの自分を興じている。彼からすれば驚くべき軽率さである。

 しかしながら、彼女の胸中は歓喜で満ち満ちており、彼曰く信じられない軽率さを正すことなど出来やしないのである。自らを眺める冷静さよりも、自分自身が抱く喜びに浸る方を優先する他ないのだから。

 だが、外野からの介入が入った時は、胸中の熱狂も一時的な収まりを見せる。

「ちょっと待て。これからどこに行くつもりなんだ?」

「どこって、私の家だけど?」

「なんで俺がお前の家に、わざわざ行かなきゃならないんだ」

 一時的な収束は首都高の高架下を通り過ぎようとした時であった。

 藤野は最寄駅と真反対の方向に進む明野の歩みに疑問を呈した。このため、彼女は立ち止まることを余儀なくされ、彼の下らない質疑に答えなければならなくなったのである。したがって、彼女の声音は冷たいものとなり、彼の反駁の言葉を震えさせたのだ。

 慄きと苛立ちが混じり合った彼に、数歩先を歩いていた彼女は人混みの流れに逆らって、彼の胸元を掴み寄せる。レンズの奥にある彼女の目はきりりと尖り、慄く彼をさらに委縮させる。

「あんたは黙って私の後を歩いていればいいの。それだけがあんたの義務で、今のあんたがここに居る意味なんだから」

 そして、藤野と自分との契約を分からせるように強気に言葉を紡ぐ。

「そうかよ。けど、一つだけ聞かせてくれ。俺はお前の家に行って良いのか? 家族が居るだろ?」

 明野の言葉に狼狽えながらも、藤野は自らの疑問をはっきりと彼女に伝える。

 奴隷染みた契約が既に自分と彼女との間で、結ばれていること自体、物わかりの良い彼は理解している。

 だが、結ばれている契約内容は、彼が嫌悪の棘を向けた社会に真っ向から反している。それは不健全であり、それは非道徳的なことであり、立派な傍観者が見た場合、これに対して極めて理性的な判断を下すことは目に見えている。そして、理性と感性との彼岸で、理性の岸に一歩だけ足を保つことの出来た彼は、この確証を得たかったのである。この確認の結果次第で、彼の精神的な重圧は大きく違ってくるのだから。

「全く問題ないね。私、今は一人暮らしだからさ」

 希望的な回答に自らの運命を委ねていた藤野は、きっぱりと言い切る明野の回答に落胆した。

「一人暮らし?」

「そう、一人暮らしよ。何か問題でもある?」

「いや……」

 そして、藤野は自由を求める抵抗を何も言い出せず閉口してしまう。

「なら、これ以上の詮索は良いよね。それじゃ、私の家に、切り離された私だけの家に行きましょ」

 藤野の表情に満足したのか、冷徹な表情から一転して子供に近しい笑みを浮かべながら、明野は踵をひるがえす。今度は彼の手をしかと握って、その上、彼自身の重すぎる精神的な枷を担うように力強く引っ張るのである。

「……」

 何も言い返せず、自己に対する絶望だけが募る中、閉口する藤野は雑然とした感情の中ぼんやりと明野の背中を見つめる。そして、自らの運命を恨むと同時に、彼女の発した言葉を反芻する。

 それは、彼女が余裕たっぷりな笑みを浮かべながら紡いだ言葉の中に、何か深刻な問題を抱えているような気がしてならなかったためである。

  

 渋谷のある高層マンションに到着した二人は、自動ロックのフロントを超え、エレベーターに乗り込んだ。明野に付き従う藤野からすれば、豪華絢爛なフロントはいわゆる庶民生活を送る自分とはかけ離れた世界であり、異空間に入ってしまったような気がした。

 天井から垂れるガラス製のシャンデリア、磨き上げられた白タイルの床、美術館の目玉として置かれているような壁一面を埋め尽くさんとするヨーロッパの田園風景を描いた横長の油絵、両側に設置された水垢一つ許さず清掃されているガラス壁、至れり尽くせりの装飾がフロントに施されていた。

 強烈な印象が頭に残る彼は、和の趣が施されたエレベーター内でも、それを忘れることが出来ず、暫しの間、浮世離れした気分になっていた。

 しかし、この浮ついた彼の気分も、いずれは何らかの影響により、現実に引き戻される。

「ただいま……って、誰もいないか」

 寂しい暗がりの部屋に赴いた藤野は、明野のわざとらしい帰宅の挨拶に寂寞を覚える。それは誰もいない無機的な部屋に響く彼女の声は、物悲しさを帯びて反響したためである。極めて反射的に発したであろう彼女の言葉、彼が嫌悪覚えざるおえない少女の言葉であるが、彼の感情に働きかけ、彼の感情はこれに答える。

「まっ、とりあえず上がってよ」

 先に靴を脱いで土間から玄関に上がり、藤野を見下ろすしながら紡いだ虚勢の混じった明野の言葉に、強烈な拘束力はなかった。代わりにこの人のために動かなければならないというある種の同情、憐憫による脅迫の力を帯びていた。このため、彼は拒絶することも出来たであろうが、否定の姿勢を示さず、与えられた言葉のままスニーカーを脱いで、彼女の部屋に上がるのであった。

 彼が上がったことを確認せず、彼女は足早に、自室に足を運んでいった。それは電気を点けるためでもあり、自らの感情を隠すためでもあったのかもしれない。

 ともあれ、彼女の感情を知る方法を彼は持ち合わせていない。したがって、後者の方を観測することは不可能なのである。このため、自らの感性が勝手に覚えた彼女の行動に対する印象を、自らの感性が勝手に想像した幻想だと割り切って、見えなくなった彼女の背中に向かうのである。

 豪華絢爛なフロントに比べて、彼女の部屋の広さは狭いように感じられる。それは靴が横に三足しか置けないほど狭い土間に始まり、縦にまっすぐ伸びた細い廊下、廊下に隣接している玄関から見て左側の汚れが一切付着していない二口のIHとシンク、右側の引き戸によって閉ざされた倉庫? がその印象を強めていた。もちろん、都内で一人暮らしをしている人々の部屋と比べれば、広い部類の部屋であろう。だが、豪華な見かけと、一室を比べた際、その広さには違和感を覚えざる負えなかった。

 しかしながら、内装は独特なところがあり、壁一面は紺色に塗られており、全体的に落ち着いた雰囲気を演出している。そして、床と壁の境目は橙色によって仕切られており、瀟洒かつコンパクトに色彩がまとめられている。

 お洒落な雰囲気が満ち満ちている狭く細長い空間の先には、マットな黒に一面を塗られた引き戸によって閉ざされた部屋がある。彼女はそそくさと部屋の中に入ってしまい部屋の全貌は、彼自身が足を動かすことによってのみ明かされる。

 先に入ってしまった彼女の許しを得ずに、戸を引くことなど、一般的な感性を持っているものからすれば、誰であろうとも気が引けることである。桑原のような女性を女性と思っていない異常な人間性を持つ者からすれば、この下らない葛藤を抱く必要はないのであるが、彼は桑原ほど腐り落ちていない。このため、彼は引き戸の取手に手を掛けた瞬間、逡巡したのである。

「入ってきなよ」

「お見通しかよ」

「人の気配くらい扉越しでも分かるさ。鈍感じゃないんだよ。意外と鋭利な感覚を持ってるんだ」

 こちら側を覗き込んでくるような明野に、藤野は思わず両手を挙げて、誰も見ていないのにもかかわらずわざとらしい白旗を上げるところであった。しかし、その一歩手前で彼は冷静になり、彼女の言われた通り、引き戸を引くのであった。

 だが、引き戸を引き、彼女の個人的な空間と彼女が現れた瞬間、彼の体は硬直した。それは奇抜でオカルト趣味を感じられる内装による衝撃ではなく、現在の彼女の服装にある。

「なんで服着てないんだよ」

「意外と冷静な反応だ」

 下着姿で仁王立ちする明野は目の前で平然とした表情を浮かべて、動揺の一切を露わにしない藤野に溜息を漏らす。どうやら、彼女は自身の裸体に近い姿に対して驚く彼を見たかったらしい。

「どんな反応が欲しかったんだよ」

 明野が思ったような表情を浮かべなかった藤野は、首を傾げながら呆れた疑問をぶつける。

「頬を赤らめて、私から大慌てで目を逸らす情けない反応。馬鹿みたいに大げさな反応。そういう阿保みたいなコメディが見たかったんだよ」

 掴んでも手から溢れるであろう白いレースの下着で包まれた豊満な胸を、組んだ腕で支えながら明野は溜息を漏らす。

「謝れば良いのか?」

「謝らなくても良いよ。けど、まあ、少し残念ってだけ。胸を張って良い体って言える体だからさ」

 腰に手を当て、明野は自慢げに胸を張る。豊満な胸は反動により、艶めかしく揺れ動く。

 しかし、藤野が男を誘う彼女の肉体に欲情することは無い。彼は曇り切った眼で、色白の美しい肉体を持つ少女の体を凝視するだけである。また、いくら自身の裸体に近い姿を見られることに抵抗が無くとも、まじまじと見つめられると微かな恥じらいを覚えるらしい。このため、彼女は余裕そうな表情を浮かべながらも、肩や頬、耳を微かに上気させる。赤らみを帯びる彼女は、それまでの彼女と異なり、年相応の可愛げを持った少女に見える。それは平生の彼女、つまり学級委員としての彼女が彼の目の前に現れたのである。

 熱の高まりを意識した彼女は、肩にかかる髪を弄りながら、彼に背を向ける。

「寒いから閉めてよ」

「恥ずかしいからの間違いだろ。嘘は良くない」

「認めるよ。でも、本当に寒いから戸を閉めて。空調が完璧だって言っても、廊下は寒いんだからさ」

 優男ではない藤野は、明野の言葉に茶々を入れた。これに彼女は溜息を吐き、聡い彼に呆れを示した。その上で、彼女は嘘を見破った彼に本音を伝え、従順な彼は肌寒い空気を送り込む空間と心地の良い温い空気が籠る空間を遮る戸を閉めた。

 肌寒さと恥じらいによる熱を覚える彼女は、心に余裕があると言わんばかりに彼の存在を無視して、オカルト趣味な部屋の中央に置かれた黒い皮張りの一人用ソファに腰を下ろし、未だに戸の前に立つ彼と向き合った。そして、黒々としたストッキングを履いたままの足を女王の様に組んだ。

 傲岸不遜な態度を恥じらいからの変化として見せる少女に、彼は呆気にとられる。毅然とした態度を例え演技だとしても取り続ける彼女の肝の据わった心意気に対する尊敬に由来する驚きである。

「それじゃあ、忠誠の儀式をしましょうか」

 柔らかそうな肘置きに頬杖をつく明野は、藤野に悪意のある笑みを浮かべる。

「儀式? そんなものをしたところで何にもならないだろ。俺はお前が飽くまでお前の奴隷だ。そういう契約だろ。双方合意してるのに、形式ばったことをやって今更どうなるんだ? そんなの悪戯に時間を消費するだけだ」

「形式ばってるから良いんじゃない。それに時間を無駄にするって言うのは、この世で一番の贅沢だよ。特に人の時間を無駄にさせるって言うのは、この上ない贅沢だ。だから、今から儀式をするのさ」

 全貌は分からないが確実に下らない何かを行おうとする明野は、跳ねる声で儀式の重要性を唱える。藤野はこれに大きな溜息を吐く。

 しかし、彼は自分が彼女と奴隷契約染みた契約を結ばされていることを理解している。加えて人の時間を奪うことの重大性も理解している。つまり、彼は彼女の言う儀式に、契約的にも理論的にも参加せざる負えないのである。

「じゃあ、やるよ」

 不承不承ながら藤野は、小さな声で明野の儀式に参加することを伝えた。

 すると彼女の口角はグッと上がって、より邪悪な笑みとなった。

「なら、早速取り掛かろうか」

 邪な興奮の中で立ち上がった明野は、何も言わずに両足のストッキングを滑らかに脱ぎ捨て、再びソファに座った。

 彼女の美しい裸足は床に敷かれた赤と紫の幾何学模様の柔らかな絨毯の上に鎮座し、長時間密閉されていたために籠っていた代謝による臭いを部屋中にまき散らす。しかしながら、本来は悪臭を放つはずの彼女の足は臭わない。もちろん、酸っぱさの籠った臭いはあるが、不思議なことに不快感を抱くような臭いではない。それは艶めかしい女の臭いである。

 美しい露わにした彼女は、再び足を組みなおすと、彼に向って微笑を浮かべる。それは慈愛のために浮かぶ笑みではない。彼女の個人の嗜虐的な嗜好がもたらす好奇心による笑みである。

「俺は何を?」

 金縁眼鏡のレンズの奥から舐めまわすような視線を受け取る藤野は、背筋に悪寒が走り、全身が粟立っていることを認めた。全身を駆け巡る戦慄は、一刻も早く彼女の下から立ち去りたいという彼の本能を刺激した。このために彼の発する言葉は短く、早いものとなった。それは彼が彼女に精神的な従属を強いられていることの証明であり、心理的に屈服していることを証明することでもあった。

 早口な彼の口調に相変わらず邪な笑みを彼女は浮かべる。口角は上がり、目の奥にはゆらゆらと妖しい灯りが宿っている。加えて、その表情と灯りは、彼女の下着姿を淫らな印象へと傾かせ、また彼女自身がそう仕向けているのではないかと思わせる魔力を持ち合わせている。

「舐めて」

 そして、明野はゆっくりと煽情的な唇を開いて、紫色の言葉を紡ぐ。

「何を?」

 明野に屈服している藤野は、何をすればいいのか理解していながらも、揺れる声音で彼女に問いかけた。

 振るえる彼の声音は、彼女の笑みをますます悪魔的に仕立て上げ、彼女を女王にさせる。それも暴力的で、エロティックな女王に。

「私の足、犬みたいに舐めてよ」

 女王は左足を奴隷の前にピンと伸ばすと、サディスティックな微笑を浮かべる。

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