第11話

 敵前逃亡した藤野は、腹の底から湧き上がる苛立ちを抱きながら力強く階段の一段一段を踏みしめた。極めて腹立たしい名前も知らない少女の言葉は、内履きのゴム底から足の裏に反動を感じるたびに、彼の頭を巡る。幾回も幾回も呪詛の刻まれたマニ車のように言葉は、彼の脳内を回り続けた。そして、踊り場に着いた時、彼は怒りを踏みしめるように立ち止まり、薄らと黒ずんだ白く冷たい壁を殴りつけた。

 頑強な壁は彼の拳を弾き返すと同時に、彼の拳に衝撃を与えた。骨身に応える衝撃は、全身に伝導してゆき、鋭く痺れるような痛みを彼に与えた。

 感情に任せた愚行によりもたらされた痛みは、赤熱する彼の苛立ちを一気に冷ました。冷却された感情は、全身を脱力させ、鬱積していた空気を吐き出させた。これにより、彼は平生の理性を取り戻した。ただし、激情の後には、これに応じた反動が生じ、彼の平生の理性は一気に感傷的な色を帯び始めた。

 憂いの雰囲気を纏った彼は天井を見上げながら、先ほどの少女について想いを巡らせ始めた。

 彼女は彼の見立て通り、聡い少女であった。感情に任せた言動を取る点はあったものの、こちらの愚行に際して積極的な行動に出ることは無く、彼を観察するに努めた。その上、彼女は人の表情と感情の揺れ動きをじっくりと見据える忍耐力もあった。これは彼の理想の女性像に近似していた。

 しかし、理想像に近かったとしても、彼の期待を裏切り、彼女は彼が最も嫌う同情を彼に向けてしまった。わずかな時間、人を観察しただけで対象のことを分かった気になる彼女の態度は、彼の心を燃やした。

 彼女のことを振り返ると、彼の胸中には自分に対する嘲りが生じた。

 相手にしたく無いと考え、名前も知らない彼女の言動を徹底的に無視しようとしたのにもかかわらず、その後、自らの愉悦と興味従って、彼女と言葉を交わし、勝手な期待まで抱いた自分が、阿保らしくて仕方が無かったのである

 滅多に抱くことのない自己嫌悪は、彼の心理に大きな影響をもたらすと考えられた。しかし、彼の軽薄な精神は一瞬にして、自らの非難する心理を溜息と共に捨てた。

 けろりと重苦しい感情を捨て去った彼は、ポケットに手を突っ込んで階段を上がり始める。彼女とのやり取りで、時間は知らず知らずのうちに消費されており、見知らぬ明野さんとの約束の時間となっていた。したがって、彼はポジティブに先ほどの女生徒とのやり取りを捉え、軽い足取りで、意気揚々と孤独な階段を上がっていった。

  

 三棟三階は一階と同様に孤独が漂っていた。加えて、窓より差し込む秋暮れの濃橙色の西へ落ち行く陽が、沈黙をより強調していた。

 酷く寂しい陰りが空き教室しかない冷たい階を満たし、唯一の音源となった藤野の心持に微かな影響を与える。肺は窮屈で陰湿な空気に満たされ、その空気は血液循環に従って全身に伝わり、心理を司る脳に寂寞を覚えさせた。この寂寞は先ほどの一件によって揺らぎ、自らを省みることによって軽薄な克服を得た彼の精神を再び揺るがすこととなった。言いようの無い自己嫌悪が浮かび上がり、彼の足音はいつの間にか廊下中に響くものとなっていた。

 無意識下で意識的な苛立ちが生じた彼は、胸騒ぎに従って髪をかき乱した。

 もっとも、かき乱したところで彼の髪は、はらりと元の場所に戻り、美しい白色を夕暮れに輝かせる。そして、この輝きは彼の心をより乱すのである。美しくもありながら忌々しい自らの髪に腹を立ててしまう自分の行動に、彼は顔を歪める。自分の行動で、自分に腹を立てる様は、これを見た者に奇妙と滑稽、二つの印象を抱かせるであろう。

 極めて馬鹿らしい感情の堂々巡りに際して、彼は立ち止まり、溜息を漏らす。全てが巡り巡って同じ行動を取り続けていることに、自ら辟易したのである。感情に関する進展が見られたかと思えば、すぐさま停滞し、結局のたどり着いたところを振り返ってみれば、元々の自我であったのだ。

「……滅茶苦茶だ」

 普段の調子と著しく異なる自分に、藤野は長めの前髪を弄りながら独り言を呟く。誰にも届かない寂しい独り言は、一切の形跡を残すことなく廊下に消えていった。

 しかし、消えた音の代わりとして誰かの鼻歌が彼の耳に届いた。寂しく冷たい孤独な廊下に、女性の鼻歌は音量の割に良く響くらしい。

「The End……。珍しい」

 意図せず藤野の好みの音楽を奏でている女性であろう人に、彼は微かな賞賛を送った。そして、彼の表情もまた意図せず和らいだ。

 ドアーズが紡いだ妖しい音色をなぞる誰彼の音は、冷たくなった彼の心を微かに和らげた。平生を取り戻したとは言えないが、少なからず理性的な態度を示すことが出来るようなった。

 日常的な体裁をある程度、定着させた彼は帯を締めるために深呼吸をする。かび臭さを含む冷気が肺を入れ、二酸化炭素を排出すると、彼の心は目的の人に対して無礼を働かないような姿勢を体中に張り巡らせた。

 呼吸も、発汗も、心拍も、生理現象の全ては日常に収束し、彼は一歩、また一歩目的の空き教室に近づいた。そして、近づくたびにかの鼻歌の音量は増してゆき、彼が教室の扉と相まみえると、最大の音が彼の耳にもたらされた。

 平常の中に自分を置く彼は、人に向ける笑みの中で最も柔和な笑みを浮かべながら、一切の躊躇ない無く、がらがらっと音を立てて扉を開けた。

 しかし、扉を開けた途端、彼の笑みは崩れ去った。

 彼は動揺して、表情を崩してしまったのである。もっとも、表情を崩したと言っても、彼が持ち合わせるポリシーに反するほど馬鹿らしい表情を浮かべたわけではない。彼が浮かべていた笑みが、慄然とさせる緊迫により真っ白になっただけである。彼は真っ白な表情を浮かべて、背を向けながら、赤々とした夕焼けに向かって鼻歌を歌う女生徒を見つめたのだ。

「……どうして、貴女が?」

 ぽつりと呟く藤野に、黒髪の少女は振り向きもせずに鼻歌を歌い続ける。

 舞う埃が夕陽によって姿を現す中でも、少女の鼻歌は美しく鳴り響く。

 しかし、彼女の奏でる音色が彼の脳に浸透することは無く、呆然と彼女を見つめるだけである。吸い込まれるようにその人を見つめるのだ。見惚れるわけではなく、ただ驚きによる衝撃の余韻が彼の行動を固定化し、彼のただ一つの目的すら忘却させるのである。したがって、彼の心理が自分を無視する彼女に対する苛立ちを覚えることは無い。本来は抱かなければならない衝動すらも、彼から消え去ったのである。

「This is the end, my only friend.」

「……」

「また黙ってる。もしかして、私のこと嫌い? まあ、あんたに嫌われてても別にどうでも良いんだけどさ。美少年だし、何より私と趣味が合いそうだし」

 歌い終えた少女は、身のこなし軽く振り返ると適当な意地の悪い笑みを浮かべる。嗜虐的な成分を含んだ彼女の笑みは、悪魔的で、加えて彼が最も嫌う男をたぶらかす誘惑の意味合いすら持ち合わせている。

 クスクスと笑い続ける少女を前にして、藤野は遂に思考を取り戻した。今にも歪み、醜悪な形になろうとする理性を何とか整えて、彼女と、明野さんと相対した。しかしながら、表情は相変わらず真っ白であり、彼が持ち合わせる余裕は消えていた。

「黙ってばっかりだね、あんたはさ。さっきもそうだったし、今もそうだ。黙ってばっかりいちゃ、何にも伝わらないよ。もし、何かが伝わるとしたらそれは臆病だけだよ。君が私に対して慄いている臆病しか伝わらないよ」

 余裕が消失した藤野であったが、少女の言葉に彼の精神は反射的に力強く反応した。

「臆病? ふざけてもらっちゃ、困るよ。俺はあんたに臆病なんて抱いていないよ。俺にとってあんたなんて歯牙にもかけてない下らない存在だ。お前みたいな真面目しか取り柄が無いような人間は、そびえたつクソだよ」

 藤野の力強い反応は、少女の口角を高く上げさせた。その笑みもまた、美しく悪魔的であり、彼の苛立ちを増幅させる作用を持ち合わせていた。

「ふーん、けどあんたは今、私を意識している。その時点であんたは、あんたの言葉を否定している。つまり、あんたの主張は破綻しているんだよ」

 苛立ちの増幅は表情だけではなく、藤野の仮面の裏を突く少女の言葉によっても増幅された。これにより、彼は情事の際にしか見せない感情的な表情を見せた。

 だが、感情的な表情を見せたところで胸の内より湧き上がる罵詈雑言をぶちまける権利を彼は持ち合わせていない。なぜなら、彼女の言っていることはすべて正しく、彼女の妖しい笑みはこれを裏付ける証拠となっているのだから。

「良いねえ、その表情。本当に良いよ。SNSで見つけた時から、ずっと見たかった表情だ。その悔しいけれど、何にも言い返せない感じ、ほんとに良いよ」

 下弦の月のようににんまりと彼女は笑う。その上、彼女の挑発的な言葉は藤野の突かれたくない心の内を的確に突き刺さっている。このため、彼は激昂を抱こうとも、これを表情で示す他なかった。感情的に彼女を非難することも出来たであろうが、彼は彼自身の美学に従って、性格の悪い彼女を見つめ続けるのだ。

 彼の胸中には苛立ちが積もり、彼の肺を概念的な埃で満たした。肺胞は肥大化し、ガス交換を妨げてしまう。これは彼の中の感情の新人代謝が起こらなくなるのと同意であり、廊下物が新しい組織に取り替えられなくなり、彼が有する感情のキャパシタンスを超えてしまうのである。理性によって定めた彼の感情の標準など、本能による衝動を前にしたとき、容易く壊れてしまうのである。

 決壊した感情の壁は、彼に衝動という形で暴力的な言動を取らせる。

 映画の悪役のように高笑いをし続ける彼女に、彼は足早に大股で近づくと、彼女の右腕を掴み上げる。そして、眼を尖らせ、睨みつける。長めの前髪が邪魔し、冷たい彼の眼光は多少なりとも軽減されているが、それでもなお蛇の睨みと同程度の痛みを持ち合わせている。

 唐突な彼の感情的な動きを前にして、彼女は下弦の月を収める。

 しかし、彼女は臆することなく、むしろ彼の目を睨み返す。

「意外だね。感情的な行動を取らない人間だと、あんたを見ていたんだけど」

 そして、嘲笑を交えながら言葉を紡ぐ。

「……」

「ちょっと黙ってないっで何か言ったら? あと、右手、痛いんだけど」

「黙れ。喋るんじゃない」

「ちょっと、痛いってば」

「……」

「分かったよ。黙るから、離してよ」

 痛がりながら困惑する少女の言葉を前にして、藤野は彼女から手を離す。圧力によって赤らみを帯びた手首を彼女は、いたわるように、そして痛みを誇張するように、実に演技っぽく摩って見せる。

 わざとらしい彼女の動作は、感情に強張り、真っ白になっていた彼の表情を緩やかにする。どうやら、彼のサディズムに彼女の演技は刺さったらしい。しかしながら、このサディズムの作用は、怒りによって我を失っていた彼を現実に引き戻す役目も持っていた。したがって、彼は自身の美学に背いた自らの行動を恥じた。それは彼にとって究極的な恥であり、常に冷静であることに重きを置いていた彼のプライドの存亡にかかわることであった。そして、何よりも自分に心の平静さを失わせ、身勝手で自分本位な本能を恥じた。

 彼の内面には苛立ちの代わりに、自分自身に対する恥じらいが積もっていった。赤熱する鉄粉が如き恥じらいは、彼の胸を傷つかせる。そして、傷は膿を持ち、彼の心を痛ませる。鈍重な内部から生じる形而上の痛みは、彼の口を、その痛みより逃れるように動かす。

「それで、君は俺に何の用があるんだ? 何のために俺をここに呼んだんだ? どうして牧を通して俺を呼んだんだ?」

 口早に、浴びせるように疑問を紡ぐ藤野の表情には息苦しさが混じっている。

 これを彼女が見逃すことは無い。

「やっぱり、余裕無いじゃん」

 演技っぽく手首を摩っていた彼女は、再び下弦の月を浮かべると彼の疑問を歯牙にもかけない体裁を取った。

「……ああ、余裕なんて無いよ」

「やっと、本音を吐いてくれた」

 これ以上の愚行を侵したくない藤野は、内面の痛みをこれ以上産まないためにも、プライドに反する本音を吐露した。彼の悔し気な声音に対し、彼女は安堵と喜びの中間をとったような笑みをと共に言葉を紡いだ。

 彼女の声音は彼の心理を苛立たせる方向で作用した。

 もっとも、彼はこれ以上の恥をかくことはまっぴらであった。したがって、保身的な理由であるが、彼は衝動的な言葉を漏らそうとする口を閉じたのである。

「それで、どうして君は僕を呼んだんだ?」

 暫時、二人は見つめ合い、互いに腹の内を探ろうとした。

 けれども、動揺している藤野からすれば見透かされるのは自分だけであると決断し、自ら沈黙を破った。これに少女はくすりと自然な笑みを浮かべる。他意の無い極めて自然な笑みである。

「さっき言った通りだよ。あんたに一泡吹かせたかっただけ。気取ってる奴が嫌いなんだよ。変な音楽好きとか、カルト映画好きとか、クールぶってる奴とか、自分じゃ何にもできない癖に他人の力とか環境の力を借りて偉ぶってる奴らがことごとく嫌いなんだよ。だから、そんな奴に一泡吹かせたくって、あんたをここで呼んだわけよ」

 つらつらと藤野を呼んだ理由を語る少女に、彼は眉をしかめる。それは自分がその他大勢の人間と同じ括りにされたことに、苛立ちを覚えたためである。

「それだけか?」

 感情の怒涛をグッと飲み込んで、藤野は何かを包み隠している彼女に問いかけた。

「いいや、違うよ。もちろん、それも理由の一つだけどさ。あんたをここに呼んだ理由は、あんたのSNSを見つけただからだよ。簡単な詰将棋を問題に出して、やり取りできる人間を厳選してるあんたのSNSを見つけて、あんたの自撮りにそそられたからあんたをここに呼んだんだ。白い髪、しなやかな体、上気する肩、風呂上がりの写真なんて見せられたら呼び出したくもなるでしょ。性に囚われた人間なら分かるでしょ? 淫売君」

 煙を巻くようにつらつらと言葉を並べる彼女に、藤野は疑念を覚える。しかし、疑念の印象は薄く、それ以上に彼は彼女が紡いだ最後の言葉に対する苛立ちに覚えるのであった。

「俺は淫売じゃない。俺は陰間だ」

「詭弁でしかないでしょ」

「詭弁じゃない。俺は俺の認めた人間にしか体を売ってないし、自撮りも見せてない……」

 苛立ちが漏れ出しながら言葉を紡いでいた藤野であるが、SNSの設定とそこに載せている妖艶な肉体的な自撮りを彼女の言葉から思い出した瞬間、言葉が詰まった。

 舌と声帯が動かなくなった瞬間をとらえた彼女は、再び悪戯っぽい笑みを浮かべる。

「それじゃ、私もあんたに認められた人間なんだ」

「……まさか、女であれを」

「男女差別は良くないよ。まっ、興味本位で調べて解いたんだけどね。だから、あれが解けたのは偶然の産物かも。でも、私はあんたの問いかけたことを解いた。そして、あんたの言う選ばれた人間になったわけだよ」

 鼻を鳴らす彼女に、藤野は驚くばかりである。そして、驚きは彼から言葉を失わせた。

 何も言えなくなった彼の胸板を彼女は人差し指で小突くと、下から見上げた。

「それで君を買おうとしたわけだよ」

 そして、得意げな笑みを浮かべた。

「朝はあんなことを言ってたくせに、ルールを守っていないのは君の方だ。明野さん」

 狼狽えながら藤野は、初めて少女の名前を紡いだ。

 朝ではイヤホンを奪い、下らない争いを繰り広げ、先ほどは極めて苛立たしい言動を取って見せたその少女の名前を彼は吐き出した。

「馬鹿言うなよ。こいつは自由の一つだ。それに私の善良な一面は、あんたの淫靡な一面と変わらないもう一つの自分だよ」

「詭弁だ」

「詭弁じゃないさ。少なくともあんたよりは嘘を吐いてない」

 現存在を脅かす明野の言葉に、藤野は苛立ちを覚える。

「俺だって嘘を吐いてないさ。俺は俺の理念に忠実だ」

「いいや、忠実じゃないよ。そう思ってるのは、あんたの主観だ。客観的に見れば、あんたなんて道化師だよ」

「どこが道化師なんだ?」

 無理やり緩めた口で、藤野は問いかけた。

「行動の全部がだよ」

「行動はあんたが観測するものじゃない。他人が観測するものだよ」

 しかし、藤野の答えに明野は瞬間的に反駁した。

「だから、一つだけ進言してあげよう」

 反駁をし終えた明野は、藤野の下から一歩退くと、暮れかけで薄紫のベールを纏った本日最後の陽をバックに、意地悪く、にこりと笑った見せる。

「自分本位に物事を考えちゃいけない。何事にも裏表があるんだよ。人間関係にも、自分自身にでさえね」

「……」

「あんたの仮面と私の仮面のように。そして、私がこれからあんたにすることもそうだね」

 身を軽く翻し、藤野に背を向けた明野は、胸ポケットからスマホを取り出す。

「もし、あんたがこの写真とあんたのしてることを学校中に、ネット中に広められたくなかったら、私に付き従いなさい。それこそ奴隷のようにね」

「お前にそんな影響力があるわけないだろ」

 突飛もない明野の提案に、藤野は呆れながら踵を返す。

 しかし、彼の歩みは彼女の一言によって止められることとなる。

「あるよ。まっ、後者に関しては自身が無いけど、前者に関しては自身があるよ。牧や桑原から聞いたことがあると思うけど、私ってこの学校だと結構な有名人なんだよ。それに信頼もされてる。つまり、私の発信する情報って嘘か誠かわからなくても、影響力を持ってるんだよ。君みたいに、所属するコミュニティを否定し続けた人間とは違ってね、私は学校っていうコミュニティに対して最大限の影響力を持ってるわけだよ。その意味が分からない訳ないよね?」

 止まるところを知らずに明野の口から溢れ出す、裏付けのある言葉を後ろに藤野は足を止めなければならなかった。

「だけど、君がその情報を校内にばらまいたとしたら君だって淫売のレッテルを張られることになる。リスクを考えて見なよ」

 教室の扉を前に、ぴたりと立ち止まった藤野は、彼が恐れることの内の一つである品格の負傷について彼女に進言した。彼の言葉には焦りが見えており、彼もまた自分自身の動揺を明瞭に捉えていた。

「リスクなんて無いよ。人間って意外と馬鹿なんだよ。物事の震源なんてすぐに忘れるんだ。覚えているのは、その影響だけだ。どんなデマだって、最後に傷がつくのはデマの被害にあった人間だけだ。もちろん、本当に深刻な被害があった時は違うけどね。けど、個々人で、しかも社会全体から見たら小さなコミュニティの中の波紋の震源なんて誰も取り上げない。もっとも、震源に注目したところで、私には人望の厚い才女っていうブランドがある。このブランドは他人の信頼からなるものだし、その信頼を築いている中心的な人たちはクラスや学校の人気者。つまり、私があんたのSNSにたどり着いて、あんたの問題に答えて、あんたの淫乱に手を伸ばそうとしたっていう事実は、私が好奇心ゆえにっていう適当な言い訳をもってして片付けられるんだよ。勝手にその人たちが火消をしてくれるからね」

 精神的な動揺の中で紡ぎ出しされた藤野の言葉は、堂々と自らの立場を強調しながら対処法を示す明野にことごとく破壊されてしまった。

 身を守る術を用意周到に準備していた明野の言葉を前に何も言い返せなくなった藤野は、消沈しながら降参の意を示すように両手を挙げる。同時に彼は大きな溜息を吐き、これから待ち受ける運命に一種の諦めをつける。自分がどれだけ足掻こうとも泥濘が如き彼女の策略に溺れることは、目に見えていたためである。

 白旗を見せる彼に、彼女は恍惚とした笑みを浮かべる。それは彼の現存在を飲み込むのではないかと思う程、貪欲で妖艶な笑みである。つい数十分前までは、毅然とした態度で風紀を守ることに加えて、守らせることに徹する姿勢をとっていたのにもかかわらず、今の彼女は大淫婦バビロンと言われても見間違ないが無いと思えるくらいには、悪魔的な魅力を漂わせている。赤紫の高貴な香りを漂わせるウツボカズラにさえ、彼女は見える。

 うっとりとした体裁で下した相手を見つめる同年代の少女に、彼は背筋を凍らせる。これから自分の運命が、自分の手以外に握られているような気がして、今後一生涯自分自身を照らしてくれるであろう太陽が他人によって奪われたような重大な危機感を覚えたためである。一叢の暗雲が彼の心にかかり、彼の表情からは諦めによる余裕が消えてしまう。

 陰りを得た彼の表情は、非情な彼女の目には興味深い観察の対象として映る。

 しかしながら、彼女の好奇心は感情によって動かされる彼を目的としているものではないらしく、彼女は一歩また一歩と彼へと近づき、目元に影を落とす彼の右手を両手で握る。

 冷え切った暮れの秋と精神の高揚による熱により、相反する性質を帯びている彼女の両手は、内外から冷気を感じざる負えない彼の右手を徐々に解凍してゆく。しかし、彼の手が解放されたとて、彼に待ち受けているのは、茫漠として延々と広がる先の見えない恐怖でしかない。虚勢を張って、感情を隠すことすらできない盗人の荒野を彼は進まなければならない。

 彼女の手より伝わる熱が、手指の硬直を徐々に解いて行くと、相変わらず印象の悪い笑みを浮かべる彼女を少年は震える眼で見つめる。彼が抱いている動揺は、今朝、彼が彼女に会ったときに抱いた悪寒と似ており、ある種の運命を感じざる負えなかった。彼に今後待ち受けるであろう、仕打ちを予期させるだけの作用を、彼女は持ち合わせているのだ。

 剥き出しの感情に慄きながら目を合わせる彼、蛇に睨まれた蛙のように慄然とした表情を浮かべたままその場から動けない彼、度胸が据わっているはずなのにもかかわらずそれを放棄している彼、そんな彼の頬を彼女は左手で舐めまわすように撫でる。彼女の手つき一つ一つに妖艶な色が混じっており、もしも彼が屈折した性癖を持たず、冷静な立場にいたとしたら彼の陽物は勃起していたのであろう。しかし、この生理的現象は、もしもの話でしかなく、彼は内心、彼女の手から一刻も早く逃れたかったのである。現存在を絡めとられる前に。

「そんなに慌てるなよ。楽しい時間はこっからだぜ?」

 藤野が抱く逃避への焦燥感を明野は敏感に察知し、ぺろりと舌を出しながら余裕たっぷりに微笑む。

「もっとも、あんたにとっては最悪な時間かもしれないけど」

 内心を見透かされた藤野は、明野に何も言い返すことは出来なかった。

 ただ、頭の中で彼女が悪戯心の内に紡いだ言葉を反芻させ、設問という形での選別しか用意していなかった自らの軽率な警戒心に後悔を抱くだけであった。

  

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