第10話

 スクロールを繰り返し、様々なつぶやきを虚ろな視線で彼は読み飛ばしてゆく。けれども、流れてくるつぶやきの全ては、彼の感情を逆撫でするものしかなかった。煩わしく、苛立たしい全てが書きこまれているものに、彼は辟易とし、大きなため息を吐いた。そして、スマホをスリープモードにすると、再び突っ伏した。

 もはや、彼がやることは無く、放課後の期待に胸を膨らませて狸寝入りをするだけだった。

 授業開始のチャイムと共に起床した彼は、前日から置いておいた教科書とノートを机から取り出し、五限目の地理および六限目の化学の授業を熱心に受けた。眠ることなく、背筋を伸ばし、授業内容を余すことなく脳に刻み付ける作業に従事したのであった。

 彼の授業態度を彼と肉体関係を結んでいる者たちが見たら納得するであろう。ただし、彼の日常生活しか知らない者が見たら噴き出すであろう。何せ、平生の態度とあまりに異なるのだから。

 しかし、彼は自分でも常々言っていた通り、外面は真面目であり、知識に関する好奇心は同年代の中でも特筆するものがある。もっとも、それは名門大学に行くための知識欲ではない。ただ純粋な知識欲である。すなわち、彼は自らを磨くための知識、つまり教養的な知識を彼は嬉々として欲しているのである。そして、彼は自らの欲する知識を得るためには、先達の前では極めて従順な態度を示さなければならないと考えている。何事も傲慢な態度で、斜に構え、全てに突っかかるような態度を示していては何も得られず、むしろ自分が身に着けられるはずであった教養を意識外で切り捨てることになってしまうだろうと、彼は考えているのである。

 したがって、彼は極めて従順な態度で、授業中は取り組んでいること以外を考えず、与えられる知識とそこに生じる疑問を、黄金を受け取るように貪欲に享受しているのである。

 極めて独善的な知識欲のために、彼はあれほど期待していた少女のことを考えることは一切なかった。したがって、時間は世界各国の気候区分や複雑な化学式によって埋め尽くされ、彼はひたすら純粋な心持で時間を消費したのである。

 そして、彼の待ち望んだ放課後が来た。

 ただし、放課後が喜多と言っても現時刻は十六時四十分であり、明野との待ち合わせ時間まで五十分も時間があった。掃除の時間を加味したとしても、二十五分近くの余暇が彼に与えられることとなった。ともなれば、期待の大きさに伴って時間の経過は酷く遅くなることは必至である。

 また、実際、彼は教室を出た後、男子トイレの掃除を終えた後、拷問のような酷く遅い時間を過ごすこととなる。

 掃除場所である三棟一階の男子トイレ前の柱に背を任せて、彼は時が早く過ぎるようにと願いながら、適当なネットニュースを拾い読みしていた。

「あれ、朝の?」

 家庭科室や各教科の教務室のある三棟は、基本的に薄暗く、人の往来は少ない。そのため、三棟に居る生徒は目立ちたくなくとも目立ってしまう。ことさら、藤野のような真っ白の髪を持つ特殊な生徒は、さらに目立ってしまう。

 このため、彼は目立ちたくないのにもかかわらず、人に見つかってしまうのだ。しかも、彼を見つけ、立ち止まり、声をかけてきた女生徒は、朝に出会ったあのセミロングの黒髪と金縁の眼鏡が特徴的な彼女であった。

「……」

「聞こえてないのかな……」

 本人は藤野に聞こえない音量で独り言を呟いたのであろうが、がらんとした薄暗い廊下では、透き通る低めの声は、音声の割に彼の耳に届いた。

 しかし、若干の寂しさを含んだ彼女の音声が彼に影響を及ぼすことは無かった。というのも、彼が聞いた彼女の声というのは、ただの音でしかなかった。彼は彼女の存在に気付いた瞬間、意識を興味のない政治家の不祥事に関するネットニュースに向け、その他の事柄の一切を意識的に排除したのである。また、彼の積極的な拒絶の姿勢は、彼女が自然に自分を拒絶してくれはしないかという彼の願望が含まれていた。したがって、彼は意識を文字の羅列に移していようとも、深層意識では彼女を認識する微かな動きを持っていたのである。

 彼自身も承知していない意識は、彼の視線を微かに動かした。彼の目はいつの間にか、眼前にまで近づいていたセミロングの少女に向いた。

 吐息がかかるほど彼に近づいた少女は、恥じらう様子を見せず、意識的に認知を無効化しかけている彼をジッと見つめていた。そして、反射的に視線を彼女に向けてしまった彼は、偶然にも彼女の瞳を見つめてしまった。

 瞬間、彼は全身に緊張が走った。

「なんだ、やっぱり気付いてたんだ」

「……」

「ここまで来て無視って言うのは、結構酷いと思うよ?」

 こくんと首を傾けながら不服を訴える少女に、驚愕から立ち上がった藤野は苛立ちを覚える。聡明そうな雰囲気、薄いメイクを施した純朴で整った顔、柑橘系のシャンプーの香り、彼女の持つ特徴の全てが彼の感情を逆撫でした。彼の望んでいる女性像に、近似しているのにもかかわらず、どういう訳か彼は逆上した。

 恐れるように緊張して、瞬間的に怒りを宿した彼は彼女の問いかける瞳から目を離した。何も言わず、彼は再びスマホに目を落としたのである。

 あまりにも失礼な応対に少女は、ムッと頬を膨らませる。

「ねえ、藤野君。どうして私のことを無視するのかな?」

 同時に見え透いた怒りの感情を藤野に向ける。

「……」

 しかし、藤野は少女の問いかけを無視する。

「……」

 そして、少女は藤野に呼応するように沈黙を返す。

 強情な二人の間には、沈黙が暫時保たれた。

 だが、酷く残念なことに二人はプライドが極めて高い人間である。したがって、どちらか一方が折れない限り二人は沈黙を保たなければならない。

「……ねえってば」

「折れた。俺の勝ち」

 かくして先に根負けしたのは、少女の方であった。そして大人げない藤野は、少女に目を合わせて、悪意に満ちた笑みを浮かべた。

 感情を露わにする彼の笑みは、穏やかな彼女に感情を暴露された。あからさまな悪意に晒された者は、どれだけ清らかな良心を持っていたとしても心の均衡を乱してしまうらしい。そして、動揺により崩された良心はその心を持つ者の眉間に深い皴を作ったのだ。

 眉をしかめて不機嫌な表情を浮かべる彼女を、彼は底意地悪くせせら笑った。極めて無礼な応対を取り続ける彼の瞳に、彼女は鋭い睨みを利かせる。しかし、ガラスレンズの奥で光る彼女の瞳は、愚かな彼をさらに煽るだけであった。

「俺になんか用でもあるの?」

 気に食わない相手を掌で転がすことに成功した藤野は、陽気な口ぶりで彼女に尋ねた。

 自らの問いには答えず、自分が知りたいことだけを知ろうとする彼の態度はすこぶる彼女の感情を逆撫でした。

「用なんて無いよ。ただ、君がそこに居たから声を掛けただけ。その白髪目立つし」

「……うざ」

 不機嫌に紡がれた彼女の言葉は、気まぐれな作用を藤野の心理にもたらした。しかし、先ほどまでの得意げに笑っていたのにもかかわらず、急に笑みを失い、彼を神経質な表情にさせた作用を、彼女が理解することは出来なかった。

 全貌の見えない作用と、温もりが消え去った彼の表情は彼女の口から語られるべき言葉を妨げた。彼に反駁しようとする言葉は、彼女の臓腑に帰還し、彼女は彼を恐れる目で見つめることしかできなかった。

 場がすっかりさめてしまうと、彼は怯える彼女に舌打ちをした。彼自身、まさか自らの価値を下げるような言動を取るとは思っておらず、口内より発せられた音が嫌に廊下に響くと、彼は自らに嫌悪感を覚えて顔を歪ませる。

「容姿で人を判断するのは、馬鹿のすることだ」

 自らの顔を見せまいと背中を見せる藤野は、彼女の言葉を不機嫌な声音で軽蔑した。

 たった一言で身勝手な認識を彼に持たれた彼女であったが、短絡的な感情を覚えることは無かった。彼女の清らかな心は、憤る人を観察する余裕を持ち合わせていたのである。このため、彼女は彼の華奢な体がにわかに震えていることを認めた。その結果、彼女は彼に同情した。

 自らに情を寄せる視線は、背中越しにも彼に伝わった。そして、彼は名前も知らない、ただ今日あったばかりの人間が、自分のことを理解しようと試みることに彼は強烈な不快感を覚えた。それは彼が、思い込みが造り出す像を嫌悪していたためである。

 薄暗い廊下、うすら寒い秋の空気、辛気臭い埃の臭い、名前も知らない女、強烈な不快感、それらは彼を乱した。乱して、一刻も早くこの場から立ち去りたいと彼に思わせた。及び腰な態度に見えたとしても、嫌悪すべき視線から逃れられるのならば、この女から離れた場所に、理想に近しい女が居る場所に行きたいと思った。

 現実から理想に向く強烈な欲求により、彼のプライドはゴムのように変形した。決して彼女のように折れたわけではない。あくまでも結びつけることが不可能な二つの世界観を、柔軟なプライドを用いて妥協し、近似された世界観を作り出したに過ぎないのである。言い訳のように思えるが、少なくとも彼はそう認知していた。そして、この認知は彼のものでしかないのだから妥協は事実なのである。

 妥協により生まれた新しいプライドは、彼を目的地に向かわせるために、不随的に彼の足を動かす。彼の一方的な会話、一方的な動き、これらは彼女を驚かせはしなかった。彼女の抱く同情は、彼の行動に際して生じるはずの感情をすっかり沈めてしまったためである。

  

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