第9話

 購買でカステラパンと牛乳を桑原に買ってもらった藤野は、適当な会話を終えて桑原と別れると足早に教室に帰った。そして、自分の席に着き、貪るように牛乳とパンを飲み食いして、再び机に突っ伏した。次の授業は移動教室ではなかったため、彼は残された昼休みの間、惰眠に興じることとした。

 しかし、睡眠に入るにはあまりにも周囲が騒々しかった。

 ただし、周囲が騒々しいというのは彼一人の視点から語られることであり、湾曲した表現であるというほかない。高校生としての昼休みの過ごし方というのは、彼を除く者たちが正しく、彼のように寝ていないせいで眠いから眠るという考え方は、二元的な考えから言えば間違いである。したがって、少数派の彼は胸中でぶつくさと周囲に対して問題を感じてはいるが、周囲からすれば彼が問題なのである。もっとも、問題云々の問題からそもそも彼は除外されているのだが。

 とはいえ、彼は環境に取り巻かれる一人の人間である。根本的に問題の外に居ようとも、環境によってもたらされる影響からは逃れることは出来ない。このため、彼はイヤホンを耳に着け、スマホを取り出し、適当なプレイリストを選択して、再び机に突っ伏した。

 ノイズキャンセリング機能の付いたイヤホンと、マゼッパの演奏はクラスの音をすっかりかき消して、彼を自分だけの世界に放り込んだ。彼はこうなればすぐさま眠りに入れるだろうと思い込んでいた。しかし、彼の脳はそう易々と眠ってくれはしなかった。

 超絶技巧のピアノ演奏が彼の頭に駆け巡る。

 そして、彼の眠れない脳はつい先ほどの購買の後、リノリウム張りの廊下を歩きながら交わした会話を思い起こさせる。

『桑原、明野って知ってる? この学校に居る同級生の女子生徒らしいんだけど』

『明野? ああ、知ってるぜ。お前のところのクラス委員長だよ。金縁眼鏡をかけた女子にしては背の高い女子だ。そいつがどうした? まさかとは思うけど、惚れたのか?』

『違うよ。大体、俺は人に惚れない。俺が惚れるのは行為だよ』

『同意義な気もするけどな。それで、そいつがどうかしたのか?』

『今日、呼び出されたんだよ。牧越しにさ』

『へえ、直接言えば良いのに』

『そうだよな。こっちは顔も何も知らないのにさ』

『それはお前の問題だよ。違うクラスの俺ですら知ってるんだぜ。成績優秀で、運動もそれなりに出来て、それなりに可愛くて、そんでもって真面目な人柄で俺たちの学年じゃ有名人だよ。それを知らないのはお前の非だ』

『どうでも良い他人の評判なんて知らない方が、身のためになるだろ』

『保身か?』

『うるせえよ。てか、そんな人がどうして俺に用事があるんだ?』

『お前の不真面目を見かねたんだろ』

『俺は腐っても優等生だ』

『じゃあ、告白だろうよ。女ってのは、顔と態度で惚れて、感情で動く生き物だ。その的がたまたまお前になっただけだろ』

『偏見じゃねえのか?』

『経験だよ。まっ、お前が明野を一目見て気に入ったら、適当に遊ぶでも真面目に付き合うでも良いし、気に入らなかったら懇切丁寧断ってやれよ。そいつがお前の仕事だぜ』

『恋多きドン・ファンのアドバイスありがとう』

『感謝しろよ。けど、忘れるな、お前は脂肪の塊だ』

『好意的に受け取っておくよ、ドミートリイ』

 偏見に満ちた言葉の応酬は、彼の寝顔に微笑をもたらす。

 同時に自分を待つ、名前も知らなかった少女の顔を思い浮かべる。情報は桑原から得た漠然としたものでしかないが、それでも言葉による薄い情報であっても、彼は少女に期待を寄せていた。それは聡明で美しい女性であるという彼の持つ理想的な女性像に、情報より想像できる少女が近かったためである。

 基本的に人間に期待していない彼であるが、その人のことを一切知らないために抱く期待に胸を膨らませた。

 しかし、この期待が膨らむにつれて彼の眠気は徐々に徐々に消えていった。脳に満ちていた靄は、すっかり消え去った。このため潰そうと思っていた時間は無くなってしまい、孤独な暇が彼にもたらされる結果となった。もちろん、彼は桑原か牧の教室に行けば、暇を有意義に潰せることも出来たであろう。

 だが、彼は自ら人の下へ行くことは自分のすべきことではないという面倒なプライドを持ち合わせていた。このため彼は自らの席にかじりつくことしかできないのである。

 寝ようにも寝れず、起きようにも億劫で面倒くさい。こう思った彼は、大儀そうにスマホを取り出すとSNSをスクロールし始めた。いくつかのDMが来ていることを確認したが、今日は性による興奮よりも、まだ見ぬことに対する知的好奇心が勝っているため、DMを見ることはしなかった。

 もっとも、彼にとってSNSは自らの性と承認欲求を満たす道具でしかない。その上、彼はSNSをやっている人間の大半を馬鹿にする傾向がある。政治への荒唐無稽な悪口や、性差別への代替案を示さない身勝手な抗議、支離滅裂な罵詈雑言、面白味を感じない身内ノリ、インターネット上に溢れるそう言った要素全てを彼は軽蔑しており、特にこれが活発なSNSを彼は否定していた。ただし、彼もまたその利用者の一人であることを忘れてはいけない。

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