第18話
服を着て、髪を乾かし、一日の汚れをすっかり洗い落とした藤野は、再度リビングに向かい、リビングに併設されたキッチンにある冷蔵庫から500mlの麦茶を取り出し、一思いに飲み干した。ペットボトルの半分以下しか残っていなかった冷たい麦茶は、彼の喉を潤し、彼の上気する体を冷ました。
空になったペットボトルをゴミ箱に放り込むと、彼はソファに腰を下ろし、ぐったりと背中を背もたれに任せた。そして、ガラステーブルの上に置いていたスマホを手に取り、つらつらと夜半の時間を潰し始めた。
ただし、時間を潰したとは言え、その脳裏には、やらなければならないことが密集にしており、気楽にするべきことは反って彼の気を重くさせてしまった。したがって、ぼうっとしながら都議会の登録議員名簿にアクセスし、明野の苗字を探し始めた。
「あった。明野タカシ。歳は取ってるけど、あの写真と同じ人だ」
議員名簿に登録されてあった明野の父親とうかがえる男性は、写真アルバムに綴じられていた写真よりも白髪と皴が増えていたが、顔立ちや印象は写真と変わらず知的な雰囲気を纏っていた。もっとも、家族写真とは異なり、彼女の父親は外用の柔和な笑みを浮かべており、いかにも議員という体裁であった。
見かけ的には全くもって、その人生に暗い影があるとは思えなかった。
だが、それは彼にとって気に食わないことであった。シャワーを浴びている最中は、彼女の父親の人徳を考えていたが、今の彼女の父親の写真を見た瞬間、どういう訳か嫌悪感が湧いた。彼自身、どうして自分が関係のない人間に対し、向けるべきではない嫌悪を向けているのか理解していなかった。
しかし、彼は自らの理解を超えた中で、つまり感性の下で彼女の父親に対する嫌悪感を抱いたのである。そして、この嫌悪感は彼に限りない原動力を与えた。
したがって、ただ名簿を見て、彼女の父親の所在を明らかにするだけに収めておこうと思っていたストッパーを外して、彼女の父親の経歴を調べることとした。このような決心をしたとはいえ、公職についている人間であり、経歴は公になっているため、彼女の父親の経歴は簡単に調べがついた。そこまで、気を込めることでもなかったのだ。
「前妻とは死別……。前妻との間に娘が一人、今の妻との間にも娘が一人いる……」
明野の父親の経歴をざっと読んでみて分かったことは、政治家一家の血を引いており、学歴も優秀で、家も太いということ。そして、今しがた藤野がつぶやいたヒロイックな生活があったこと。このくらいであった。
清々しいほど優秀な経歴と、それに華を添えるようなありきたりな悲劇の存在は彼の興味を引いた。その上で、自分を陥れた彼女もまた自らの母親を早くに無くしているという悲劇的な経歴を持っていることを知った。
しかし、だが、この経歴があってなお、どうして彼女は自らの母親の顔だけをくりぬいていたのか、彼は理解できなかった。もちろん、家庭の事情が複雑であり、これを規定することは、問題を抱える諸家庭に対する偏見となってしまう。けれども、一般的に考えれば、死別した母親というのは愛おしく思うものであり、一生涯愛すものなのではないかという偏見がある。そして、彼もまたこの偏見に囚われていた。
フィクションでしか目にしたことのない状況と、フィクションの領域を出た彼女の所業について彼は頭を悩ませた。彼としては父親を恨むのだったら、分かる立場なのだ。何せ、父親は彼女の母親と死別した翌年に結婚し、その年の九月には子供をこさえたのだから。その上で彼女の父親は、自分は私立の一貫校に通っていて、自分も親と同程度の資産を持っているくせに、彼女を進んだ勉学の修められる環境に置いていない。そして、何よりも彼女は一人暮らしをしている。まるで、今の妻との生活を邪魔しないように、彼女を厄介払いするかのように。
しかし、彼女は自らの死んだ母親を嫌悪しているように見えた。
「分からね」
考えても分からないことを考えようとする藤野であったが、思考回路を回す前に、彼は思考を放棄した。スマホを再びテーブルの上に投げ、彼は歯を磨こうと立ち上がった。
だが、栄養摂取を軽んじていた彼の体は、血を満足に脳まで送ることが出来ず、立ち上がったその瞬間に、彼をぐらつかせ、再びソファに誘った。
ぽすんと、倒れた彼はぼんやりとする視界の中、一般的な道理から外れている明野の顔を天井に想った。しかし、彼女の顔を想ったところで、彼女がどうして自分の父親ではなく、母親を嫌悪しているのか、その理由が見えてくるわけではなかった。
ただ、彼は彼女のことを理解できなくとも、微かな共感を得ることは出来た。
父親ではなく、母親を嫌うこと。
自分の勝手で、子供を作って、子供を手放す淫売婦。
歪んだ彼の母親像は、理解できない彼女の思想に彼を微かに近づけた。
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