第17話

 一日の汚れをすっかり洗い落とし、体全体を清潔に保つ入浴という行為を藤野は好んでいる。同時に入浴中に、今日起きた出来事を整理することも彼は好んでいる。誰にも邪魔されない密閉された心地よい空間で、一日のことを振り返ると自然に出来事が頭に溶け込み、一日を保存できるためである。もっとも、この一日を保存しておいて何に役に立つのか、彼自身理解していない。

 しかし、彼は役に立つことが分からないことも好いている。それは意味のないことが自分に似ているからである。

 だが、数奇なことに彼の小さな習慣は、思ってもみなかった出来事を前にして役に立つこととなった。

「……都議会議員ねえ」

 藤野は今日与えられた恥辱を無視しながら、今日得られた憎き魔女に対する情報を整理し始めた。写真アルバムからうかがえる複雑な家庭環境、親の肩書と家からうかがえる裕福さ、そして家族の話題に触れられた時だけ彼女が見せた動揺。それらの情報を集め、一通り記憶の本棚にしまい込んで、ある程度整理が着いた時、彼の口からは彼女の父親の肩書が紡がれた。ことさら、彼がその言葉を発した意味は無かった。彼はほんの無意識に、その言葉を紡ぎ出したのだ。

 しかし、彼が無意識のうちに発した言葉は、彼の思考の方向性を定めた。

 つまり、社会において清廉潔白なイメージを保たなければならない代議士であるのにもかかわらず、自らのイメージを崩すような家庭を彼女の父親が持ち合わせているのか、という彼女本人から離れた彼女の環境について、彼は考え始めたのである。

 だが、これを考えるとき、彼の脳裏には自らのコンプレックスを嫌でも見なければならない。情緒を揺れ動かされた一日の終わりに、この作業をすることは精神的に堪えることである。そのため、彼は彼女の父親に関する話題を頭の中で一瞬引っ込めた。

 しかし、彼はこれをやらなければならないと、即座に判断を覆した。どの道、惨めったらしいコンプレックスはいずれ解決しなければならないと考えていたし、ここで引き下がって自らの自由を奪った彼女の思うままにさせたくなかった。したがって、彼は奥歯を噛みしめながら、彼女の父親について考え始めるのであった。

「家庭不和」

 持ち得ている情報だけを用いて、彼女の父親を考えた時、真っ先に思い浮かんだのは、藤野がボソッと呟いたその単語であった。

「でも、印象が……。いや、政治家なんてそんなものか?」

 しかし、藤野は市民を代表する政治家が自らの家庭を危うい立場に置いているとはとても考えられなかった。

 眉間に皴を寄せ、突発的な単語に懐疑的になる彼は、ワンプッシュ分のシャンプーを泡立て、髪を洗い始める。そして、瞼の裏に二時間ほど前の光景を思い起こす。彼女の動揺した声音と、自らの深い場所に触れられることを拒む態度を、彼は鮮明に思い出す。

 魔女の余裕が崩れた時を思い出すと、彼の発した懐疑的な言葉は徐々に現実味を帯び始める。

 ただし、彼はそれが正しいとは微塵も思っていない。

 ここで彼が現実味を帯びていると感じているのは、あくまでも自らがこれを現実として受け入れることにより、思考を規定化し、自分が納得できる結果を導こうしている他ないためである。したがって、彼はその可能性も一理あるとだけ認識し、再び思考に耽り始める。

「妹。けど、あんまり似てないような?」

 泡のついた髪を洗い流し、トリートメント、コンディショナーと手際よく髪の手入れをした藤野は、次にボディーソープを手に取って、優しく体を洗い始めた。陰毛を剃った陰茎、牧の陽物を挿された穴を丁寧に洗いながら、彼は急に浮かんできた明野の妹についても考え始めた。

 彼女の妹は彼の記憶が正しければ、彼女とあまり似ていなかった。だが、彼はどうして彼女と彼女の妹が似ていないのかと問われたとき、明確な回答が出せる自信は無かった。彼が持ち合わせる似ていないという感覚は、漠然としており、感覚に頼ったものでしかなかった。

 理論的ではなく、あまりにも直感的な彼の彼女の妹に対する印象は偏見でしかない。しかしながら、偏見を抱いたということは、少なからず自らの感性が理性と結びついて、理論的には分からない何らかの差異を彼が見つけたということである。

 誤差かも分からない上に、彼女の妹の名誉を傷つける可能性のある事柄に思考を割くの馬鹿々々しいと彼は考えた。しかしながら、これを思考に定義し、彼女の家庭を考えると、早急に答えが出るのである。

 しかも、それは彼のコンプレックスと酷似する解である。

「離婚……」

 解である言葉を発した際、石鹸の香りの泡を洗い流す藤野は二の腕に爪を立て、軽い自傷行為を衝動的に起こした。ほとんど発作的な行動に、彼は醜く顔を歪める。そして、沸き立つ怒りと、この程度の言葉で怒りを覚える自分に憐れみを覚える。

「下らな」

 自己嫌悪を覚えた藤野は、大きな溜息を吐き、力む手を緩め、シャワーを閉めると脱衣所に出た。そして、腰にバスタオルを巻いて、曇る洗面鏡を見つめた。

「髪、染めようかな……」

 水をたっぷり含んだ白髪を弄り、憎悪の眼差しで洗面鏡に映る自分自身を藤野は睨みつけた。迸る殺気は、彼自身に向けられたものであった。

 だが、彼は自分を殺したくはなかった。それは自己の在り方を隠したくないのと同意義である。したがって、彼が自分に向けて呟いた一言は、出来もしない戯言であり、自分自身に向けている殺気も自己満足の他なら無かった。

 意味のない精神的な自傷であったが、これは彼の精神に安定をもたらした。結局のところ、自分が下らないことを言っていることに、彼は分かっていた。そして、この理解が彼に自らの中に生じた感情を俯瞰的にさせ、自分がいかに馬鹿らしい情を抱いていたのかを分からせた。そして、一刻も早く、何事にも理性的な判断を下せる人間にならなければならないという無機的で、何回も彼が抱いてきた決意を再認識させた。

  

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