第16話

 帰路に就いた藤野は、とぼとぼと郊外の夜道を歩いていた。明野の暮らしている渋谷に比べれば、人気のない板橋の夜は暗かった。晴れているのにもかかわらず、星一つ見えない寂しい住宅街は、彼の心をこの世から離すようであった。自由な世界へ、誰にも縛られない世界へ、自分が最も生きやすい世界へと、この夜が導いてくれそうな気がした。

 もちろん、住宅街の夜が彼を自由な世界へと解き放つわけではない。彼が自由な世界に飛び立つためには、少なくとも彼を繋ぎとめている魔女との契約を破棄しなければならなかった。

 自分を取り巻く一つの現実を唾棄することの難しさは、彼が一番理解していた。したがって、彼の足取りは重くなった。その上、彼女の住まう高層マンションの後に見る我が家は、どこかみすぼらしく見えてしまった。ドイツに出張に行く前まで共に暮らしていた暖かな家庭の象徴であったが、彼の印象は階級の異なる生活を送る彼女の印象により上書きされてしまった。もっとも、彼が過ごした家庭の記憶が消えたわけではない。

 ただ、あまりにも武骨で、普通の造りをしている鉄筋コンクリート造りのマンションの一室が、高潔な精神を持ち合わせる優しい叔父の家だと思うと虚しくなったのである。淫らな行為を求める背徳者たる彼女が、あれだけ良い生活を送っているのにもかかわらずだ。彼はこの世の不条理を認める立場を取っていたが、いざ目の前にその問題が現れるともののあわれを抱いてしまった。

 一人暮らしには広すぎるマンション、叔父と叔父の妻と暮らしていた家、心安らげる唯一の場所にたどり着いた彼は、土間に靴を放るように脱ぎ棄てると、そのまま薄暗いリビングのソファに横になった。生活により薄汚れたソファであったが、彼はその生活の残り香を愛していた。このため、彼は安堵の息を漏らして、ぼうっと天井を見つめる。

「……まさか、女が居たとは思わなかった」

 そして、藤野は自分の稚拙な行為に溜息を吐いた。

「馬鹿じゃねえの。こんなの、始めるときから予想できただろう? て言っても、誰が返してくれるわけでもないか……」

 寂し気な虚しい言葉を呟いた藤野は、寝返りを打ち、懐からスマホを取り出す。

 それから、自分の現状を生み出し、自分の稚拙さを証拠として残すSNSを開き、DMを送ってこれるようにこちらから設定した数個の特別なフォロワーを眺める。その者たちは、全て彼が設定した詰将棋を応用した問題を解いた、彼に言わせてみれば優秀で理性的な人間である。少なからず、こういった類の問題を解ける人間は理性によって生活しているのだろうと、過去の彼は考えていたのである。その上、自らのプロフィールにゲイであることを明記しているため、彼は自らをフォローし、自らが出題す有象無象の人々は全て男性だと高をくくっていた。

 しかし、それは結局のところ、彼女の存在によって覆り、複数人の特別なフォロワーについて彼は懐疑的になった。そして、これ以上自分の自由を侵害されたくない彼は、自分と一度は性交渉をしたことのある人物だけを残して、その他の特別のフォロワーは全てブロックした。そして、人を釣るために投稿していた、目元を手で覆いながら自撮りした上裸の写真も全て消した。

 自らの稚拙な証拠を全て消し終えると、彼はそのままネットサーフィンに興じる。鬱陶しくへばりつく日常を、忘れたかったのである。忘却して、今日から始まる最悪な日々を意識の他に置いて、かつての日常を取り戻したいのである。

 しかし、受動的に日常が彼の手に戻ってくるわけではない。彼が望む日々を魔女の手から取り戻すためには、意識的に動かなければならないのである。このことを彼は理解していたし、彼は魔女に一撃を与えるための何からの行動を起こさなければならないと考えている。

 だが、彼も人間である。

 退屈で面倒くさい現実の問題から目を逸らしていたいのである。だからこそ、彼はぼうっと、何も考えずに、ネットの有象無象が発信する極めて下らない情報を摂取するのである。

 青白いスマホの光が、暗いリビングを照らす。

 白髪の少年は死んだ目でスマホの画面を見つめる。

 暫時、ホラー映画のワンカットの光景がリビングに広がる。

「……めんどくさ」

 無意味に時間を消費し、これに飽きた藤野は大きな溜息を漏らしながら立ち上がった。そして、ガラステーブルの上に置かれた電灯のリモコンを取り、灯りを部屋に灯した。

 彼はやらなければならないことを、自由を得るための行動を起こすのだ。昨夜のこともあり疲弊している体は、疲労を脳に訴え、眠気を彼にもたらすが、彼はこれを拒絶して、明野のことを知っていそうな桑原に電話を掛ける。

「……かけ直した方が良いか?」

「どっちでも、俺は別に話せる余裕あるしよ」

 艶やかな女性の喘ぎ声が、電話越しに藤野の耳に入ってきた。また、電話を取った桑原の声は、途切れ途切れであり、熱っぽく荒れた呼吸の中で紡がれていた。

「お前が良いんだったら良いよ」

「でも、手短に頼むぜ。やることやってる最中なんだからよ」

「だったら電話を取るなよ」

 情事の最中に電話を取るという恐ろしくデリカシーの無い人間に、藤野は溜息を漏らした。

「馬鹿言え。お前に嫌がらせが出来るチャンスなんだから取らない訳ないだろ」

「性根が腐ってる」

 快楽に悶える女の喘ぎ声と、嗜虐的な笑みを浮かべているであろう桑原の性格の悪さに藤野は眉間をしかめる。まさか、自分のことを買っている不道徳な人間が、強烈な嫌がらせを実行に移す人間だとは思ってもみなかったのである。

 しかし、よくよく考えてみれば理性の下で、肉体的な快楽を享受している人間ならば、そういった人を虐げることより快楽を得ようとすることは容易に考えられる。したがって、今現在、彼が感じている嫌悪感も彼の不注意に由来するものであり、夜も更けているというのに、性に素直な少年のことを考えなかった浅い思慮にも原因を持つものである。このため、彼は自身に不快感を与える少女に一泡吹かせようと思って行動を起こしたのにもかかわらず、彼は反って自らに不快感を与えてしまったのである。

 予想外の反作用に際して、彼は大きな溜息を漏らした。そして、出来る限り不快な喘ぎ声を無視して、愉快そうな桑原の声に注力しようと心がける。彼にとって、女の喘ぎ声は、夏の夜の枕元で聞こえる羽虫の羽音と同じ生理的な嫌悪感を覚えるものなのだ。

「じゃあ、手短に一つだけ聞かせてくれ」

「ああ、良いぜ。こっちの具合も丁度いい感じだからな。お前のそれには劣るけど」

 ため息交じりの藤野の待遇に居る桑原は、彼をせせら笑う。

「黙れ。お前の売女と俺を一緒にするな」

 そして、藤野はおふざけが過ぎる買い手に、信じられないくらい低い声を漏らす。

「喘いでるときは可愛いんだけどな」

「黙れよ」

「黙るから、早いことしてくれ。じゃないとこっちが持たない」

 うるさく愉快なソドムの住人が黙ると、電話越しに女の喘ぎ声が絶え間なく聞こえてきた。これは藤野の眉間の皴を、著しく深くさせることとなる。極めて強烈な不快感を彼女の声に抱く彼は、この声をかき消そうと口を動かす。

「明野の親のことで、何か知ってることがあったら聞かせてくれ」

 口早に藤野の口から紡ぎ出された問に、桑原は昂る興奮の中で、低い唸り声を鳴らす。この唸り声は、彼の抱いている不快感を微かに和らげる。そこに知性を感じられ、エクスタシーに達しそうな荒ぶる感性を、理性によって意識的に捉えているためである。したがって、彼の眉間に彫り込まれた深い皴はその底を上げた。

「知ってることなんて無いな」

 ひとしきり唸って桑原が発した言葉は、何も知らないことを端的に示す言葉であった。

「無いのかよ」

 そして、藤野は熱っぽい声で分からないと告げてきた桑原に落胆する。

 一方的に期待されていた桑原からすれば、彼の落胆は自分勝手なものであり、自らが今感じている性行為による生じている艶やかな熱を冷ますものでもあった。しかし、彼による干渉が無くとも、目下彼女の行っている性行為について彼は理性を残している。

 したがって、熱が冷めたと言っても、それは微かでしかなく、桑原の絶頂を止めるには足りないものでもあった。このため、桑原は相変わらず自分の陽物を玉門にぶつけたし、快楽を得ることを止めようとはしなかった。むしろ、理性が盛り上がったため、桑原はより今を楽しもうと、より残虐にこの行為を楽しもうと試みたのである。

 だが、この試みを始めようと思った矢先、桑原は明野に関して知っているただ一つのことを思い出した。そして、急に熱っぽい低い声で「あっ」と呟いた。

「いや、一つだけ知ってることあったわ。あいつの親父さんは、確か都議会議員だ」

 唐突な桑原の回答を聞くと、藤野は大きなヒントを得られた達成感を得た。同時にこれ以上、桑原と通話していても自らの不快感が増してゆくだけだろうと直感的に感じた。

「ありがとう。じゃあ、よろしくやってくれよ」

 だから、藤野は別れの挨拶を切り出すと、桑原の返事を聞かずに一方的に電話を切った。耳には女の甘く熱っぽい喘ぎ声が微かに響いており、彼の中に嫌悪を生じさせる。

 だが、その一方で知り得なかった事実を得られたため、彼は微笑を浮かべる。

 そして、彼は微笑を浮かべたまま風呂場に向かった。

  

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