第15話

 一方的な知識の所有により立場の逆転した二人であったが、その後、二人間に会話は生じなかった。清純な制服で隠されていた豊満な肉体を見ても興奮を示さない藤野に、女王様の上々だった気分もすっかり冷めてしまい、彼女はバスルームに戻り、再び体を温め直すと、上下真っ黒の有名スポーツブランドのジャージに着替えた。長いこと使っているのか、彼女の着用したジャージはくたびれていた。しかし、服装によるだらしなさがマイナスポイントとして彼女に付与されていようとも、生来の彼女の美しさがその印象を上回っていたため、印象の落差は生じなかった。

 この間、彼は彼女の蔵書を適当に取って、読書に耽っていた。読書をするには短い時間であり、読めるページも限られていたが、先ほどから心が乱されっぱなしだった彼からすれば、心を落ち着ける良い時間となりえた。もちろん、彼女がシャワーを浴び終え、洗面台が設置してあるバスルームが開くと、彼女の足を舐めた口を彼は足早にゆすぎに行った。彼女は彼の行動を止めなかったし、むしろ衛生的な判断が出来る人間だという風に彼を認識した。

 そして、口をゆすぎ終えた彼は直帰する訳ではなく、再び彼女の部屋に戻った。奴隷としての根性が身に着いたのか、それとも単なる礼儀のためかは分からないが、ともかく彼は再び戸を開けて、一人用のソファに腰かけ、スマホを弄る少女に向かい合ったのである。

「それじゃ、俺はこれで帰る」

「うん、それじゃあね」

 わざわざ出向いたのにもかかわらず、部屋の主は眼鏡を手に振るだけで、視線はスマホに集中していた。あまりにも素っ気ない女王の対応に、藤野は苛立ちを覚えた。

 だが、この場から何か誓約を交わされるわけでもなく、無条件でされることに彼は喜びを覚えたため、この苛立ちを抑え込んだ。そして、彼は彼女の言葉に従って、彼女に背を向けた。

 しかし、背を向けた段階で彼の脳裏には、あの奇妙な家族写真が思い浮かんだ。そして、今まで分かりやすい動揺を示さなかった彼女が、家族という一点を突かれたときのみ非常に分かりやすい動揺を示したことも、彼の脳裏にありありと描写された。そして、ほんの十数分前まで抱えていた彼女に対する同情心も蘇った。彼女は、彼と自分との関係を主従関係と割り切っていた。

 だが、彼は彼女に対して同情心を抱いてしまった。これに加えて、自らが作った問題を解き、自らを買う権利を彼女が保有しているという事実がある。前者に関しては言うまでもないが、後者に関しては彼の価値観が大きく揺らぐことであった。もっとも、価値観が揺らいだところで十数年来積み上げてきた価値観が崩れ去るということは無い。けれども、彼の信条に即して考えた時、彼女もまた彼の認めた知性ある人種という枠に区別される。したがって、彼女が彼に興味を持ったように、彼も彼女に興味を持ったのである。それも、彼女が興味を持った理由と共通する部分でもある。

「家族はどこに住んでいるんだ?」

 だから、藤野は自らの興味に従って余計なことを尋ねてしまうのであった。もちろん、彼は彼女が気を悪くして、この反動として、アンモラルな命令を下してくるかもしれないと恐れていた。すっかり、彼は自らが女王の奴隷であることを理解していたのだ。

 物わかりの良い人間であるがゆえの恐れであるが、それを差し引いてでも彼は彼女に、彼女の家庭について尋ねたかったのである。自らの立場も踏まえて。

「新宿」

 興味本位ながらも微かに震える声で問い、藤野はその反動性を恐れていたが、明野は彼の予想に反して淡白かつ短い答えを返した。彼女に背を向けたままの彼は、彼女が一体どのような表情を浮かべているのか、窺うことは出来なかった。このため、彼は即物的な反撃を恐れながら、再び問いかけようと決意する。

 怖いもの知らずの蛮勇は、いかなる時もある一程度の突破力を持ち合わせるらしい。

「一緒に暮らせなかったのか? 山手線で三駅しか離れてないだろ」

「物理的な距離では近くても、精神的な距離では遠いんだよ。だから、一緒に暮らせないの。というか、あんたも私と同じでしょ。もっとも、あんたの場合は両方いないんだろうけど」

「なんで知ってる?」

 誰にも言えていない自らの過去を知り得ている女王に、藤野は震えて、怯えた。だから、咄嗟に振り返って、彼女の表情を窺うことも出来なかったし、彼女に詰め寄ることも出来なかった。

「知ってるよ。あんたの全部。けど、あんたは私のことを何も知らない」

 あまりにも分かりやすい動揺を見せる藤野に、女王様は得意げな笑みを浮かべた。その笑みは彼女の言葉の端々に現れており、彼に対して高い地位を持っていることを嫌味の様に披露していた。

 逆らえない不思議な恐怖の女王様であったが、彼女に何も言い返せない奴隷ではなかった。例え、見えない鎖で体を縛り付けられていようとも、彼は言葉を紡ぐことは出来るのだから。

「いや、少なくともお前に妹が居るってことは知ってる。それにお前が自分の母親が嫌いだってことも」

「それだけでしょ」

 しかし、女王の優位が崩れ去ることは無かった。

 短く言葉を吐き捨てた女王は、むしろ先ほどよりも意地悪く微笑んでいるように藤野は感じ取った。

「それだけじゃ探れない。探れないなら分からない。分からないなら、それは干渉しない方が良い。だから、私とあんたの関係は私とあんたが決めた主従関係に帰結するんだよ。私が全てを決定できるし、あんたに対して振るうことの出来る権力を規定することも出来る。だから、あんたは無知蒙昧で居なきゃいけない。余計なことは何も考えなくて良い。ただ、私の欲求を満たすためだけの玩具となっていれば良いんだよ」

 そして、意地悪な魔女は被虐心溢れる笑みを浮かべながら藤野に現実を突きつけた。

 自らに干渉してくることを極めて嫌う明野の言葉に、藤野は何も言い返すことが出来なかった。彼女の言葉は独善的であり、その態度は傲慢であったが、芯は通っていた。そして、彼女の立場を自分に置き換えた時、彼もまたそういった態度を取るだろう考えたのである。したがって、彼は彼女に何も言い返すことなく、体を強張らせたのだ。立ち去らなかったのは、言えば返される言葉の代わりであった。

「だから、私のことは気にしないで。あんたはあんたの生活を営めばいいの。下らない理論に身を任せて、自分の体を売れば良いんだよ。それがあんたの理論を裏返す理論になるんだからさ」

 暫時、立ち去らない奴隷の華奢な背中を見つめていた魔女は、スマホをソファに投げると、彼の背後に歩み寄った。そして、彼の両肩に手を乗せて、彼の耳元で彼を嘲るように囁いた。

 サディズムを多く含んだ彼女の言葉は、彼を苛立たせた。体の強張りは、強情によるものから憤りを由来とするものに代わり、彼の拳は力強く握られた。

「……黙れ。お前に俺の何が分かるんだ」

 そして、藤野は魔女の言葉に、彼女が抱いていたであろう感情を乗せた重い言葉を返した。

「それは教えられないな。教えちゃったら楽しみがなくなるじゃない」

「顔と体は良くても、お前は醜女だ」

「褒めないでよ」

 自身に対する悪口を無視する明野は、ケラケラと藤野の耳元で笑う。

 彼女の軽い笑い声は、彼の苛立ちをより煽り立てる。

 苛立ちが臨界点に達しようとすると、彼は両肩に置かれた彼女の手を、上体を動かして振り払う。

「俺は帰る」

「じゃあね。けど、忘れないでね。私が主人で、あんたは奴隷だってことを。それだけは忘れちゃ困るよ。何時如何なる時だって、あんたは私の命令を聞かなきゃダメなんだよ」

 藤野にしては稚拙で感情的な行動に、明野はケラケラと笑い続ける。そして、笑い続けながら彼に自分が付与した呪縛を再認識させる言葉を吐く。

 薄ら笑いに織り込まれた現実は、彼の苛立ちを臨界点へと誘った。

 しかし、彼は激情の発露を何とか抑え込んだ。その代わり、彼が玄関へと歩む一歩一歩は、力強く、ドンドンとフローリングを金槌で打ち付けるようであった。そして、玄関の扉を閉める音も力強く、隣人の迷惑を厭わない様子であった。

 理性では抑えきれない動作による感情の発露を、彼は理性の中で恥じていた。どうして自分があの性悪女にここまで弄られて、出したくもない感情を発露せねばならないのか、ままならない現実に対する苛立ちと、それを対処しきれない自分が幼子の様で気持ちが悪かったのである。この自己嫌悪は、熱を帯びる恥へと移り変わり、最寄り駅まで歩く彼の足取りを早め、心臓の鼓動も早めた。

 人肌に温められた生ぬるい不快な秋の夜の空気は、赤熱する彼の心と体を癒すことは無い。道行く人々も、道路を絶え間なく走る自動車も、けたたましい音を鳴らしてひっきりなしに往来する電車の音も、雑音として機能することは無く、彼が抱く羞恥心をかき消すことは無い。

 苛立ちが募り、募った苛立ちが恥じらいへと変わり、鬱陶しい恥じらいが彼の平生を乱す。何もかもが厭わしく、蹴り飛ばしたいむしゃくしゃした感性のみが働きかける感情が彼の中に溢れる。

 しかし、彼は溢れ出す感情を理性の手によって必死に押さえつける。だが、臨界点に一度達してしまった激情を抑えるには、彼が持つ理性の手はあまりにも頼りない。このことを彼は理解しており、長く続かないことは分かっていた。

 けれども、頼りない手段に頼らなければ、彼は自分が何をしでかすか分からなかった。

 だが、彼の取った頼りない手段は、やはりか細く、彼の感情をせき止めることは出来なかった。理性の手より零れだした感情は、彼の涙腺に働きかけた。今まで生きてきた感じたことのない恥じらいは、悔しさへと変わり、涙を生み出したのである。

 ぽろぽろと目から零れ落ちる涙に、彼は嘲笑する。

 たった一人の少女に、ほんの数時間前までからっていた少女に自分の心を乱され、その挙句、器用にこれを片付けられなかったために涙を流している自分が馬鹿々々しくて、情けなく仕方ないのである。

 消えることを知らない渋谷の灯りは、涙に歪んで朧気な光の塊となって彼の目に映る。その光は実に嫌味っぽくて、彼のどうしようもなく縮こまった惨めな心を馬鹿にする。そして、彼は下らない感傷に浸る自らの精神を嘲笑する。あざ笑って、まだ自分が崩れていないと、魔女の手にかかっていないと意地でも思い込もうとする。

 しかし、思い込もうとすればするほど彼は惨めな思いをする。あさましい足掻きをし続ける自分が、ジタバタと足を動かして死を待つ虫けらのように映ってしまうのだ。

 けれども、彼は惨めな思いをし続ける。そうしなければ、自分が彼女に屈してしまったことを、彼女の言葉によって自我をかき混ぜられてしまったことを自覚してしまうから。

 だが、あまりにも惨めな人間に、神様は手を差し伸べてくれるらしい。ソドムとゴモラの罪を犯した者にも、救済の手は差し伸べられるらしい。

「……」

 涙を浮かべる白髪の奴隷は、駅前広場で足を止める。

 それは藤野のスマホに着信が入っていたから。

 しかも、それは彼にとって心を許すことの出来る数少ない人からの着信である。

 彼は嬉々として電話に出る。広場を埋め尽くす人々の雑多な喧しさはどうでも良かった、彼はその人の声を聞きたかったのだから。

「もしもし……」

 聞きたいと願っていても、藤野はひねくれている。だから、極めて不機嫌そうに、まるで電話相手の存在を厭うような調子で声を発した。

「もしもし、元気にしてるかいアキラ君?」

 けれども、電話を取った相手は藤野の調子が全て裏返しであることを分かっているように、クスリと渋い声で笑った。そして、彼もまた悔しさに固まった表情を緩める。

「おかげさまで元気にしてますよ、叔父さん」

 そして、叔父以外には向けないであろう柔らかな語気で藤野は言葉を紡いだ。

「それならよかった」

「そっちはどうですか? もう、すっかり冷え込んでますか?」

「いや、意外と暖かいよ。ドイツの夏は日本に比べてかなり涼しかったから、冬は日本よりもよっぽど冷え込むのかと思ってたけど、意外と寒くなくてホッとしてるよ。ただ、寒いことには変わりないんだけどね」

「体には気を付けてくださいね」

「お母さんが栄養のある料理を作ってくれるから大丈夫だよ」

「それなら良かったです。おばさんの料理はおいしいですしね」

「うん、本当に美味しいよ。けど、やっぱり日本の食材で作った料理の方が美味しいよ。いくらデュッセルドルフって言っても、ご飯は日本の方が美味しいね。まあ、お母さんが作ってくれる料理は全部美味しいんだけどね」

「なら、文句を言わずにおばさんの料理を味わってください」

「アキラ君の分まで食べなきゃだしね」

「そうです。俺の分まで食べてください。そして、元気にこっちに帰ってきてください」

「うん、分かったよ。あっ、そう言えば仕送りは滞りなく届いているかい?」

「はい、問題ありません。というか、あんなにたくさんのお金を口座に振り込まなくて良いですよ。俺、そんなに使いませんし、自分でも働いているんで」

「使ってもらわなきゃ困るよ。まだ、若いんだから僕としては羽目を外さず、たっぷり遊んでほしいんだ。大人になってからじゃ、見えない景色もあるからさ。だから、気兼ねなく使ってくれよ。それに君は寂しい思いをさせてしまっている。それに君は小さな頃から、要らない我慢をさせ続けてしまった」

「そんなことありませんよ。叔父さんのおかげで、俺は楽しい生活を送れてます。それに多分、あの人が俺を引き取っていたらこんな生活は送れてないと思うんです」

 惨めったらしい雨が降り注いでいた藤野の心は、叔父と話している間ににわかに晴れ始めた。そして、一条の光がすっかりぬかるんでしまった彼の根底を照らし、温めていた。このために零れ落ちる涙もいつの間にか止まっており、彼の顔には微笑すら浮かんでいた。

 しかし、彼は叔父より与えられた心地よい温もりを自ら冷ましてしまった。

 暖かい家庭、自分を育んでくれた家庭とは異なる自らの出生をについて思い起こさせる言葉を自ら紡いでしまったのである。そのため、彼の語気は元気を失い、雑踏の中に声が埋もれてしまいそうになった。

「アキラ君、こんなことを言うのは恩着せがましいかもしれないし、僕が君に言えることじゃないと思う。けど、言わせてもらうよ。君はもう君一人の人生を歩んでいるんだ。だから、自分の生まれのことは忘れても良いんだ。君は僕とお母さんに育てられたんだ。君は僕とお母さんの子供だよ。不能者の僕に、天が授けてくれた愛しの子供さ。だからね、あいつのことは忘れても良いんだ。もちろん、自分の親を忘れることなんてできない。僕だって、僕の妹を、君のお母さんを忘れることは出来ない。だからと言って、いつまでも縛り付けられるものでもないよ」

 急に元気を失い生気の勢いを尻すぼませる藤野に、叔父は照れ臭そうに言葉を紡ぐ。

 叔父の言葉は柔らかく、彼の心に立ち込める厚い暗雲を切り裂いた。無数の温い光は、一つの束となり、彼の心に降り注いだ。そして、彼は笑みを浮かべた。安堵の笑みを、自分は惨めな存在ではないと確信できる笑みを。

「そうですね」

 しかし、藤野はどれだけ温い言葉で優しく自らの出生に関するコンプレックスを触れられても、微かな反動を覚えてしまう。これは付随的な反応であり、彼の意思によって制御できる代物ではない。このため、彼の口から発せられたことは拗ねた幼い子供の体裁を纏った短い言葉であった。

 ただし、彼を育ててきた叔父は、彼が自身の出生について非常に強いコンプレックスを抱いていることを理解しているし、彼がこれに触れられた時、急に冷たい態度を取ることを理解していた。このため、叔父は彼の機嫌を取ることなく、渋い低い声でクスクスと笑った。

「分かってくれたなら、いや、別に分かってくれなくても良いんだけどね。とにかく、君は自由に生きて良いんだよ。過去に縛られることなくね」

「はい、分かりました」

 電話の向こうで屈託のない笑みを浮かべているであろうダンディな叔父の顔を、藤野は思い浮かべる。そして、彼は心を落ち着かせ、ホッと安堵の溜息を吐く。

「それじゃ、健康に気を付けて」

「はい。そっちも健康に気を付けてください。あと、お土産待ってます」

「うん、沢山買ってくるから待っててね。それじゃ、バイバイ」

 声質の割に可愛らしい別れの挨拶を発した叔父に、呼応するように小さな言葉を藤野は発して、電話を切った。彼は薄っすらと、彼にしては珍しい優しい笑みを浮かべて、スマホをポケットに突っ込んだ。

 惨めったらしい雨に濡れた彼の心は、温かい光に今照らされ、平生を取り戻した。そして、彼は両手をズボンポケットに突っ込んで、何の気ない歩み方で帰路に就く。渋谷の光は、輪郭を帯びて見える。そして、脳裏によぎる魔女はただ一人の人間に代わった。嫌いな部類の女へと変わったのである。

 しかし、見た目の良い醜女が彼の中に杞憂をもたらそうとも、彼の歩みを阻害することは無かった。それは諦めによるものでもあり、彼女に一泡吹かせてやろうとも画策したためでもある。奴隷の牙は折られていないのである。

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