第14話
「これで私とあんたの主従関係は定義されたね。良かった良かった」
「最悪だ……」
「結構、ノリノリで舐めてくれたくせに」
満足気に被虐的な笑みを浮かべる明野に、藤野は舌をベッと出して、精一杯の拒絶を示した。もちろん、彼は自らの言動が彼女の心の疼きを収める作用を持っているとは思ってもいなかった。それどころか、自分が彼女に嫌悪感を示すごとに、彼女の被虐心を煽り立てて、得手勝手な快楽を増幅させるだろうことに気付いていた。
だが、彼のプライドが彼女の快楽を由来とする価値観に対し、反対しなければ気が済まなかったのである。だからこそ彼は自らの意思に従って、反作用を覚悟して、他愛の無い言動を彼は起こしたのだ。
「まあ、舐めてくれたおかげで足はべとべとなんだけどさ」
「ならシャワーでも浴びてくれ」
「お言葉に甘えてそうさせてもらうわ」
ペタペタと足音を鳴らしながら明野は、戸を開け、シャワーを浴びに行った。この時、藤野は彼女のシミ一つない美しい背中を凝視していた。
「初めからシャワー浴びとけよ」
塩味と酸味が気持ち悪く口に残る中、藤野は愚痴を呟いた。物があまりに置かれていない広い部屋に、ぽつりと吐き出したはずの愚痴は良く響き、彼女の耳にさえ届いてしまうかと思った。だが、その時点で彼の耳に彼女がシャワーを浴びる音が届いていたため、そんなことは彼の思い違いの外ならなかった。
仄暗いサディズムを刺激してしまうのではないかと錯覚に一瞬間だけ陥っていた彼は、この錯覚を錯覚として処理すると、溜息を吐きながら部屋を歩き回り始めた。彼自身、女子の部屋に赴くということ自体初めての経験であり、彼はこの経験の物珍しさのために、彼女の奇妙な部屋を歩き回って、物品を見回すのである。
「ラヴクラフト、サド、マゾッホ、バタイユ……」
特に藤野の目に着いた物は、壁一面を埋め尽くす歪んだ本棚に収められた蔵書の数々であった。彼は目についた分厚い本の背表紙に書かれている著者名を読み上げた。そして、それらの著書が明野の倫理観に、大きな影響な与えているだろうことを読み取った。加えて、どうして彼女が優等生の仮面を被っていられるのかについても疑問を抱いた。
理解と新しい疑問との狭間で、端から端まで蔵書を眺めていると、ふと白い背表紙の本を彼は見つけた。その本は画集ほどのサイズ感があり、本棚に収まっていた本の中では、大きな部類の本として存在感を放っていた。そして、彼はこの存在感に魅かれてか、白い背表紙の本を手に取って開いた。
「アルバム。家族か……」
藤野が手に取った本は写真アルバムであった。そこには彼女の幼少期の写真や妹と思われる少女とのツーショットなどが収められていた。
「こんな純粋な子がどうしてあんなのに」
幼い少女二人が青々とした公園で青空の下、満面の笑みを浮かべながら追いかけっこしながら遊んでいる写真を藤野は凝視しながら、シャワーを浴びている性悪女を想う。そして、写真の中では純粋無垢な笑みを浮かべている小さな女の子が、十数年の時を経験してしまえば、想像を絶する悪癖を持ち合わせた女になってしまうことを嘆いた。もっとも、この成長に関する感慨は、不純異性交遊を嗜んでいる彼にも言えることである。
だが、彼は自らのことを棚上げして、彼女についてのみ感慨に耽る。
あまりにも身勝手な感慨を抱きながら藤野は、写真アルバムを一枚捲る。
「なんだよ、これ?」
藤野はページを捲るまで、次のページにも明野の家庭の幸福な一瞬が収められているだろうと考えていた。それは彼が見ていたページに収められていた写真の全てに、彼女と彼女の妹とみられる少女の笑顔が収められていたためである。日常の瞬間を切り取った彼には無い美しい過去を見た経験から、彼は次のページも幸せで満ちているだろうと考えたのである。
だが、彼の予想は大きく外れた。
何せ、次のページにはたった一枚の、それも奇妙な加工が施されている写真しか収められていなかったのだから。
白地のページにたった一枚収められることによって、異様な雰囲気を漂わせていたのは、明野一家の集合写真であった。これは写真館で撮ったものらしくどこかで見覚えのあるピシッとスーツで決めたダンディな中年男性が、真剣な面持ちでこちらを見つめており、赤ちゃんを抱いた男性の妻にしては若すぎるように思える女性が写っていた。およそ、女性が優しく抱いている赤ちゃんは、性悪女であり、そして男女は彼女の両親であることが察せられる。
しかし、この写真は奇妙なことに明野の母親の顔だけ切り取られており、そこにはコピー紙に印刷されたスマイルが、雑に切り取られて代わりに貼り付けられている。何かしらの悪意が無ければできない行動に、恐怖よりも先に彼は疑問を抱いた。そして、彼の抱いた疑問のヒントは、彼自身が今存在するこの部屋にあった。
彼女は一人暮らしをしていると言っていたし、実際、このオカルトティックな部屋に一人で住んでいる。これは曲げようない事実である。
だが、事実に対し、この事実を作り上げた動機は謎に包まれたままである。
高校生で一人暮らしをするというのは、中々の理由が無ければできないことである。もちろん、青春の気まぐれが理由にあるかもしれない。
しかし、この理由で彼女が一人暮らしをしている訳ではないことは確かである。
何せ、その理由を満たすため、彼女にこの住居を彼女の親が提供したとしたのならば、あまりにも費用が掛かり過ぎているためである。ここは日本の中でも、特に家賃の高い地域なのだ。ただし、彼女の両親が彼女を溺愛しているとすれば、話は別だろう。もっとも、そんなことは嫌悪感に満ちた加工のされた家族写真を見れば、ありえないことだと分かる。その上、もしも彼女の両親が我が子を溺愛していたとすれば、中途半端な偏差値の公立高校ではなく、より良質な教育が受けられる私立高校に彼女を入れているはずである。
したがって、彼女の両親が、彼女を溺愛している可能性は低い。というよりも、本当に親に溺愛された子であれば、今のような性根の歪んだ人格は出来上がっていないはずである。これらの状況判断と先入観により、彼は家庭問題を孕んだ家に彼女が産まれたのではないかと考えた。彼の考えは見てもいない彼女の両親を傷つけるものであり、彼女の名誉を傷つけてしまうものでもあった。
けれども、彼はこのことを理解しながら、写真からそういう印象を受け取ってしまった。もっとも、彼の理解というのは浅い自意識での理解である。彼の精神的深層において、彼は彼女の家庭がそうであれば、恨めしい彼女に対して一定の理解を示すことが出来、自らがもたらした惨めな現状を慰めることが出来ると考えている。つまり、彼の理解というのは、彼の願望でしかないのだ。
あさましい願望の下、彼は瞼を閉じる。
「人のこと、言えないのにな……」
そして、普段の高慢な態度からはかけ離れた寂しさを胸中に抱いた。
輪郭の見えない寂しさは、徐々に藤野の心に広がって行き、彼をメランコリックにさせた。
浮世離れした生活を送る微かな憂鬱は、暫時、彼の思考を彼自身の過去に向けた。それは彼の誰にも言えてない今の自分を作り上げた鉛の様に重たく、陰惨な過去を俯瞰的に見つめることを意味する。
彼の過去は、というよりも彼が置かれてきた環境は酷く歪んでいた。これは生活うんぬんの問題ではなく、普通の家庭に産み落とされた人ならば誰もが知っている、知っていなければならない無償の愛を知らないという根源的な問題であった。つまり、彼は産まれた時から独りぼっちであった。それは両親が揃って彼を見捨てたことの証明であり、彼の今を根底にあるコンプレックスでもある。
そして、両親に捨てられた一人の子は、産んだのにも関わらず見捨てた母親の長兄夫妻の養子となった。また、長兄夫妻が彼を養子として引き取った理由も、今の彼を歪ませた一つの要因である。
「今更だ……」
瞼を開け、藤野はメランコリックな自分に呆れの溜息を漏らす。そして、彼は再びアルバムに収められた明野の家族写真を見ようとする。
「何が今更なの? 人様の家族写真を見てさ」
しかし、アルバムはいつの間にか背後に立っていた魔女の湿り気を帯びた手によって閉じれてしまった。
「私って、本当に悪運があるね。あんたの出会いもそうだし、この家族写真もそうだけどさ。偶然って言うのは、こうも見事にピースをはめてくれるんだね。真っ黒なパズルのさ」
濡れた髪と上気した肌、柔らかいタオル一枚で身を隠す年齢よりも熟成された艶やかさを持つ明野は、藤野の手からアルバムを取り上げる。そして、そのままアルバムを床に放って、彼の背中に抱き着く。
ただ一枚のタオルによってのみ遮られている彼女の体の柔らかさは、彼の体に直に伝わることなる。柔らかすぎる胸とその感覚の中に潜む二つの蕾が、彼の背中を刺激する。
しかし、彼は美しい人の体に興奮することは無かった。彼は何食わぬ顔で、淫靡な彼女の抱擁を振り解いた。そして、メランコリックな気分に浸っていたところを邪魔されたことに対する嫌悪を表情に宿しながら、彼女に向けて体を向ける。
「お前は一体何なんだ?」
無意識に藤野の語気は強くなる。
しかし、彼の口は正鵠を射る問いを紡いだわけではなかった。ただ彼は感情的になり、茫漠とした、彼女を取り巻くあらゆる事象に対すると問いしか紡げなかった。
目的を持たない彼の問いは、彼女の被虐心のツボを捉えた。このため、彼女は女王としての性質を纏い、今を心から楽しむ笑みを彼に向ける。その笑みは彼の感情を逆撫でる。
しかし、彼女の笑みは苛立ちを覚えさせると同時に、彼の心に写真アルバムより推察した歪んだ彼女の倫理観に対する同情を呼び起こした。
「おいおい、止めてくれよ。下らないことは考えないでよ。私とあんたはそういう関係じゃないでしょ」
藤野の表情に現れる二重の感情、その繊細な方に気付いた女王は、弱々しく震えた言葉を紡ぐ。いや、それは明野が精神的に弱っているからではなく、彼女が憤っているために震えている。つまり、彼女は同情に怒りを覚えているのだ。
「俺とお前は主従関係でしかない。それに、俺に今の俺みたいな感情を抱いている奴が居たとしたら、俺はそいつをこの手でぶん殴ってやりたいよ。丁度、今のお前が俺に持ってる感情の発散のためにさ」
しかし、藤野は何かに動じる明野を嘲るように言葉を紡いだ。これは対処療法であり、彼女が自分に向けてくる水底からの黒い怒りを鎮めるための言葉であった。
「……だのに、あんたは向けてくるんだね」
目を伏せる明野は、不自然な停滞を言葉の前に付け加えた。それは彼女が動揺していることの証明であり、藤野が未だに同情を向けていることの証明でもある。
「本当は俺だって、お前に対してこんな下らない情を抱きたくない」
「じゃあ、私に向けないでよ」
「制御できないんだよ。俺だってそんな器用じゃないんだ。思い違いかもしれない戯言だって、忘れるのに時間がかかるんだよ」
冷めてしまった場の空気を、そして女王様に対する微かな罪悪感から藤野はおどけた。
「勝手に想像して、勝手に私を判断して、勝手にそれを覚えてて、私を怒らせるなんて、あんたって本当にどうしようもないくらい馬鹿だね」
「お互い様だ」
「違うよ。あんたは何も知らないけど、私は全部知ってるんだからさ」
「何を?」
「関係と動機」
「……そうかよ」
言葉を交わし合ううちに、明野は饒舌な口ぶりと悪逆な態度を取り戻していた。加えて、女王としての雰囲気も。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます