第24話
かくして、酷く長い時間は過ぎ去り、全校生徒が待ち望んでいた昼休みがやってきた。
授業という退屈な拘束から解かれた生徒たちは、各々昼食と共に会話を始め、それまで生気をあまり感じられなかった校舎に温もりを与えた。うすら寒い秋の太陽も、いつの間にか温い光源となり、うたた寝してしまいそうなほど心地よい温度を全ての生徒たちに与えた。
そして、陽気が校舎を満たす中、藤野は目的の教室に向けて歩んで行った。もっとも、その足取りが陽気であったのかと聞かれれば異なる。もちろん、彼は水梨の件に関しては浮足立っていた。また、普段では感じられない形容しがたい高揚感は、倦怠によって萎びてしまった彼の精神に活力をもたらしていた。だが、もう一つの要件に関しては極めて怠かった。それこそ水梨の件によって彼が得た、得難い高揚感を台無しにする程度には。
一方の面倒ごとによって、一方の楽しみが打ち消され、半ば無感情となった彼の歩みは、彼の感情に従って極めて普遍的な歩みとなっていた。これと言った特徴のない歩みである。臆病でもなければ、弾んでいるわけでもなく、単一化されたリズムしか持たない退屈な歩みを彼はしているのだ。
ポケットに手を突っ込み、イヤホンを突き刺しながら、人行く廊下をてくてくと歩き、階段をてくてくと上がり、無感情な瞳で彼は通り行く何気ない風景をちらちらと見続けた。そして、昼休みが始まってから十分ほど経過した時、彼は使い慣れた空き教室の前にたどり着いた。
午後の温い日差しが入ることにより、三棟特有の人気のない薄暗さは微かに弱まっていた。したがって、三棟は不気味で妖しい鬱々とした建造物から、学業を修めるにあたって適切な建造物へ変わった。
この印象の変化は一昨日の淫行を罪へと換えるものであった。もっとも、社会一般からすれば売春を行っている時点で、それは罪である。しかしながら、一個人である彼の視点に立った時、それは罪として認識されなかった。むしろ、彼の中では最も理知的な行為として消化されていた。売る方も、買う方も生理的な快楽を理性的に判断した上で求め、悦楽を享受する行為は高尚なものであると彼は考えていたのだ。
だが、彼の考えの中には、売春はその行為に適った場所でなければ行ってはならないという理屈もあった。そのため、印象の変化は彼の神聖化していた行為を、地に堕ちた行為としてしまった。
行為を規定する思想という形而上の物事の変化でしかなかったが、彼が持つ価値観においてこれは非常に大切なものである。何せ、この輪郭が無く、形もない思想こそが、彼を成しているものであるのだから。
だが、彼が学校空間における売春行為を止めようとは思わなかった。それは時間帯によって学校空間は性質を変え、夕暮れ時には行為に適った場所となると捉えたためである。屁理屈でしかないが、彼はそうやって変わる印象を説き伏せたのである。
他人からしてみれば酷く下らない理論付けを、教室の扉を前にして行った彼はぼうっと、その奥に居るであろう水梨のことを考え始めた。
極めて純粋で、極めて活発で、極めて感性的な少女の顔を彼は思い浮かべようとした。しかし、彼は水梨の輪郭を思い起こすことは出来なかった。目や、鼻や、口元はぼんやりと思い起こすことは出来るのだが、少女の全体像を思い起こそうとしたとき、彼の脳裏に浮かぶ概形は跡形もなく崩れ去ってしまう。そして、どういう訳か崩れ去った少女の顔は、女王としての笑みを浮かべる明野に姿を変え、彼の脳裏に描写される。しかも、水梨に抱いている明確な嫌悪感を打ち消すような心理的な作用を抱き合わせながら。
理解できなかった。拒絶しているのにもかかわらず、どうして彼女の顔が水梨の顔に代わって浮かび上がるのか、彼は全く理解できなかったし、理解したくも無かった。しかしながら、それは現実であり、全幅の信頼を寄せている自身の理性が判断したことでもあった。このため、彼は思い浮かび、そして自身の精神を微かに安定させる彼女の顔の問題を認めた。だが、この問題に変な理屈をつけることは無かった。正体を探ろうとは決してしなかった。これは彼が嫌悪する感性に従ったためである。
「……まあ、良いや」
ぼそりと呟き、変な理屈付けに陥る自身を正した藤野は扉をがらりと勢いよく開けた。
「あっ、藤野君」
「待たせてしまいましたか?」
「いや、全然! 今来たばっかりだから気にしないで」
鬱屈とする思考を出来る限り放棄しようとした藤野は、鬱陶しい大げさな身振り手振りをする少女を認める。
「じゃあ、気にしないようにします」
「う、うん。それでお願い」
動揺する水梨の表情は、彼の嗜虐心をくすぐった。
だが、くすぐろうともどうしてか期待通りの悦楽が腹の底から湧き上がることは無かった。水梨の純粋無垢な表情を認めるたびに、その奥に明野がチラつく。しかも、もっとも腹立たしい笑みを浮かべている彼女である。
「それとさ、敬語は良いよ。私たち同級生だし」
「……いえ、使わせてください」
「それはどうして?」
砕けた調子がずっと続くのかと思いきや、急に真面目な雰囲気を纏った水梨は首を傾げた。
「個人的な問題です。俺の極めて個人的な」
「でも、トオルちゃんには砕けてるじゃん」
しかし、柄でもない真面目な雰囲気をいつまでも続けるのは辛かったのか、水梨はすぐさま態度を変えた。嫉妬の炎による熱は長時間持たないらしい。その上、八つ当たりのような火の粉を藤野にまき散らしただけで、炎自体は瞬時に消えてしまった。
「……あの人は」
だが、藤野は降りかかった火の粉に適切に対処することは出来なかった。滅多に使わないタメ口を明野に使っているのか、彼は自分でも分からなかったためである。これは理論の他に、理性の他のところで何らかの区別を彼女の与えているということの証明でもある。
彼が信頼を寄せている理性が導き出した分からないということの証明は、彼にとって受け入れがたいものであった。このため、彼はこれを否定するだけの材料を記憶と経験から引き出そうとしたのである。しかし、それは暗闇の中で藻掻くことと同意義であった。捉えられないものを掴もうとすることは不可能なのだ。
初めから何もないものを掴もうとし、これに見合った言葉を水梨に返そうとするが、結局のところ彼にそれは出来なかった。
「もしかして、好きとか?」
いつまでも答えを返してくれない藤野に耐え切れなかったのか、水梨には珍しい内向的でもじもじとした態度で、彼に再度問いかけた。
明野に対する解をすぐさま返すことが出来なかった彼であるが、新たに与えられた疑問に関しては明確な解を持ち合わせていた。
「それは無いです。あの人を好きになるなんて言うのは、天地がひっくり返ってもないことです」
「そう? 美男美女だし、雰囲気も似てるし、愛称良いと思うんだけどなあ」
「客観的にはそうかもしれませんね。けど、俺の立場に立ってあの人を見た時、明野さんはあまりにも眩しすぎるんです。俺は対極にいる人間を求めることは出来ません」
沈黙を打ち破った藤野の口は、自分でも驚くほどつらつらと的確な理由を紡ぎ出した。明野の話題に関わるときだけ、頭は澄み渡り、研ぎ澄まされ、上手く回転した。そして、この理屈付けが不可能な現象に見舞われる彼は、この事象全てに苛立たしさを覚える。もっとも、フラストレーションを発散させることは出来ないため、ただ彼の心のうちに積みあがって行くだけでなのだが。
「そこまで言うんだ……」
そして、藤野の気を知らない水梨は、わざとではないのにわざとらしく彼の苛立ちを煽り立てる。逃げ場のない爆発性のある感情は、徐々に彼の理性を満たしてゆく。
「……」
余裕を奪い去る苛立ちが理性の内に満たされてゆく藤野は、何も言わずただ水梨の瞳を見つめた。何か適切な言葉を見つけようとしても、彼の理性は粗野で乱雑な言葉しか引っ張り出してくれなかった。だから、彼は沈黙したのである。口を閉じて、自身の感情と向き合って、一刻も早く今に対する苛立ちを収めたかったのだ。
だが、彼のとった行動は裏目に出てしまった。
「自分を下げない方が良いよ。普通の人より優れてるんだからさ」
真っ直ぐと自身を捉える藤野の双眸を、頬を赤らめながら水梨は見つめ返し、彼が欲しているであろう慰みの言葉を、彼を慈しむように紡いだ。だが、水梨の発した言葉は水梨が考えた彼の欲している言葉でしかない。したがって、実際に彼が欲していた言葉とは異なるのだ。もっとも、彼が待ち望んでいた言葉ないのだが。
勝手な妄想に従って紡がれる言葉に対し、彼はより苛立つ。もはや、どうして自分が水梨に対して苛立っているのか分からなくなるほど苛立った。
「優れてませんよ」
だからこそ、藤野は自分を追い込む発言をしてしまう。何せ、理性によるコントロールから感性によるコントロールに代わってしまっていたのだから。
「嫌味になっちゃうよ」
「嫌味じゃないですよ。事実です。確かに人より優れてるところは幾らかあると思います。けど、根本的に普通の人よりも俺は劣ってるんです」
体が強張り、言葉にも微かな怒気を藤野は含んでしまう。いくら人の情を察することが不得意な人間でも、分かるほど多分に含んでしまう。
「劣ってなんかないよ」
視線を急に自分から外した少年を前にする純朴な少女は、寄り添うように微笑む。およそ、聖母の慈愛を表現したいのなら、水梨が今浮かべている表情が最も適っているであろう。
しかし、歪んでしまった認知は少女の極めて純粋な感情を歪めてしまう。
「……劣ってるんですよ」
「劣ってなんかないよ! だって、私が好きになった人なんだから」
「好き?」
だから、藤野が浮足立って求めていたもの一つすら満足に受け取れなかった。彼は水梨が恥ずかしげもなく、堂々と好きと言ったことに対して背繰り上げる嫌悪感を抱いた。もはや、この前後に生じるであろう楽しみを享受しようとは思えなかった。彼は一刻も早くこの場から立ち去ろうとしか考えられなくなったのだ。
そして、逃げ去りたいという彼の願望は、彼の理性に働きかけ、感情の支配権を感性に委ねさせた。これにより彼は発し難い言葉を発することが出来るようになった。しかし、これは彼の信条を著しく傷つけるものであり、伊野が常々言っていた矛盾を自ら生み出すことでもあった。忠実であると言っていたのにも関わらず、彼はこれに歯向かうような態度を取ってしまった。したがって、彼自身の信条とこれを支える美学は破損してしまった。それは彼自身の現存在を傷つけることを証明することでもあった。
「だから?」
「私が好きになった人が、劣ってる人のはずないよ」
自分勝手な水梨の暴論は、藤野の抑えていた感情を爆発させるに至った。もちろん、感情を爆発させると言っても、直情的な行動に出るわけではない。極めて冷たい表情と態度を、彼女に示すだけである。
「それは水梨さんの勝手な判断でしかありません」
重く冷え切った藤野の声音は、純朴な少女の上気する頬を一気に冷ました。その上で水梨は一歩退いて、睨んでくる彼の曇った眼を見つめた。
光を失った彼の目は、少女を怯えさせるには十分過ぎた。そして、その目は午後の温い日差しが差し込んでいるのにも関わらず、室温を零下にまで追いやった。もっとも、この室温の低下を体感したのは水梨だけなのだが。
「それって、どういうこと?」
「そのままの意味です」
急に突き放すような態度となった藤野を見つめる水梨は怯える。
だが、彼は震えて怯える水梨を認めようとはしなかった。彼の水梨に対する興味は既に亡くなっており、現状から逃げ出すこと以外何も考えていなかった。そのため、彼は冷たい激情に任せてつらつらと言葉を紡ぐのだ。
「水梨さんはただの人です。特別な人ではありません。半年以上俺の隣の席に居ながら、俺の興味すら引けなかった凡庸な人間です。確かに顔立ちは端正ですし、性格に悪いところはないです。けれど、だからと言って今日初めて話した人の性格を勝手に決めつける権利を持てる人間ではありません」
「何を言ってるの?」
「貴女の恋に対する拒絶と、無知蒙昧で愚かな人に対する啓蒙です」
告白を拒絶されたことに水梨は絶望に顔を歪める。
「貴女の時間と俺の時間をこれ以上無駄にしないためにも、はっきり言わせてもらいます。俺は貴女みたいな人が嫌いです。善良で、幸福で、孤独を知らず、人の価値を自らの感性だけで決める貴方のような人が嫌いなんです。ですから、俺にはもう話しかけないでください。その皴の少ない小さな脳と、ちっぽけな経験と価値観から導いた身勝手な判断を人に押し付けようとする愚かな人の言葉は聞きたくないんです」
だが、水梨自身に対する興味そのものを失った藤野は純粋な少女の表情を捉えようとしなかった。震える女性を、かつての自分のような少女を、惨めな水梨を彼は見なかった。
「ご、ごめんなさい」
「分かってくれればいいんです」
ぽろぽろと涙をこぼす少女に彼は傲岸不遜な態度を取る。そして、圧力を加え続ける。この場から即刻立ち去るように、いなくなってしまえと言わんばかりの睨みを脱力する少女に向ける。
「ごめんね」
偏見に満ちた圧力は、本来は強いであろう純朴な少女の心を折り、少女を空き教室から排斥した。水梨は打ちひしがれる涙を零しながら、目元を赤らめ、藤野の傍らを駆け足で通り過ぎていった。しばらく、彼の耳には水梨のすすり泣く声がへばり付いた。望んでいたはずの、それを聞けば多幸感を得られるだろうと思っていたはずの声は、望み通り彼に与えられたのだ。
しかし、圧力をかけていた本人の心が晴れることは無かった。むしろ、胸中には煤煙が如き鬱陶しさと自身に対する情けなさが募ったため、彼はより苛立った。
ただ、この感情を発散できる対象も消え失せていしまったため、満たされた苛立ちは遂に暴発した。彼は先ほどまで水梨が立っていた場所まで歩くと、思いっきり床を踏みつけた。これは彼が水梨に対して抱いた苛立ちと、捉えられない苛立ちを暴力的な衝動として処理しようとした結果である。
何度も何度も力強く打ち付けられる床であったが、彼の足如きではびくともしなかった。リノリウム張りの床はただ虚しい響きを空き教室に与えるだけであった。
「藤野、あんたミオっちに何したの?」
そして、虚しい音を鳴らし続ける狂人が如き少年の下に、もう一人の来訪者がやってきた。その少女は藤野の狂気的な言動に臆することは無かった。これは痩せ我慢ではない。少女は心の底から怯えていなかった。
むしろ、少女は彼を嘲た。
だからこそ、少女は彼と同様の冷たい睨みを彼に利かせたのだ。
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