第25話

 髪を明るく染め、派手なメイクとネイルを施しながらもそれが違和感なく似合う端正な顔立ちと雰囲気とスタイルを持った色白の少女は、彼を睨みつける。そこには前述したとおり、侮蔑の表情が含まれていた。冗談など一分も入っていない、十割の軽蔑を少女は彼に対して向けた。

 しかし、面識のある少女に侮蔑されたところで彼が傷つくことは無かった。むしろ、少女が現れてことにより、彼は助けられたとすら考えた。これは感性に奪われていた思考の権限の一部を理性に譲渡することが出来たためである。

「何もしてないよ」

 微かな理性を手に入れ、堆積する苛立ちを抑えることに成功した藤野はけろりと笑って見せた。自身の精神的優位と無罪とを少女に示したかったらしく、彼の態度は極めて傲慢であった。もちろん、彼の態度は少女に苛立ちを生み出した。

「何もしてない訳ないでしょ、ミオっち泣いてたし」

「それだけでどうして俺が何かをしたって言えるんだ? 独りでトラウマでも思い起こして泣いたのかもしれないし、何か感動できる動画か漫画でも見て泣いたのかもしれないだろ」

 ぺらぺらと自らの罪の行方をはぐらかす言葉を紡ぎ続ける藤野の眼前まで、少女は大股で歩み寄った。そして、少女は彼の胸倉を掴むと、カラーコンタクトの入った大きな瞳で無表情な彼を睨みつけた。それは義に満ちた凛然とした行為である。

 反吐が出る義を見せつける少女の視線にさらされる彼は、反射的に少女を捉えることを止めた。その代わりに窓の外に見える高層ビルや商業施設を見つめた。無機質な外見と、有機的な内面を持つそれらの建造物は、彼の崩れた理性による支配をより進めた。また、同時に彼はどうして自分があのように理性を失ってしまったのかを考え始めた。しかし、考え始めたところで結果が求まるわけでもなく、少女がやかましく小言を発している間、彼は空虚な時間を過ごした。

 だが、彼の過ごす時間は急に忙しなくなる。

「いい加減にしろよ!」

 藤野が話を聞いていないことを認めた少女は、遂に彼の右頬を掌で思いっきり叩いた。柔い頬と硬い掌がぶつかり合って、バチンと良い音を鳴らした。そして、生じた衝撃は彼に痛みを与え、彼の脳を微かに震わせるに至った。

 驚くほど白かった彼の頬は、モミジのように赤らんだ。同時に少女を無視していた彼の意識は、強制的に少女に向けられた。その少女は相変わらず激情に駆られた表情を浮かべていた。また、気づかぬうちに少女が胸倉を掴む力はより強まっていた。

「何すんだよ」

「お前がミオっちを泣かせた罰だよ」

 少女は先ほどよりも睨みを強くしながら、もう一度手を振り上げた。

 だが、藤野は少女の手を掴み取って自身に加えられるはずであった危害を取り去った。もっとも、華奢な彼の握力などたかが知れており、彼の手はすぐさま少女によって振りほどかれた。ただし、振りほどかれたからと言って少女が再び手を上げようとはしなかった。むしろ、少女は自身の力強い束縛から彼を開放し、彼の胸部を一押しすることによって突き放した。急に突っぱねられた彼はバランスを崩し、その場に座り込んでしまった。

 必然的に少女を見上げる立場となった彼は、少女のすらりとしながらも肉付きが良く、艶めかしい生脚を見つめた。そして、その脚を動機として昨夜のことを思い起こした。情事の最中に少女の彼氏である桑原に電話を掛けたことを。

「……」

「黙ってないでなんか言ったらどうなの?」

「敷島。昨日は悪かったな……」

 自らの軽率な行動を思い出し、省みた結果、藤野は場違いな謝罪を発した。

「藤野、そのこともあるけど私は今、ミオっちについて怒ってんの。話を逸らさないでくれる」

「どうしてお前は人のことでそんなに怒れるんだよ」

 自身の発言が状況に適っていないと認識すると藤野は顔を上げ、敷島の怒りに満ち溢れた表情を認める。彼は彼の発言通り、何の関係もない人間がどうして自分の影響下の他にある問題に首を突っ込めるのか分からない。どうしてそこまで他人に感情的になれるのか、彼の理性では解釈できないためである。

 出来損ない理性により発せられた彼の言葉を前に、敷島は大きな溜息を吐く。そして、侮蔑の視線を向ける。

「それが分からないようじゃ、まだまだ子供よ。まっ、あんたは三歳児がそのまま子供になったような性根をしてるから分からないのが正しいか」

「俺が子供?」

「ほとんど幼稚園児よ。我が儘に振舞って、それが上手く行かなったら喚き散らして、人を傷つけてもその理由が分からないし、人を傷つけて怒られる理由も分からないおこちゃまよ」

 腑抜けた表情で藤野は敷島を見つめた。昼中の日差しに当てられる少女の顔は美しく、またその造形はミネルヴァ像のように凛々しい。そこから発せられる全てを見通すようで、自分の触れられたくない部分まで触れてきそうな視線は、彼の視線を凛々しい貴人から逸らすには十分であった。

「そうやって逃げてばかりいても何も始まらない。藤野、あんたは現実を見ることから始めた方が良い。自分が周りからどう思われてるのか、自分の立ち振る舞いが他人の目にはどう映るのか考えた方が良いよ」

 尻軽とも捉えられかねないほど派手な格好をしている敷島は、その格好に似あわない凛とした忠言を藤野に与えた。敷島の言葉は彼の中で燻っていた苛立ちを煽り立て、感性による思考の支配を彼に与えることとなった。

 偏見から敷島の存在を下に見ていた彼は、急に立ち上がると敷島の胸倉を掴んだ。思いもしなかった形勢逆転と、華奢な体からは考えられないほどの力を籠める彼に、敷島は臆病になり、一種の怯えを抱いた。ミネルヴァの瞳は震え、微かに涙ぐむ。

「逃げてなんか居ない。俺は俺らしく生きてるだけだ」

 自分にしか見えない何かを敷島に投影しながら、藤野は怒気を孕む低い声を発した。

「孤独を知らず、勝手に近づいてきて、俺のことを勝手に評価するな。俺の評価は俺を知ってる奴にしかしてはいけないんだ。だのに、どうしてお前や水梨は俺を勝手に評価するんだ。自分勝手も良いところだ。お前たちのような女が俺を産んだくせに、どうしてお前たちはお前たちの生き方を俺に押し付けようとするんだ……」

 だが、藤野のテンションは瞬発的なものでしかなかった。敷島の胸倉を掴む力も、言葉に籠る怒気も一瞬にして尻すぼみ、最後にはほとんど掠れて聞こえなくなってしまった。今の自分が情緒不安定であると知っていたが、まさかここまで酷い状況にあるとは彼自身、思っても見なかった。だからこそ、彼は自分の感性がしでかしたことに驚いた。

 何かに縋るように、けれどプライドの高さゆえに何にも縋れないような彼の言動は、怯えていた敷島から臆病を取り除くにはうってつけであった。敷島は急に弱々しくなった彼の手を突っぱねると、衝動的な自分の行動に悔いている彼を見つめた。その視線には憐憫が籠っていた。水梨と同じような憐憫である。

 彼は敷島の顔を見なくとも、敷島が自分にどのような情を向けているかを察することが出来た。だが、その優秀すぎる勘もこの場合においては悪い方向に作用し、彼の感情をより煽り立てる。そして、彼が最も嫌う感情による衝動を呼び起こす。

「止してくれ。俺を一人にしてくれよ」

 苛立たしい感情を排斥するため、藤野はほとんど聞こえないような声で自身の胸の内を満たそうととめどなく湧き上がってくる感情の主要因である敷島を突き放そうとする。

 だが、優しい少女は彼の言葉を拒絶する。それは恋人のためにという打算もあったであろうが、本質としては憐れな少年を見捨てたくはないという慈愛に満ちた庇護欲であった。このため、敷島は彼の右頬に少し冷たい手を宛がった。

「それがあんたの本心なの?」

 そして、慈愛に満ちた言葉を少女は藤野の耳にささやく。

 鬱陶しい他この上ない敷島の言葉は、彼の心に満ちる感情を表面に浮かび上がらせ、彼は一筋の涙を流した。彼が持ち合わせる強力な理性でさえ、その衝動を抑えることは難しかった。揺れ動きすぎた彼の精神は極めて不安定であった。

「もう、良いだろ。お前が見たかったものは見れただろ。俺を一人にしてくれ。情緒がぐしゃぐしゃで駄目なんだよ……」

 藤野は弱々しい力で敷島の手を払うと、拗ねた幼子のように敷島に居なくなるように求めた。

「なら、居なくなってあげる代わりに一つだけアドバイスを上げるわ」

「アドバイス?」

「そう、アドバイス」

 唐突な提案に藤野は顔を上げて、自信満々な笑みを浮かべる敷島を見つめた。憂いと慈しみを帯びた表情を想像していた彼であったが、自身の想像力が現実に敵わないことを思い知らされた。

 だが、想像力の限界は彼の沈み切った心持を微かに軽くさせ、惨めったらしく歪めた表情に笑みを浮かばせた。自分を嘲笑するための笑みであったが、顔を歪めているよりかは良いものである。また、敷島も彼の笑みを認めると、自身の態度を平生の態度に近似させた。

「あんたは矛盾してるよ。自分が求めているものと真逆のことをあんたは望んでるってこと」

 普段は馬鹿にしている態度の敷島の口から紡がれたアドバイスに、藤野は耳を疑った。同時に疑りを抱く動機となった明野の顔が、水梨の時と同じように脳裏に浮かび上がった。加えて、どうして敷島が彼女と全く同じことを発したのか、その理由を知りたくなった。

 突如として湧き上がった知識欲は、彼の内的な視線を感情から逸らさせた。したがって、彼の表情から悲劇的な強張りはすっかり消え、授業を受けているときと同じような純粋に知識を求める少年の顔になった。

「敷島。どうして、お前はそう考えたんだ?」

 藤野の唐突な表情の変化と声音の変化に、敷島は目を見開いた。

 だが、敷島はすぐさま普段の表情を取り繕った。それは敷島が彼を侮ることはどうとも思わないが、彼に侮られることは許されないと常々考えていたためである。プライドの問題であり、自己を保身するための道理であった。

 しかし、高慢で馬鹿らしい少女の言動を彼は気にも留めなかった。彼は真っすぐと、ただ一つの自分が気になる問題を捉えていたのだから。

 懸念から大きく外れ、回答を早くよこせと訴えかけてくる彼の態度に当てられた敷島は逆上した。もっとも、これは内面的な逆上であり、表情や行動に出すことは無かった。もしも出してしまえば、貶した彼と全く同じことをすることとなるためである。したがって、敷島は大きく咳払いをして、不安定な心持を安定させた。そして、いつの間にか澱みが消え失せた純粋な少年の双眸を見つめた。

「日ごろのあんたの言動と、あんたのSNSを見れば一目瞭然よ」

 しかし、藤野が求めた回答は、彼には分からなかった。

 無知蒙昧と世間を罵ってきた少年は自分の客観的な評価を理解することは出来なかった。

「まっ、分からないならその内、分かるようになるわよ」

 呆けた表情を見せる藤野に溜息を吐くと、敷島は彼に背中を見せ、立ち去ろうと一歩踏み出した。

「ちょっと待て。どうしてお前が俺のアカウントを知ってるんだ。まさか、お前も解いたのか?」

 ただ、藤野は気になっていたことを尋ねるために敷島のほっそりとした手首を掴み、その歩みを止めさせた。

「タケヒロに教えてもらったんだよ。タケヒロ、『藤野は矛盾してる』って言ってたのが気になったからさ。その時、あんたアカウント見せてもらったの」

「桑原の奴が?」

「そう。まっ、そんなことはどうだって良いでしょ。あんたのプロフィールに、他の人に見せちゃいけないなんて書いてなかったし。それよか、あんたは後でミオっちに絶対謝りなよ」

 藤野が求めた解を述べた敷島は、緩んだ彼の拘束から逃れると、手をひらひらと振って教室から出ていった。

 自身のことを知る者が自分を知っているのにもかかわらず、自分ではそれが分からない彼はただ一人、午後の温い陽が差し込む教室で立ち尽くすのであった。

 しかし、静寂はすぐさま破られた。

「それと、夜九時以降はタケヒロに電話かけないでね!」

「分かった……」

 自分が空き教室に藤野を呼んだ要件を叫ぶように敷島は発すると、出戻ってきたときと同じようにせわしなく、大きな足音を立てながら教室から出ていった。どたばたと休みどころを知らない敷島に、彼は純粋な微笑を浮かべた。

  

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