第26話

 自分では分からないことに思案を重ねながら、藤野は不注意に日中を過ごした。そして、彼としては望んでいたけれども、訪れてほしくはない放課後を迎えた。明野によって固められた予定であり、彼女の意思によって彼の意思の全てが決められる時間となったため、彼は帰ることもせず、続々とクラスメイトが教室から出ていく中、一人で寂し気に、耳にイヤホンを突っ込みながら机に突っ伏していた。

 茜色の夕陽は、彼以外誰も居なくなった教室を寂しく照らし出し、日中では感じられなかった陽の冷たさを彼に送り届けた。これは隙間風が吹き抜けるわけでもない、教室という空間に居る彼の体をぶるりと震わせた。

 微かに粟立つ肌と徐々に低下していく気温に際して、未だに自分を迎えに来ない彼女を彼は恨んだ。自分から呼び出しておいて放課後を迎えてから十五分も待たせる彼女の性根は、一向に解けない自身の矛盾と相まって彼を苛立たせた。

 ただし、苛立ったところで、理性による思考が邪魔されるだけであり、唯一の暇つぶしを反って潰すこと彼は理解していた。したがって、彼は自身の苛立ちを無意味な感情として唾棄した。もっとも、完璧に感情を捨てることなど人間には不可能である。そのため、彼の心の内には苛立ちが常に影として存在しており、それが昨夜や昼休みの時のように爆発する可能性があった。しかしながら、彼はこの可能性を捉えないように心がけ、脳に直接届くチャイコフスキーの大序曲に意識を集中させるのであった。

「あんた、帰らなかったんだね」

 左耳のイヤホンは突如として外され、息がかかるほど近い距離から明野は藤野の耳にささやいた。くすぐったい彼女の低い声音は、寒さとは違うベクトルで彼を粟立たせた。そして、彼は彼女から遠ざかるよう急に体を起こすと、椅子ごと蠱惑的な笑みを浮かべる彼女のから離れた。もっとも、勢いづいた椅子と彼の体はすぐさま乖離し、彼は床に尻もちをつき、椅子は倒れて誰も居ない教室中に響き渡る大きな音を鳴らした。

 予想以上の反応を見せてくれた彼を見つめながら女王は極めて愉快な調子でクスクスと笑う。自身を馬鹿にするように高く口角を上げて、細めた目に涙さえ浮かべる彼女の表情は彼にこの上ない屈辱を抱かせる。

「良いよ。本当にあんたの反応は、見ごたえがあって良い。やっぱり、あんたは自然体で居た方が面白いよ」

「常日頃から俺は自然体だよ」

 湧き出る愉快により掠れた声を発する明野に、藤野は冷淡に接した。まるで彼女に興味が無いかのように立ち上がり、今さっきの出来事を完全に忘れてしまったかのように学生ズボンを手で払った。

「嘘だよ。あんたは自分を偽ってる」

 だが、冷淡な態度を取って自身から目を背ける藤野を明野は猛禽類のように真っすぐと見つめる。彼女の表情は一瞬間前とは異なり、極めて平坦で真っ白な表情であり、彼女の言葉には真実味しかない。

 しかし、彼が彼女の発言を真実として受け取ったとしても、昨日今日とで自分に散々投げかけられた同意義の言葉を理解できなかったため、彼女の発言も腑に落とすことが出来なかった。したがって、彼女の発言が真実であると彼は理解できても、彼女がその発言に含めた意味を理解することは出来なかった。彼女が来るまで考えていた事柄の解は、同意義の発言を投げかけられたとしても彼には分からなかった。

「分からなくても良いよ。今に分からせてあげるから」

「分からせてあげる?」

「そう、だから私は今日、あんたを私の家に招くんだよ」

 無知で愚かな人間に語りかけるように、明野は妙に優しい表情を浮かべた。柔和な表情と、そこから紡がれる優しい言葉は彼の自尊心を傷つけた。

 だが、傷つけられたからと言って彼は理性を放棄しなかった。

「お前らの言うことを、俺は今日、理解できるのか?」

「まあ、少なくともヒントにはなると思うよ」

 自由を奪われた存在から脱却と不可解の解を求めたいという知的好奇心は組み合わさり、藤野の抱いていた億劫な気分を打ち消した。その瞬間、腑抜けて影が落ちた彼の顔には妙な生気が施された。

「もっとも、あんたと私が知ってることを、あんたを買ってくれた人たちに教えれば、あんたに答えをくれると思うけど。でも、プライドの高いあんたはそういうの嫌いでしょ?」

 雰囲気を変化させた藤野を見つめる明野は、再び表情を柔らかくすると、彼の持つ知的欲求を煽り立てた。

「嫌いだ」

「それなら、私の家に来てくれるね。まっ、変人は聞くまでもないと思うけど。あんたはあんたの望んでいる二つのものが得られるんだからね」

「けど、お前は意地の悪いことを俺にするんだろ?」

「当たり前でしょ。物事は交換によって成り立つんだから。というか、あんたは私に感謝した方が良いよ。だって、奴隷契約を交わしたのに、契約以上の取引を私はしてあげてるんだからさ」

 女性的な膨らみを大きく持つ胸を張り、より強調させながら、知的な外見からは考えられないほど稚拙な態度を明野は晒す。傲慢すぎる彼女の姿勢は、藤野を呆れさせ、彼に久しぶりの笑みさえ浮かべさせた。

「なんで笑ってるのさ。普通、嫌な顔をするもんじゃないの?」

「いや、お前の態度があまりにも子供っぽくてさ」

 頬をほんのりと膨らませながら、明野は笑いをこらえきれない藤野を見つめた。しかし、彼女が微かに感じていたコメディチックな怒りの情はすぐさま消え失せ、彼女は解れた柔らかい笑みを浮かべた。

「やっぱり、似てるね」

 笑い声によってかき消されるほど小さな明野の声を、藤野が聞き取れるはずが無かった。それどころか彼は彼女が、言語を発したことすら捉えていなかった。したがって、彼女の言葉は無視され、彼には届かなかった。もっとも、彼女は自身の発した言葉は感嘆のついでに過ぎないと考えていたため、何ら問題は無かった。

 一言二言がかき消されることなど、彼女にとってどうでも良かった。だが、彼女は女王の身分である自分が、奴隷である彼に笑われているという事実が酷く不快であり、現状を一刻でも早く自身の手中に再び収めたいと思った。

 ただし、彼女は彼の完全なる屈服を求めていたわけではない。彼女はただ彼から自由を取り上げて、自分の行動に付き従わせたかっただけである。このため、クスクスと笑い続ける彼の右手を急に力強く握った。

 唐突な行動は彼から笑みを奪い、その端正で中性的な顔面に阿保っぽい表情を浮かばせた。普段よりも大きく瞼を開き、口を楕円型に開ける彼の表情は何とも言えない滑稽さを纏っていた。彼女はそんな彼の表情を、一瞬間前の彼のように笑ってやりたかった。

 だが、彼女にしてみれば自分は彼に対して絶対的優位な立場に居るため、この欲求を我慢することが出来た。彼女は何時如何なる時でも、彼を笑うことが出来るのだから。したがって、彼女は彼の体を力一杯、自分の方へ引っ張り、阿呆な表情を浮かべる彼の眼前に顔を近づけた。

「とりあえず、行こうぜ。私も暇じゃないからさ」

「……分かった」

 低い声音と、冷たい雰囲気で女王は奴隷を脅した。

 すると、奴隷は抵抗することなく、こくりと頷いた。明野はあまりにも従順すぎる対応を見せる藤野が癪に障った。

「つまらない」

「お前が要求したことだろ」

「それにしても、従順すぎるぜ。私は負け犬の遠吠えが聞きたいの」

「性格が破綻してるな」

「今更でしょ」

 抵抗することの無意味さを理解している藤野は、顔に白旗を掲げながら、諦めの微笑を浮かべる。もっとも、それは諦めの他に、彼女に嫌がらせをしてやろうという意味も含まれていた。望んでいることをあえてしてやらないという嫌がらせである。

 ただし、彼が自身の嫌がらせに掛ける度合いは極めて低いものであった。

「つまらない」

 しかし、明野は藤野の意識に反して、ジトっと暗い失望が満ちた目で彼の双眸を見つめた。呟かれた一言も鉛のように重かった。だが、彼女の言葉が寂しい教室に反響しきる前に、彼女は雰囲気を百八十度転換し、明るい笑みを浮かべた。

「でも、まあ、良いや」

 そして、明野は顔を藤野から離すと彼の手を引いて、突如として駆けだした。急な発信に足がもつれ、転びそうになった彼であったが、何とか立て直して、強制的に進ませる気分屋の足に着いて行った。

「何なんだ?」

 部活の声が響き渡っていながらも、人っ子一人見えない寂しい廊下に藤野の呆れた声は吸い込まれる。反響し、明野の耳に入ることなく、消え去ってしまう。

  

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