第20話

 心に虚しさを引っ提げたまま、藤野は登校した。

 昨日、注意されたことは彼の頭になく、イヤホンを耳に差して、大音量でショスタコーヴィチの交響曲五番を聞きながら彼は教室に赴いた。始業時間五分前に、教室に着いたため、クラスメイトの大半は既に登校をしていて、教室内は賑やかであった。若い喧騒は、第四楽章の激しいティンパニを貫き、彼の孤独を邪魔した。

 イヤホンをする意味がなくなったため、彼は席に着いた瞬間、イヤホンを外して机に突っ伏した。友達として認めている人間が居ないクラスにおいて、彼は孤独であり、暇つぶしの道具すら自己嫌悪を誘発させるものになってしまったため、彼は微かな自由時間でさえ、処理することが出来なかった。したがって、彼は眠くないのにもかかわらず、眠いふりをして、時間を稼ぐほかなかったのだ。

 孤独であるということの本質を理解していない彼は、始業のチャイムが鳴った瞬間に顔を上げた。そして、眠くないのにもかかわらず目を擦って、いかにも気だるそうに頬杖をついて見せた。物事が何もかも楽しくないかのように。

 朝の挨拶を適当に流し、担任の間延びした声を聞き流し、彼は心底つまらなそうに窓の外を眺める。しかし、外を眺めたところで秋晴れの空には青さ以外の何もない。その上、立ち並ぶビルが巡る四季に合わせて樹木の様に姿を変えるわけでもないため、なおさら景色はつまらなかった。

「それと一限の数学は自習になったから、真面目にやれよー」

 そして、男性教師の間延びした声が伝えた情報によって、藤野の中に籠っていたつまらなさは頂点に達した。クラスが喜びに浸っている中、彼一人だけが落胆にしていた。その姿は、酷く浮いていた。

「ありがとうございました」

 普段よりも明るい挨拶により、ショートホームルームは終えた。その瞬間、クラスは新たに生まれた自由時間を謳歌する方法を話す黄色い声に沸いた。

 活力のある場に居るのにもかかわらず、そこから一歩離れた立場を取らざる負えない孤独な彼は再び机に突っ伏した。

 しかし、彼はすぐさま自分のやるべきことを思い出し、顔を上げて、もっとも廊下に近い並びの席の最前列に座る明野を見つめた。プライドを保つための演技などどうでも良く、彼は一刻も早く、昨夜疑問に思ったことを尋ね、自らの自由を手にするヒントを得ようとしたのだ。貪欲に動こうとする彼は、勢いよく立ち上がった。

 だが、彼の栄養に乏しい体は昨夜と同じように立ち眩みを彼にもたらした。その結果、視界は揺らぎ、徐々に姿勢は崩れていった。このまま何もしなければ、彼はその場に倒れ込むことは必至であった。これは目立つことを嫌う彼にしてみれば、最悪のことであった。そのため、彼は机か椅子に掴まろうとしたが、手に力が入らなかった。

 したがって、彼の体はよろめきに合わせて崩れて行くだけだと思われた。

 しかし、善い行いを全くしないのにもかかわらず、運命は手を差し伸べてくれるらしい。

「大丈夫?」

「……大丈夫です。ちょっと、貧血で」

 よろめき、倒れかけた藤野を支えてくれたのは、彼の知らない女子だった。少女は彼の背中に手を回して、彼を支えると上から覗き込むように、可愛らしく首を傾げていた。可愛らしい二重のぱっちりとした目、長いまつ毛、桜色の薄い唇、小さな丸顔、艶やかな黒髪は、彼女の言動を成立させる美しさがある。

 名前も知らず、顔も今知った可愛らしい少女に背中を支えられ続ける彼であったが、この光景を見られたくなかったために、立ち眩みが収まるとすぐさま自立した。

「すいません。迷惑をかけてしまって」

 そして、すぐさまドラマチックな展開を片付け、明野のところに向かおうと少女に浅く頭を下げた。

「良いんだよ、全然。ほら、隣の席の好だしさ」

 他人行儀で仏頂面の藤野の応対と異なり、少女は極めて友好的な笑顔でもって彼に接した。少女の身振り手振りは一々可愛らしくて、大げさで、後ろで結んでいるポニーテールは振り子のように揺れる。

「隣の席?」

 だが、そんな友好的で礼節もある少女に対し、藤野はどこまでも失礼であった。彼は何か運動をしているであろう健康的なスタイルの良い体から伸びるすらりとした手足を持つ、自身よりの頭一つ小さい少女のつま先から頭のてっぺんまで見ても、少女が隣の席の人だとは分からなかった。

「えっ、まさか私って藤野君に認識されてなかった?」

「……」

 暫時、二人の間には気まずい沈黙が流れた。

「沈黙は肯定って意味だよね。そうだよね!?」

「まあ、そうですね。俺、今あなたのこと知りましたし」

「嘘でしょ? 私と藤野君って、ずっと隣の席だったんだよ?」

「すいません。人に興味があんまり持てなくって……」

 思いがけない藤野の言葉に、少女は相変わらず大げさに、可愛らしく驚く。そして、リスの様に頬を膨らませて、明らかな不満を彼に訴える。しかしながら、彼は少女の見せる不満が半ば冗談めいたことを瞬時に捉える。

 だからこそ、彼は少女を鬱陶しいと感じるのだ。

「まっ、藤野君が人に興味ないことくらい知ってたけどさ。ほら、いつも一人でいるし」

「ほぼ、初対面なのに結構なこと言いますね」

 そして、少女は藤野の胸に人差し指を当てながら、彼のプライベートに踏み込んだ。彼はそんな少女の言動に苛立ちを覚える。

「だって、こっちは君のことずっと見てたんだし」

 藤野の気を知らず、少女は可愛らしく頬を上気させる。薄紅色に染まった頬と、徐々に尻すぼむ少女の声が、何を意味しているのか、物わかりの良い彼が分からない訳が無い。もちろん、自惚れにより判断も危ぶまれたが、少女の微かに蕩けた顔を見れば、それとなく少女の心持は推察できるのだ。

「そうですか」

 しかし、少女の期待に応えてあげられそうにない藤野は、単調な声音で、単調な言葉を吐き捨てた。

「そうですかって、何か、こう、ほら、もっと言うことがあるんじゃないの?」

 そして、少女は分かりやすく、今度は八割強の憤りを混ぜた感情を露わにする。ポニーテールはより揺れて、少女の端正で可愛らしい顔は藤野の顔に急接近する。

「いきなり求められましても……」

「藤野君って朴念仁なんだね」

「……?」

「はあ、それならそれで良いんだけどさ」

 答えが分かり切っているのにもかかわらず、藤野は鈍感なふりをして、自身の解の隙を無くすための言葉を少女から引き出した。そして、やはり尻すぼむ少女の語調を認めた時、彼は秘密裏にほくそ笑んだ。

 あさましい彼の悪戯心の手玉に取られていることに少女は気付けない。そのため、少女は紅潮する顔を見せないために顔を伏せたかと思うと、すぐさま彼に向けて顔を上げる。恋する純粋な少女の輝かしい顔は、彼の嗜虐心を刺激すると同時に、これ以上少女と関わりたくないという拒絶を彼女から引き出すのである。

「それじゃ、今日から知り合いになろうよ」

「……」

 自らの感情に素直な藤野は、溌溂とした笑みを浮かべる少女に対して顔をしかめる。

「そんな顔しなくても良いじゃん……」

 藤野の拒絶に、少女は分かりやすく気を落し、落胆の言葉を漏らした。

 あまりにも弄びやすい性格をしている少女を、彼は少女の無垢な心を分かっていながらさらに、弄び、虐げられている現状を慰める薬として自らに処方しようとした。しかしながら、一時的な安息を得るよりも抜本的な解決を優先しなければならないと、教室を出ようとする明野の横顔を見て、彼は思い返した。

「すいません。ちょっとした用事があるので、話は自習中にしてもらえると助かります」

 億劫な少女について先送りにした藤野は、既に教室の外に出てしまった明野を追いかけようとした。

 だが、少女が立ち去ろうとする彼の学ランの袖をつかんだことにより、これは妨げられる。

「すいません。放してもらえますか?」

 表情を取り繕って笑みを浮かべた藤野は、少女のしなやかでほっそりとした手を優しく撫でる。微かに彼の体温が自らの手を通して伝わってくることに、少女は飛び上がるくらい驚き、そして顔を真っ赤に上気させる。

 しかし、少女もまた彼と同じように一時の感情に囚われることなく、自らの伝えたいことを彼に伝えようと、震える唇を何とか開く。

「水梨ミオ。私の名前だけでも、今覚えてよ」

「……はい」

 清純な少女の紡ぐ言葉は、水梨に対して抱いていた鬱陶しさを藤野から取り除いた。

 しかし、彼はこれを認めようとはしなかった。

 それは意固地のためである。彼は女性の感情に流されたくなかったのである。したがって、彼は俯きがちに唇を嚙みながら頷く。そして、逃げ出すように教室から居なくなった明野を追いかけた。

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