第21話

 まるで藤野を待ち構えているように、明野は最も人が利用しない教室棟の西端にある踊り場の壁によりかかって、薄暗い中でスマホを弄っている。眼鏡をかけ、制服とタイツを纏う彼女の姿は、昨夜の艶やかな彼女とは対照的な位置にいる。

 クラス委員としての彼女を見上げる彼は、歯がゆい気分に襲われる。確かに彼女の凛とした姿勢は多くの人に慕われるだけに値する。自分が生きるために不要だとして切り捨てた他人から向けられる尊敬というものの価値が、彼女の凛とした姿にはあるのだ。これが歯がゆさの要因であった。

「あれ、意外と早く終わったんだ」

 スマホから視線を移さず、明野は昨夜の声音で藤野を捉えた。

 自分を歯牙にもかけない女王の言動に、彼は苛立ちを覚える。

「違う。終わらせたんだ。鬱陶しいからな」

 したがって、藤野は白々しい嘘を吐いた。自分でもどうして目の前の奴に、どの道ばれるであろう嘘を吐かなければならないのか、彼は自分でも分からなかった。

 そして、危惧していることは大抵起こるものである。

 瞬間的に彼の嘘を見抜いた明野は、口角を嫌味に上げて物理的にも、精神的にも彼を見下す。

「嘘吐きの言葉だ」

「……」

 ものの見事に危険視していたことが現実となった藤野は、女王の視線から目を逸らして、口を閉じた。あまりにも分かりやすい応対に、彼女は彼をあざ笑う。

「さっきも言われたと思うけど、沈黙は肯定だぜ。だから、図星を突かれても何か言葉を返すことを私は勧めるよ。ぜひ、私にあんたの醜い言い訳を聞かせてくれたまえよ」

「うっせえよ」

「それで良いんだよ」

 ひとしきり藤野を弄り回したところで、明野は満足したらしく、スマホを制服の内ポケットに仕舞うと、軽やかに階段を下り、彼の肩を肩で小突く。

「で、私に何の様かな、奴隷君?」

 そして、藤野の右真横で立ち止まった明野は、彼の顔を覗き込みながら問いかけた。息がかかるほど近い距離で見る彼女の端正な顔に浮かぶ嗜虐的な笑みは、彼のプライドを傷つける。

 苛立たしくも何も言い返せない彼は、奥歯を噛みしめる。しかし、体を強張らせ、何も言わず敵意だけを放っていても何も始まらない上に、彼が厭う水梨は自分と半ば同じ立場に置かれても自らの伝えるべきことを伝えてきた。したがって、彼は小さくため息を吐くと、覗き込んでくる細められた彼女の目を見つめる。

「お前の家族のことだよ」

 そして、藤野は包み隠さず明野に尋ねた。

 やはり触れられたくないことなのか、彼女の雰囲気は自分以外を意図しない冷徹な女王の雰囲気に変わった。そして、彼女の細められた目は大きく開き、瞬き一つせず、彼の横顔を見つめる。まるで猛禽類が獲物を狙うように。

 瞬時に代わった雰囲気に、彼は微かにうろたえる。しかし、彼の脳裏には先ほどの水梨の姿が思い描かれ、逃げ出そうとする思考自体を否定する。したがって、彼は自らのプライドにかけて、逆鱗に触れられた龍と言葉を交わさなければならないのである。

「それがどうした?」

 底冷えるする女王の声音は、臆病な奴隷の心を震わせる。

 だが、体裁を取り繕うことだけは千両役者よりも上手い藤野は自らの精神を隠匿する。

「どうしてお前はお前の母親を嫌ってるんだ? 嫌うんだったら、父親の方じゃないのか?」

「へえ……」

 意に介していないかのように言葉にならない声を発すると、明野は藤野を中心に円を描くように彼の周りをゆっくり歩き始めた。もっとも、彼女の視線が彼から離れることは無い。

「まあ、答えてあげても良いんだけどね」

「……タダじゃ教えられない」

「正解! 流石に頭が良いだけあるね。あんたは中々、良い目をしているよ。もっとも、聡明なあんたがあんな下らないことで承認欲求を満たしていたから、これは特別褒める点でもないんだけど」

 真正面で急に立ち止まり、猫のように目を細めて無邪気に笑う明野の顔は、藤野の目に不気味に映った。笑っているのにもかかわらず、内面は酷く冷たくてどす黒い感情が籠っていることが透けて見えるためである。

 明らかにこれ以上踏み込まないよう、遠回しな警告を発している。理知的だが、動物的な威嚇とでも言えば良いのだろうか、ともかく彼女は自身の家庭に関する話題から何とか逸らそうとしている。

 しかし、ここで逃げ出してはいけない。やらなければ、少なくとも気ままな女王が飽きるまで、彼の自由が奪われることは確定してしまうのだから。

「けど、利口ではあるだろ? 話の通じない馬鹿よりはずっとマシだ。少し頭が良いからあぐらをかいて、傲岸不遜態度を取ってる奴よりもずっとずっとマシだ。意外と俺は優良物件なんだぜ」

 腹黒い冷たさに当てられながらも、藤野は軽口を叩いた。

「あんたは後者に当てはまるよ」

「そうかもな。けど、それを含めても俺は俺の質を分かってるつもりだ。自分がどうしようもない愚昧な存在であることを理解しているさ」

 少なくとも自分ではそう思っていることを、藤野はつらつらと紡いだ。

 だが、彼の自己評価は明野にとっては真逆であったらしい。そのために彼女は声が漏れないように、けれども腹を抱えながら彼をあざ笑う。

「いいや、あんたは認識してないよ。自分がどれだけ馬鹿野郎で、堂々巡りで阿呆なことをやっているのか、あんたは認識していない。だから、今もまだ続けようとしているんだよ。いや、続けざる負えないって言った方が正しいのかな」

「返す言葉もないな」

 嗤われる藤野はもちろん、苛立ちを覚えた。

 だが、この明野の嘲笑がもたらした苛立ちは彼を省みさせた。すると、確かに自分は彼女の言う通りであることに気付いた。もっとも、たった一点だけ、彼女の指摘を受け入れることは出来なかったが。

 苛立ちとそれに伴う憤りを通り越し、一種の悟りのような境地に至った彼のやけに落ち着いた表情は、彼女の笑いを冷ました。嬉々として表情の代わりに、冷めきって酷くつまらなそうな表情が彼女の顔に張り付いた。

「従順なのは良いことだけど、あんまりにも従順だとつまらないよ」

「お前はどうして欲しかったんだ?」

「顔を真っ赤にして、目尻に涙を浮かべて、地団駄を踏んで、その余裕たっぷりな顔面をぐちゃぐちゃに崩しながら、私を睨みつけてほしかったね。昨日みたいに」

 昨夜のことを思い起こす明野は、感情の起伏の無い顔面に恍惚とした笑みを浮かべる。彼女の笑みは、藤野に昨夜の恥辱を思い出させ、彼の体を上気させる。

 しかし、微かに恥じらう彼の反応は、女王の嗜虐心に適っていたようで、彼女はうっとりと頬を紅潮させる。その表情は酷く残酷である。

「お前は良い性格してるよ」

 残酷な女王に向ける言葉として、奴隷が持ち合わせていたのは女王の性格の悪さを指摘する程度のものしかなかった。もしも、これ以外の言葉を用いれば、さらに彼女の嗜虐心を煽り立て、過去の恥じらいが掘り起こされることとなるのかもしれなかったためである。

「ありがとう。嬉しいよ、あんたにそう言われると」

「皮肉ってことを分かってないのか?」

「分かってるよ。分かってるからこそ、嬉しいんだ。だって、皮肉によってあんたは私の性格が悪いってことを認識している。そして、このどうしようもないくらい醜くて美しい私の性格が生み出された原因をあんたは探ってくれるでしょ? そう考えると、嬉しいんだよ」

 だが、藤野の理解の範疇を超え、明野は彼の言葉に恍惚としながら喜びを見せた。意味の分からない喜びを前にした彼は悪寒に覚えた。肌は粟立ち、反射的に彼女から一歩退いてしまった。生理的な拒絶が彼女に対して産まれたのである。

「そんなに怯えなくたって良いだろ? 私たちだって、もとは一つの胚だったんだからさ。同じ場所から産まれて、たまたま違った方向に育っただけなんだからさ」

「極論だ」

「いいや、事実だよ」

 身の危険を案じて一歩退いた藤野に、明野はにんまりとした笑みを浮かべながら歩み寄った。そして、彼の眉間に人差し指を当て、怯える彼の双眸を笑っていない眼でジッと見つめる。彼とは異なり、揺れ動くことのない彼女の目は自らの発言が冗談ではないと証明するだけの力が籠っている。

 しかし、例え彼女の言っていることが真実だとしても、彼にそれを無理解の内に放り込むことしかできない。彼女の言っていることは、あまりにも広範囲であると同時に輪郭が極めてぼんやりとしており、彼はこれを形而上の物資として認識し、咀嚼することが出来ないためである。したがって、吐息のかかるほど近い猛禽類のような女王に対して首を傾げることしかできない。

「まあ、分からなくても良いよ。いずれ分かるようになるだろうしさ。その時まで私の言ったことをよく覚えておいてね」

 当惑する藤野の反応に満足したのか、明野は一歩退くと今度はクラス委員としての仮面をつけて彼に微笑みかけた。ほんの一瞬間前までは、冷酷な仮面を纏っていた人間とは思えないほど慈愛に満ちた笑みは、彼の感覚を麻痺させる。

 だが、麻痺したからと言っても、自らの目的を見失う程、蒙昧になった訳ではない。彼は咳払いをし、精神的な動揺を何とか収めた。

「覚えておくよ。けど、その代わりにお前がどうして母親のことを嫌っているのか、教えてくれ。それで等価交換だ」

「あんた、自分に都合が良すぎる等価交換だとは思わないの?」

 ご都合主義の取引を持ち掛ける藤野に対し、女王の仮面を再び付けた明野は腕を組んだ。そして、高圧的な態度で彼を問い詰める。しかしながら、今の彼女が見せる威圧的な態度は、先ほどの冷徹な雰囲気に比べれば恐れるに足りない態度である。

 経験から免疫を身に着けたため、彼が彼女に動揺することは無かった。むしろ、毅然とした態度でレンズの奥の双眸を捉えて、今しようとしている取引の正当性を訴えた。

 億することなく女王として自分に立ち向かう奴隷を意外だと感じたのか、彼女は雰囲気に似合わず、瞼をいつもよりも大きく開いた。

「へえ、でもその態度は気に入ったから乗ってあげるよ」

「……ありがとう」

「私があんたに感謝される義理は無いでしょ」

「間違いない。けど、お前が口を開かないと判断すればそれまでの話さ。だから、これは口を割ってくれることへの感謝だよ。お前自身に対する感謝じゃない」

「捻くれ野郎め」

「お前の大概捻くれてるよ。大体、女子高生の癖にドアーズを聞いている時点でかなりね」

「そういうあんたも知ってるじゃん」

 そして、どういう訳か主従関係と取引に関する会話は、日常会話へと変質した。

 しかし、二人を繋ぎとめているものが変わることは無い。

「まっ、何はともあれ今日の放課後、私の家で私が母親を嫌う理由を教えてあげるよ。もっとも、私の家に来るっていう行為そのものを否定する権利あんたは持ち合わせていないことを頭の隅に置いておいてくれるとありがたいね。それから、私の家に入るってことの覚悟も準備しておいてね」

 微かな友情の温もりを互いに感じ合ったところで、明野はこれを拒絶する言葉を発した。そして、藤野は彼女の言わんとすることを認識した。また、彼はどうして厭うべき存在に分かり合えることが無いのにもかかわらず、歩み寄ってしまったのか、後悔の念を抱いた。

 理解に苦しむ自らの行動を俯瞰的に認識すると、彼女が浮かべる笑みに対し、得手勝手な苛立ちを覚えた。しかし、彼はこの苛立ちが彼女に向けて発散されようとするものではなく、自身に向いて突き刺さるものだと捉えた。この直感的ではない感情に、彼は当惑する。

「分かった」

 そして、当惑のために芯の無い声しか紡げなかった。

 急に語気を弱めた藤野に、明野は物悲しい視線を彼に送った。今まで見たことのない哀愁が漂う、霧状の曖昧な悲しみを彼女は帯びたのである。

 だが、困惑の中に落とされた彼が彼女の変化を認識することは出来なかった。彼は彼自身の分からない感情に関する応対で手一杯であったのだから。

 困惑と物悲しさの二つの雰囲気は、秋の寒い朝に溶け込み、奇妙な情緒を薄暗く、埃っぽい空間にもたらす。しかし、この不安定であるが、実体を持たない美しさを持った情緒も、一限開始を告げるチャイムによって崩壊する。

「それじゃ、戻りましょうか、藤野君」

「はい……」

 纏っていた仮面も何もかもをすっかり挿げ替えた明野は、立ち尽くす藤野の手を、クラス委員として取った。

 急な口調の変化と、贋物の真面目さを取り繕った彼女に彼は驚き、どうしてそこまで素の自分を見せないのか疑問に思った。だが、彼女本人についてほとんど何も知らない彼からすれば、いくら考えても分からないことでしかない。

 したがって、彼はこの疑問を破棄し、クラス委員の体裁を取り繕った彼女の手も振り払った。自らの信条のためにも、彼は彼女から、いや理想的でない女性という存在そのものから差し伸べられる手を振り払わなければならないのだ。

「流石は私の奴隷だ。自分を騙しはしないね」

「俺は俺自身の足と手で歩けるからね」

「まっ、ともかく行きましょうか。一緒に遅れて色々詮索されるのは、藤野君にとっても嫌なものだろうしね」

 偽物の笑みを浮かべる明野に、藤野も作り物の笑みを返す。そして、彼女より一足先に歩み出した。また、彼が数歩歩いた後に、彼女は彼の背中をゆっくりとした足取りで追い始めた。恍惚とした笑みを浮かべながら。

 一限が自習ということもあって、クラスの中は隣クラスに声が届かない程度にどよめていた。基本的に騒々しい空間を嫌う藤野であるが、この瞬間だけは、このどよめきを喜んだ。それは自分と共に、別々の入り口から教室に入った明野との関係を覆い隠すことが出来たためである。もちろん、微かな警戒心を巡らせていた者は静かに開いた扉に視線を向けたが、異方向に向けることは人体構造的に不可能であったため、これを気にする必要はなかった。したがって、二人は余計な面倒ごとを考えず、各々の日常に回帰出来たのである。

 だが、それは自らの席に着くまでの瞬きの間でしかなかった。

「ねえ、トオルちゃんとはどういう関係なの?」

 先ほど結んだ約束により、藤野は放課後に対して倦怠と希望を抱いた。この二つの感情は彼が先送りにした問題をうやむやにしていた。放っておきたいものを、すっかり彼の記憶から消し去っていたのだ。したがって、彼には先送りしていた問題が降りかかるし、これに応対するための、彼に言わせれば鬱陶しい時間が生じるのである。

 逃げることの出来ない隣席の水梨は、身を乗り出して藤野の耳に小さな声で尋ねた。

 しかし、彼は息が耳にかかるほど近い水梨に注目を向けることは無かった。彼は水梨の机の上を見た。机上には申し訳程度の白紙のノートと、先ほどまで使っていたであろう猫がホーム画面に設定されてるスマホが置かれていることを認めた。そして、彼は水梨が凡庸だけれど善い性格をしている女性だということを認めた。

「トオル?」

 微かに頬を赤らめているであろう水梨の問いかけに答えず、藤野は水野の問いよりもよっぽど気になる名詞に関する問を投げかけた。

 自身の問いに答えてくれない彼に、水梨は頬をハムスターのように膨らませて、わざとらしく怒った表情を見せた。これに彼は安堵の息を吐いた。

「もしかして、藤野君って明野ちゃんの名前知らないの?」

「ええ、知りません」

「知らないにも限度があるよ」

 水梨は他人事なのにもかかわらず、まるで自分のことのように憤った。

 しかし、水梨の怒りは怖いよりも可愛らしいが勝った怒り方であった。

「けれど、興味の無いものに俺は興味を持てません」

「ひっどい……」

 六割の本音と四割の冗談を混ぜあわせた非難を発し、体で椅子を引くほどの衝撃を水梨は受ける。そのあまりにもわざとらしい、反応は藤野に苦笑をもたらす。

「すいません。疎くて」

「疎いとかそういう次元じゃないよ。トオルちゃんって、別に私たちのクラスだけじゃなくて、この学校中の人とか他校の人とかが知ってるくらいの結構な有名人なんだよ」

 世捨て人のような藤野の見聞を憐れむように、水梨は口早に、明野について熱心に語り始める。彼は彼女を語ろうとする水梨の態度を見て、ただの女の一人である彼女が、まるでアイドルのように認識されていることに気が付く。

「まず、頭がいいでしょ。それから、カリスマ性? っていうの? 皆を纏める能力があるし、困ってる人が居たら惜しまず助けてくれるんだよ。この間なんてヒカリエで迷子になってる女の子をお母さんのところまで送ってあげてたし」

「その場に居たんですか?」

 クラス委員としての仮面をつけた明野の姿勢は、藤野の彼女に対する印象から大きくかけ離れていた。彼自身、この乖離を体験しているため今更驚くことではなかった。

 しかし、プライベートで行動している中でもクラス委員としての仮面をつけていることに彼は驚いた。もちろん、その当時の彼女の傍らには友達が居たのかもしれない。このことを踏まえれば、彼女のプライベートの応対は驚くに値しないものである。

 だが、この前提が無かったとしたら、彼女の二面性は極まっていると考える他ない。自らの公的な印象を少しでも汚さないように、私生活にも気を遣っている彼女の姿勢は徹底したものであり、彼女を嫌悪する彼も認めなければならないことであった。そして、この可能性は潰したいがために、彼自身の意固地のために、彼は水梨に尋ねたのである。

「いや、噂だけど」

「噂ですか……」

 確証の無い回答に藤野は明らかに肩を落とす。

「そんなに落ち込む必要があるの?」

 そして、自分勝手な反応をする藤野に水梨は口を尖らせた。嫉妬が含まれた水梨の声は、彼の心持をどんよりと曇らせる。

「いえ、ただ、酷く真面目で親切な人が居るもんだなと思っただけです」

「ホントに? もしかして、トオルちゃんのことが気になってたりする?」

「しませんよ。性格とか、顔とかが特別良くたって、俺には俺の好みがありますから」

 一刻も早く会話を止めたい藤野であったが、自ら色恋沙汰に関する言葉を発してしまった。

 案の定、水梨は餌を見つけた子犬のように興奮した様子で、体を彼に近づけた。曇りなき、彼女の大きな目は彼の顔を捉えて離さない。

「ほうほう、ならどんな子がタイプなの?」

 人が醸し出している空気を読むことが苦手なのか、もしくは気付いていながらも有益な情報を引き出すためにわざとやっているのか、水梨は直球な質問を妙に明るい声で投げかけた。藤野にしてみれば、鬱陶しいことこの上ない問いかけであり、答える義理もない質問であった。このため、彼は溜息を吐いて、水梨には悪いが強制的に会話を終わらせようとした。

 だが、意識的に肺に空気を取り入れたその時、藤野は純粋な少女の顔が微かに赤らんでいることに気が付いた。すると、彼の歪んだ嗜虐心が目を覚ました。

「……活発で健康的な人ですかね。あと、理知的で同い年であればなお良しです。本能のままに動く人ではなくて、どんな時でも自らの理性に従っている人が俺は好きですよ」

 わざとらしい微笑を、わざとらしい柔和な声に合わせて藤野は水梨に届けた。

 今まで見たことのない彼の柔らかな表情は、彼の想像通り水梨の頬を紅潮させた。それはもう見事なまでに赤く。もちろん、水梨は顔に熱が集まっていることを理解していた。このため、水梨は肌寒い室温なのにもかかわらず、その場しのぎの演技で暑そうに顔を手で扇ぐと、自身の表情を見せないために彼から顔を逸らした。

 純粋な少女の双眸が自身の姿を捉えなくなった時、彼はあくどい笑みを浮かべた。悪魔の微笑とでも呼べば良いのだろうか。歓喜だとか愛くるしさとかのために突発的な笑みではなく、内面の腐った精神的な臓腑からにじみ出る胆汁の如き笑みを彼は彼女の横顔に向けたのである。

「ってこと、ワンチャン……。いや、確実に狙わないと……」

 明野によって著しく自由を抑圧されていた藤野の耳に、水梨の熱っぽい呟きは一文字も書けることなく入った。これによって、彼はさらに口角を上げる。

「ね、ねえ、藤野君?」

 再び表情を柔和なものへと換えると、藤野は水梨の微かに揺れる瞳を見つめた。

 彼が捉えた赤らみがまだ引いていない水梨の表情は、誰がどう見ても恋する少女そのものであった。

「昼休み、三棟三階の空き教室に来てくれないかな? ちょっと、伝えたいことがあるんだけど」

 恋する少女は潤む瞳と極度に震えた小さな勇気ある声で、藤野が待ち望んでいた要件を伝えてきた。もちろん、彼は首を縦に振り、少女の提案を受け入れた。

 すると、少女は極めて嬉しそうな表情を浮かべた。

 あからさまに喜ぶ水梨に、彼もまた微笑みかけた。

 二人の様子は外見的には決まりきった運命を予感させるものである。しかしながら、内面を覗いた時、二人の感情は極めて離れている。

 ただし、彼はこの感情が離れれば離れるほど、内面に喜びを抱くのである。また、彼はさらに自身の感情と純朴な少女の感情とに距離を持たせるために、本来は鬱陶しくて仕方がない雑談をし始めた。そして、クラス委員としての仮面をつける明野の学校での姿についてより細かく、情報を得た。

 しかしながら、人の心を弄ぼうとする罪人には偶発的な罰がもたらされる。とはいえ、罰というには、その概念が持ち合わせている範囲は極めて狭く、彼だけをピンポイントで狙う罰でしかないのだが。

「そう言えば、藤野君の白髪って地毛なの?」

 雑談中、藤野が度々髪を弄っていたことが気になったのか、水梨は雑談の延長線上にある語気で彼に尋ねた。しかし、彼にとっては何気ないで済ますことの出来ない話題であり、生理的な拒絶反応を自身と水梨に向けることとなった。もちろん、彼が生じた嫌悪感を発露することは無かった。

 ただし、雑談の空気感を彼は意図せず変えてしまった。これはそれまで相槌や笑みを絶やさなかったのにもかかわらず、水梨が問いを投げた瞬間、彼が全ての演技をかなぐり捨ててしまったのためである。

  

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る