第22話

「もしかして、地雷だった?」

 共有していた空気が明らかに変質したことを認めた水梨は、先ほどまで笑みを浮かべていた柔らかく暖かい顔を強張らせ、首を傾け、手探りの言葉を発した。純粋な少女が発する疑問文は、無意識下にやってしまった空気の変容のありのままを藤野に伝え、彼は自らの過ちを認めさせた。

 一方的な状況だと思っていたのにもかかわらず、突如として立場が逆転したことは彼の驕慢な精神を改めさせることとなった。もちろん、歪んだ精神が根本的に改善させるということは無い。ただ、不用心であったという一点に置いて彼は自らの精神を正そうとしたのである。

 また、彼は同時に自身を不安定な瞳で見つめてくる少女に対する最適解を返す必要に迫られた。だが、冷静になってまだ間もなく、自らの不用心さに喝を入れたばかりの彼は自分自身がこの場を丸め込むことの出来る最適解を見つけられるわけがないと判断していた。

 したがって、彼は半ば諦めた調子でどういった答えを返せば、水梨は唐突な空気の硬直を理解することが出来るのであろうか微かな沈黙の中で考え初めた。加えて、この考え始めたという時点で彼の首には綿が巻かれており、徐々に徐々に時間経過に従って彼の首は絞められてゆく定めにあった。沈黙というのは、物事を硬直化させ、空気を悪くさせるのにはうってつけの道具であり、自身の素性を知られたくない者にとっては絞首台の荒縄と同じなのだ。

「まあ、正直に言えばそうですね」

 締まりゆく首を認めた藤野は、その苦しさから逃れるために、悲しみを含めた笑みを浮かべた。恋愛映画のワンシーンを再現したような彼の笑みは、純粋な少女の心を微かに彼の触れられたくない話題から逸らした。もっとも、この作用は彼が想像していなかったものであると同時に、彼が捉えることの出来なかったものである。

「……あっ、ごめんね。余計なこと、聞いちゃってさ」

 悲壮感漂う中性的な美少年の微笑に、水梨は見惚れて言葉を失っていた。そして、間抜け面をさらす少女に少年は媚びるように首を傾げた。さらさらとした少年の白髪は、頭の動きに従って一本一本、はらはらと耳にかかったり、垂れさがったりする。この一連の髪の動作と、少年の憂いと困惑に満ちた表情は酷く美しかったらしく、水梨の意識を反作用的に少年の話題へと向けさせた。

 ばつの悪さと阿保面を藤野に見せてしまったことに対する恥じらいで顔を微かに上気させる水梨は、心の底からの反省を伝えるために頭を下げた。

「いえ、謝るのは俺の方です。せっかくの会話の空気を台無しにしてしまったんですから」

「違うよ、悪いのは私の方だよ」

 思っても居ない笑みを貼り付けた藤野の心の籠っていない発言を、純粋な少女は顔を上げて否定した。水梨の表情には、微かに双方向性のある憤りが混じっていた。これを認めた時、彼はより不味い方向に会話は進んでいくだろうと感じた。

「……まあ、こんなことを話していても行きつく先は水掛け論でしかありません。ですから、不毛な言い争いは止めましょう。水梨さんも、俺も不利益しか被りませんし」

 直感が伝えてくる予感に従って、藤野は会話を何とか打ち切ろうと試みた。

 しかし、彼の発言はどこまでも裏目に出るらしく、水梨は妙な正義感を纏った慈愛の笑みを彼に向けた。そこには彼に対する配慮だとかは無く。ただ自己満足的な関係を紡ごうとする意志しか籠っていない。

「うん、そうだね。止めよっか。けど、良かったら話してくれないかな? もしかしたら、何か助けられることがあるかもしれないしさ。根本的に変えられなくても、藤野君の支えにならなれると思うんだ」

「……」

 自己完結でデリケートな部分を触れようとする少女の人格に、藤野は極めて強烈な嫌悪感と憐憫を覚えた。純朴が故に、自身の正義感と価値観に従って自発的に起こす行動が全て善行であると認識している少女は、彼の目には憐れな存在として映るのだ。同時に極めて感性的な人物であるという確証でもあるため、彼は嫌悪を抱く。

 だが、二つの情よりも先に彼は水梨の発言に対する解を、瞬間的に見つけなければならなかった。もはや、沈黙は許されないのだ。

「それじゃ、聞いてくれますか?」

 ごく短時間で高度な思考をした結果、藤野は水梨に正直に自身の髪が持つ因果関係を語ることとした。これは彼がこの短時間の会話で水梨に抱いた信頼に基づいたものであり、またこの後に彼が楽しみにしていることの良いスパイスにもなるだろうと考えたためである。

 驕慢な彼の内面に反し、曇りなき善良な慈愛により彼の話を受け止めようとする水梨は、暖かい母親のような微笑を浮かべたまま頷いた。この動作もまた彼に、先ほどと同様の二つの感情与えた。

「俺、両親が居ないんですよ」

 他人に向けた余計な感情が生じたためか、藤野は震えるかと思っていた第一声を澱むことなく紡ぎ出すことに成功した。そして、形容しがたい達成感を抱いた。

 しかし、彼の抱いた達成感は水梨が向けてくる動揺と憐憫が混じり合った視線によってかき消された。

「俺の両親、俺が赤ちゃんの時に離婚して、俺を捨ててどっかに行っちゃったんですよ。それで俺は母親の兄、つまり叔父さんに預けられてここまで生きてきたって訳なんです。父親の顔は知りませんし、母親の顔も叔父さんが持ってた写真でしか見たことがありません」

「そんなのって、許されるの?」

 震えて定まらない憤りを含めた声を水梨は発した。

「許されるんですよ。あの人は、俺の親権を取った母親は自分の兄に俺を預けるとそのまま蒸発しました。それなのにもかかわらず、母親は社会的な罰を受けてません。だから、俺を捨てたのは罪ですらないんですよ。許す、許されない以前の問題なんです」

「……でも、そんなのはおかしいよ」

「俺もそう思います。自分の子供を捨てるなんて、しかも俺一人だけ……」

 同情を多分に含んだ水梨の言葉は、藤野の胸中の拒絶を強調させた。

 しかし、彼の胸中には勃興する嫌悪の他に、これと背反する感情も勃興した。だが、興った感情を認めようとはせず、水梨に対する嫌悪感だけを必死に捉えた。

「一人だけって、どういう意味?」

 内外に意識を向けた藤野であったが、その弊害として失言をしてしまった。もっとも、それは彼の理性が失言と認めただけであって、彼の感性はこれを本音として捉えていた。しかし、彼は自身の感性を否定し、理性による判断だけを許容をした。

「いえ、何でもないです。そんなのはどうだって良いんです」

 慈しみの前に緩む自身の感性を、藤野は認めたくなかった。したがって、彼は話題を無理やり逸らそうとした。自身の失言、出生に関するコンプレックスの根幹をなしている話題をこれ以上、水梨に話してしまえば、自身の信条に反する恐れがあったためである。

 何かに恐れ、怯える憐れな少年を前にした水梨は、彼の言わんとすることを了解し、憤りに強張った表情を微かに緩めた。意識的なこの行為は、彼を苛立たせる。

「だから、俺は両親が心底嫌いなんです。この上なく嫌いです。なのに、この体は二人の遺伝子を基に出来ているんです」

「……ということは、その髪って」

 この瞬間だけ悟る能力が向上したのか、水梨は藤野にしか聞こえない囁くような声音で、彼の髪を指摘した。

 急に聡明になった水梨に、彼は普段よりも大きく瞼を開けると小さく頷いた。同時に彼の心は微かに温まった。しかし、彼はその現象をありないものとして認めなかった。

「ええ、遺伝なんですよ。それも母親からの遺伝です。心底嫌いな、この世で最も不潔で不誠実な人間から受け継いだ最悪の象徴です」

 悔しさからか、怯えからか、藤野は下唇の端を嚙んだ。そして、今まで真っすぐと捉えていた水梨から視線を逸らした。

「だから、嫌なんです。この髪」

「……」

 目を伏せ、藤野は手を見つめ、自己に対して抱く嫌悪をひしひしと感じる。心臓は妙にうるさく、思考は纏まらない。

「けど、綺麗だよ。藤野君の髪」

 慈しみに満ちた許容の言葉を純朴な少女は発した。

 だが、藤野が求めていたのは許容ではなかった。これは彼の理性も感性も訴えかけていることであり、思考が纏まらない中でも、これを判断することは容易であった。

「……ありがとうございます」

 しかし、フラストレーションを爆破させるわけにはいかない。したがって、彼は苛立たしく、気色の悪い水梨の見ずに思ってもない短い謝辞を述べた。

「本当に綺麗だよ。それに藤野君は、藤野君の両親と違って優しいし」

「……言わないでください」

「いや、言わせてもらうよ。だって、ずっと隣で見てきたから」

 もっとも、謝辞を述べたところで藤野が苛立つ要因を完全に断ち切ることが出来るのかと言えば異なる。むしろ、謝辞を述べ、柔らかに拒絶すればするほど、少女は彼を苛立たせる言葉を吐き出す。

 うんざりするほどの綺麗事が、慈愛の声でささやかれ、彼は体を強張らせる。そして、普段なら抱くはずのない野蛮な暴力さえ、彼の脳は抱いた。

「あっ、時間だ」

 苛立たしい時間は一限終了のチャイムにより終えた。

 酷く不快な時間が終わったことに藤野は胸を撫でおろし、安堵の溜息を水梨に聞こえないように吐いた。

「それじゃ、忘れないでね。もしも、来なかったら恨むからね」

「はい」

 目も合わせたくない苛立たしい少女が、隣から立ち去ると藤野は力強く手を握りしめた。同時に水梨に抱いてきたありえざる感情を、理論に基づいて否定する作業に移ろうとした。

 だが、間の悪いことに次は移動教室であったし、彼がこの作業を実行しようとした瞬間、彼のスマホは振動した。

「牧かよ」

 藤野は乱暴にスマホを取り出すと、牧からのメッセージを認めた。トークアプリに表示される牧の砕けた文章の内容は、彼を無性に苛立たせた。

「なんで俺なんだよ。桑原の彼女だろ……」

 何せ、その内容は水梨との予定に被っていたのだから。

  

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