第8話

 傲慢で悪逆に満ちた思想に偏った桑原の言葉に、藤野は矛盾を覚える。契約によって生まれる情欲においては道徳を見せ、純粋な恋慕より産まれる情欲においては悪徳を覚える桑原の根性が、彼にとっては不可解に見えたのである。もっとも、この不可解は彼が今この瞬間に覚えたわけではなく、桑原の女性関係を知ったその時から彼は抱いていた。したがって、彼がこれを強烈に感じているのは、過去よりも今現在の方が、矛盾を示す鮮明な色を持っていたからに過ぎない。

 とはいえ、彼は桑原の持つ矛盾にこれといった不快感を覚えたことは一度もない。それは今も変わらず、彼は低血糖のせいでぼうっとする顔で、惨い行いをしている少年の素直な表情を見つめるだけである。

「いつか痛い目見るぜ。神様はいつも見守ってくれてる。悪い人間にたぶらかされる弱者をさ」

「神様を俺は信じてねえから問題ねえよ。それに契約から言えば、加護を受けてる奴だけが罰を受ける。何にも支払ってもらってないのに、一方的な罰を与えるって言うのは没義道なことだ。道徳の権化、美徳のアイドルたる神様はそんな罰当たりなことしてくれないさ」

 桑原に自らの体を差し出している哀れな彼女のために、藤野は信じてもいないし、居るわけがないと信じ込んでいる神様を引き合いに出し、愚行をたしなめようとした。

 しかし、本心から乖離した彼の言葉を悟ったのか、桑原は現代的な意見と得意げな顔でもって、真っ向から神様が持つであろう機能を否定した。清々しいほど冒涜的な桑原の言葉は、彼が持つ道徳心に作用し、彼に愉快をもたらした。そして、湧き上がる薄汚れた感情に従って、彼は力が出るはずのない体を強張らせ、加虐的な笑みを漏らす。

 本心から笑う彼に、桑原は疑問符を浮かべる。先ほどの言葉には虚飾を施していたのにも関わらず、急に笑い出す彼の様子は桑原の目には奇妙に映った。

 しかし、それ以上に幾重にも重ねた嘘の衣の内側から噴き出る彼の笑みに桑原は魅かれた。自分との契約下でしか見せない熱を帯びた笑みと根底は同じではあるが、性質の異なる彼のコメディカルな笑い声は、余計な言葉を挟むことなく、聴き続ける価値があると桑原は判断した。したがって、彼に対する疑問符を置き去りにして、桑原は彼が笑い止むの待つこととした。

「なんで黙りこくるんだ。俺だけが恥をかいたみたいになっただろ」

 暫時、笑い続けた藤野は体の玄関を迎えると、再び机に突っ伏した。そして、顔だけを上げ、頬を可愛らしく膨らませながら桑原に詰め寄った。

 本心から乖離した言葉を紡ぐ彼に、桑原は少々気を落とす。待ち望んでいた態度はすっかり消え去り、後に残ったのは目新しくない虚飾の彼であったのだから仕方がないことだと言える。

「恥知らずが思ってもないこと言うなよ」

「恥は知ってるさ、ただ知っているからこそ恥をかきたくなるだけだよ。人生は刺激さ。多種多様な、自分にとって不快なものであっても、色々な刺激を味わなければ、この世に面目が立たないよ」

 滔々と自らの人生観の一部を語る藤野の流暢な言葉は、桑原の右耳から入って左耳から出て行った。

「お前の姿勢には、いつも感心させられるよ」

 そして、聞き飽きた藤野の言葉をこれ以上聞きたくない桑原は立ち上がると、彼に背中を見せながら嘘八百を唱えた。

「お前も変わらないよ」

「いや、違うぜ。俺とお前は、やってることは変わらないかもしれないけど、本質はかなり違う。お前のそれは自分を壊すためにやってることでしかないしな」

「お前は違うのかよ」

 自らの理論を馬鹿にされたように感じた藤野は、大きな桑原の背中を睨みつける。

「俺は違うぜ。俺は自分の欲に従ってるだけだ。定めた形式なんてくだらねえことだし、人間は型にはまったらその瞬間からつまらなくなる。だから、理論なんてどうでも良いんだ。俺はお前のそれを否定する気はないし、俺は自分の行動を省みる気もない」

「お前のそれは、自分の尊厳を自分で殺していることにならないか?」

 堕落を極めた桑原の理論に、藤野は困惑する。

「俺に尊厳なんて鼻から無いぜ。俺はただ快楽を享受していたいだけだ」

「保身だろ?」

「それはお前の受け取り次第だぜ」

 詮索を入れてくる藤野に、桑原はせせら笑いながら茶を濁す。

「ああ、そうだこれから購買に行くけど、なんか要るか? 奢るぜ」

「言ってることが無茶苦茶だ」

 確実に話題を逸らそうとする桑原に、藤野は苦笑いを浮かべる。

 こと、彼の習性から言えば桑原が抱える問題の輪郭を掴み取るまで追求するのが常である。しかし、大きいのにもかかわらず、酷く小さく見える桑原の背を見て、彼は本来持ち合わせるはずのない情を覚えてしまった。そして、彼は自らの習性に反してこみ上げる言葉を併呑し、どうして漏れてしまう言葉も濁した。

「無茶苦茶だからこそ良いんだ。俺は混乱の中に生きて行くんだ」

「そうかよ」

 無理に紡ぎ出した桑原の言葉に、不承不承に納得しながら藤野は立ち上がる。

 一瞬、立ち眩みを覚えたが、何とか踏みとどまった。

「とりあえず、購買に行こうぜ。腹減った」

「現金な奴だ」

「安い方だろ」

「確かに安いもんだな」

 短い言葉の応酬の後に、二人は肩を並べ、騒々しい廊下に出た。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る