第7話
桑原の言葉に藤野は大きな溜息を吐き出す。
昨日言っていた情欲と背反する情欲を満たすためだけに、わざわざ他クラスから足を運んでくる桑原の行動が彼にとっては酷く馬鹿々々しく見えたのである。
桑原が連日自分の体を買うことは、この半年の間で度々あった。そして、この間、桑原の身に彼女が居なかったことは無かった。そして、今も桑原の身には彼女が居る。しかも、桑原との間に処女の血を交えた仲の彼女である。
ただし、彼は純粋な仲を断ち切るような桑原の根性については特別どうとも思っていない。むしろ、出会った当初から、すなわちSNSにDMを始めて送ってきた入学式の時から桑原の不純な根性を好んですらいた。
知的で野蛮な少年は、彼の目に極めて美しく映ったのだから。
けれども、彼が愛した桑原の美しさは、今の桑原に大きく欠けている。彼の目に美しく映る野蛮さとは傍若無人であり、何事も自らの信念が籠っていて、一度放った言葉について自らの精神をもって責任を持つ姿勢であったのだから。
そして、この姿勢は今の桑原には無い。
だからこそ、彼は桑原を蔑むような目で見て、大きく気怠い溜息を漏らしたのである。
生ぬるい空気に当てられた桑原は、眉間に皴を寄せて、彼の大きな双眸を見つめる。互いの瞳の中にあるのは、互いに対する失望と三大欲求のいずれかである。
「お前は自分の言葉に責任を持った方が良いぜ? 俺は遊びなんだろ。だったら、連日俺のところに通うのは良くない」
「淫売が義理人情を語るのか?」
ポケットに手を突っ込みながら、桑原は吐き捨てる。
「淫売じゃねえ。間違えるな」
へとへとに空いた腹に力を入れて、藤野はけろりと笑いながら自らの立場を明言する。彼の言葉には芯が通っているように見える。
「俺は金のために身を売ってるわけだけど、金のために心まで売っているわけじゃない。だから、俺を買う奴らには簡単なパズルを出してるんだよ。最低限の教養と頭があれば解けるね。そして、お前はパズルを解いた数少ない一人だ」
華奢な手足を組みながら、藤野は高圧的に桑原を睨みつける。
図体が大きく、気の大きい桑葉から見て、彼の行動は滑稽なものに見える。売春に身を投じていながら、知性というたった一点において自らは他の淫売とは異なるという少年の持論は極めて愚かに見えたのである。
しかし、桑原は彼の主義主張を愚かに思ったとしても、確かに彼は他の淫売たちとは異なると思い込んだ。そして、この思い込みと同時に彼の言葉を反芻し、半年前の記憶を思い出す。
「あれを簡単って思えるのは、お前くらい頭が回って、将棋を趣味にしてる奴くらいだよ」
「ちょっと調べれば、詰将棋のことくらい出てくるよ。あれはそうやって作ったからね」
藤野は右のこめかみ辺りをトントンと指で小突きながら、怪訝な表情を見せる桑原をからかう。
「お前にとってはな。誰にとっても簡単なわけじゃねえよ」
明るく染めた前髪を弄りながら、藤野に不機嫌な言葉を返す。
不機嫌な要因は言わずもがな、藤野の知性に対する傲慢な態度である。なまじ頭の出来が良い彼から見る他人に対する知の認知は極めて歪んでいる。
「そんなわけないよ。あんなのは誰にだって解けるさ。誰にだって解けるから、俺に回答を送ってこない奴が居るんだよ。簡単すぎて送るのが恥ずかしいのさ」
そして、藤野の認知の歪みは、彼自身の言葉によって証明された。
本気で社会を構成する全て人々が自分と同程度の知能を持っていると信じてる彼が、頬杖をつきながら紡いだ気だるそうな声は、桑原の苛立ちを呆れに換える。フレームが歪んでしまった眼鏡をかけ続ける不格好な彼を、桑原は放置することとしたのだ。
呆れにより生じた輪郭の無い感情が、桑原の胸中を満たす。彼のクラスに桑原が足を運んだ理由は純然な性欲のためであったが、この三大欲求の欲しがりはかき消されてしまった。
すっかり心の炎が消されてしまった桑原は、休み時間開始のチャイムと同時に、購買に向けて走り出した男子生徒の席に腰を下ろして足を組んだ。そこは彼の席の一つ前である。そして、桑原は彼の机に、彼同様に頬杖をついて空腹によって青ざめる彼の顔色を見つめる。健康からかけ離れた彼の顔色に、桑原は甲斐性と心配を抱く。
基本的な道徳が欠如している桑原であるが、他人に助けを差し伸べる手を持ち合わせていないわけではない。したがって、桑原は彼の黒く澱んだ瞳に向け、言葉を紡ぐ。
「なんか買ってきてやろうか?」
「……要らない。施しは嫌いなんだよ」
没義道を歩む桑原が微かな良心に従って伸ばした手は、残念なことに弾かれてしまう。
しかも、理由は極めて独善的である。
「どうして俺が奢ること前提なんだよ?」
「だって、お前金持ってるだろ」
「お前の方が持ってるよ。昨日だって、俺から五千円取ったし、他の奴からも幾らか金をとっただろ」
「確かに俺の方が金を持ってるかもな。けど、お前には無尽蔵の金鉱があるじゃん。お前の眉目秀麗な顔立ちと不良っぽさが担保するさ」
頬杖に疲れて、机に突っ伏した藤野は嫌味な笑みを浮かべて桑原を見上げる。
誰にも伝えていない、知り得ないことを知っている彼に桑原は冷や汗をかく。
「なんで知ってるの?」
「いつだったか、お前が彼女にたかってるところを見たからさ。ところお前、心は痛まないの? あの子、お前のこと本気で好きなんだぜ?」
「痛むわけないだろ。というか、俺のことを本気で好きなら当然のことだろ」
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