第6話

 清々しい朝に清らかな秋の涼しい風が街を吹き抜ける。

 朝を除いて酷く生ぬるい空気で満たされる東京の街も、この数時間だけは心地良い空気が満ち満ちる。灰色の世界も心なしか彩を持っているようにも見える。

 しかし、心地よさに反して街行く人や電車に乗る人々の目は酷く濁っており、誰もが生に拒絶を示している。あらゆる行動には鬱屈とした精神が宿っており、朝の清々しい空気を酷く汚している。もっとも、最たる汚れをもたらしているのは鬱々とした重苦しい空気を彼らに宿している社会なのだが。

 社会の重苦しさと自然の美しさの間に挟まれる学生の大多数は、ポケットに手を突っ込んで気だるそうに、けれどもどこか一日に対する希望を抱きながら各々の学校に向けて歩みを進める。ビルひしめき合う街の間を通り抜けながら、彼らは各々の歩みを続ける。

 学年や学校の違う学生たちの一群の中に、藤野と牧は肩を並べながら歩いている。

 ただし、それはあくまでも不可抗力的なものであり、彼が牧と共に居たいからという理由ではない。出てきた場所が同じであり、向かうべき場所も同じであったためである。もはや金だけの関係は途切れており、二人の間には絆というべき関係は破綻していたのだ。したがって、二人は目を合わせることなく、彼はワイヤレスイヤホンを耳に差して、牧はきょろきょろと通り行く人々を観察するだけであった。

 クラシック音楽を聞き流す彼の頭の中には、つい三時間前に決めた久々の好奇心が巡っている。牧の言う明野さんという同級生がいかなる人間であるか、そしてどういった理由で自分を呼び出したのか、果たしてどのような会話が自分と紡がれるのか、彼は彼自身の性分から乖離した高揚感を抱いたのである。もっとも、彼は感情を自らの中に密閉しているため、外的には普段通りの無関心を貫いた冷めやった表情を浮かべ、その面を靴先に向けている。

 こうして機械的な表情で、機械的に日常をこなしてゆくのが彼である。

 かくして二人は人混みの中の一員として、一切の個性を出すことなく自分たちの通う都立高校にたどり着くのであった。

「……! ちょっと、君」

 しかし、校門に着くや否や藤野は何者かにイヤホンを何者かに取られてしまい、頭を包み込んでいた音楽を奪われた。調和する音色の代わりに彼の耳に入ってきたのは、雑踏の音と高校生たちの雑然とした会話、そして奪い取った女子生徒の凛とした低い声であった。

 イヤホンを奪われたことよりも、脳内の調和を奪われたことに彼は苛立ち、イヤホンを奪い取った女子の顔を見る。

「……返してください」

 男性の平均身長とぴったり同じの自分よりも微かに身長は低く、セミロングの黒髪、金縁の丸眼鏡、足にはデニール値の高い黒いストッキングを纏う右目元の黒子が特徴的な少女を藤野は冷たい目で見つめる。

「イヤホンを着けての登校は危ないので、今後気を付けてくださいね」

 藤野はわざと相手を臆病にさせる冷淡な態度を取った。

 しかし、彼の思惑と反して少女は毅然とした態度で彼に、音を遮断することの危険性を注意してきた。どうして彼女が臆さないのか、彼は疑問を覚える。そして、この疑問に自分なりの回答を見つけるために、彼は彼女の顔を凝視する。するとより不思議なことに、彼女は一切の動揺を表情に記しておらず、それどころか自分が優位性を保っているような余裕を顔に浮かべている。凛とした佇まいと、折れることのない正義心の権化が彼の前に現れたのである。

「はい」

 突如として現れた自らの対極にいる少女に、藤野は呆気に取られて気の抜けた言葉しか紡げなかった。

「本当に分かってます?」

「分かってますよ。ですから、返してください。今、第四楽章の良いところだったんですから」

 信憑性の薄い藤野の声に名前も知らぬ少女は、怪訝な表情を浮かべる。じとりと、内面を探るような視線を彼に向ける。彼は反射的にこのままではまずいと思い、仕方なく頭を浅く下げる。これ以上、顔を見合わせていては自らの反社会的な所業がばれてしまうのではないかと思ったのである。

 明らかに本音から乖離した突拍子もない彼の謝罪に、彼女は数秒ほど言葉を失った。しかし、微かな沈黙の後に彼女はクスリと笑い声を漏らす。彼にとって彼女の笑い声は、不快で耳障りの悪い音であったが、ここで癇癪を起し、再度彼女に反抗しては自らの守ろうとしている所業がばれてしまうだろうと彼は踏んだ。

 したがって、彼は浅く頭を下げ続ける。秋風が彼の絹のような白髪をなびかせ、微かに暖かい赤らむ肌を冷ます。

「良いですよ。でも、次は無いですよ」

「はい、分かりました」

「では、これを」

 白いワイヤレスイヤホンを乗せたしなやかで長細い指が特徴的な少女の手から、藤野は目的物を掠め取ると、そのまま手を学ランのポケットに突っ込んで、そそくさと校舎に向かう。さながら捕食者を前にして逃げる被捕食者のように。

 突然、目の前に現れた出来事を前に彼の心臓は力強く脈打つ。全身に響く鼓動は彼を痛めつけ、ロッカーから靴を取ろうとする彼の行動を一時停止させる。加えて、気色の悪い粘性を持ち合わせた玉のような汗が彼の美しい髪を汚す。

 自らの体に襲い掛かる理解不能な変化に、彼は髪をかき上げ、奥歯を噛みしめる。どういう訳か彼は名前も知らない彼女に対する恐れを取得していたのである。理由は彼も分からない。ただ、形容しがたい恐れが彼の中に根付いたのである。

「どうしたんだよ、俺は?」

 名前も知らない戦慄のために清々しい一日の始まりを害された藤野であったが、彼の日常はつつがなく過ぎて行った。酷くつまらない現代文や英語の授業も、精神を強張らせていた彼にとっては丁度良い緩衝材となった。例え、つまらなくとも知識を頭に詰め込むことによって今朝の出来事を忘れることが出来たためである。

 しかし、いつまでも知識を詰め込める時間が続くとは限らない。思い出さなければならない時も、カリキュラム上訪れるのである。

 世界史の授業が終わると同時に、学校は昼休みに突入した。生徒たちは心待ちにしていたチャイム音に胸を躍らせて、そそくさと教科書やノートを片付けると空かせた腹を満たすためにカバンから弁当を取り出し、購買へと我先にと駆けて行く。

 楽し気な笑い声と各人の昼食の匂いが混じり合って、独特な空気が教室内に満ちる。

 ただ、誰もが楽しそうな雰囲気の中で彼だけは机に突っ伏して、瞼を閉じて、耳にイヤホンをつける。そして、彼は頭の中を再び弦楽器や金管楽器の音で満たす。頭の中に情報を詰め込むことによってのみ、彼は今朝の胸騒ぎを忘れることが出来たのである。

 机に突っ伏して狸寝入りをする様子は、客観的に見れば酷く寂しい光景に見える上に、教室内で談笑に励む生徒たちは彼のことを独りぼっちな人間として見なしていた。もちろん、それは現在の彼の行動に裏付けられたものではなく、彼が以前から取っていた孤立的な生活態度に裏付けられたものである。

 しかし、教室内の生徒にとって彼など路傍の石程度の存在でしかない。確かに端正な顔立ちと日本人離れした白く艶やかな髪は、多くの者たちを注目させ得る対象となり得る。しかしながら、彼の外面に関する興味は一瞬のものでしかなく、慣れてしまえば日常の光景となり得るのだ。したがって、彼のクラスメイト達は彼のことを非常に中性的で魅力的な人間ではあるが、それ以上に孤独な人間であると認知していたのである。

 ただし、クラスメイト達によって貼られたレッテルに対し、彼は嫌悪感だとか羞恥心だとかを覚えていない。痩せ我慢ではなく、彼からすればレッテルというのは自分が少なからず認知されていることの証拠であり、この証拠が彼にとっては喜ばしいことであった。認知されている、この事実が彼の飢える心を微かに満たすのである。

「……腹減ったな」

 飢える心は満たされても、昨日から何も食べていない人間の物質的な飢えが満たされることは無い。今にも背中とお腹がくっつきそうなほど、飢える腹を藤野は摩りながら呟いた。誰にも聞こえない声は、談笑の中に吸い込まれた。

 声はかき消されて、誰にも届かないと思われた。

 されど、霞が如き彼の声音を掴む者が偶然にも居たのである。

「腹減ってんのかよ、お前」

「……桑原、どうして居るんだ?」

「DM、無視されたからだよ。普段は速攻で返してくれるのによ」

 イヤホンを外した藤野は気だるげに、つまらなそうな桑原を見上げる。


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