第38話

 大事なことをはぐらかすように、落ち着き払った人間にしては珍しい早口で、叔父は通話を切った。信頼していた人の裏切り染みた行為は、藤野の弱り切った心に、悪い衝撃を与えた。心が打ち砕かれるような、不可逆的な打撃が加えられたような、取り返しのつかない痛みを彼は心に受けたのである。

 痛みに打ちひしがれ、脱力する少年の頬に明野はそっと右手を当てた。

「これが真実さ。あんたは自分の力で結論にまで到達していたんだよ。例え、あんたがそれを認めたくなかったとしても、あんたは真実を捉えていたんだよ」

「……褒めてるのか?」

「うん、褒めてるよ」

「……そうかよ」

 顔を上げることも出来ない少年は、ぽつりと疑問を問いかけ、ぽつりと感謝した。空虚な単語は、明野の部屋に妙に響いた。

「だから、ご褒美に模範解答をあんたに上げるよ」

 慈愛と憐憫の中間の感情が盛り込まれた笑みを浮かべた明野は、アルバムより取り出した二枚の写真を俯く藤野にも見えるようにそっと差し出した。

 二枚の写真を視界にとらえた彼は、もはや驚かなかった。

「……俺の母親だ。俺をこの世に産み落としたクズ」

 叔父と明野の会話に現れていた真実を、藤野は自分によく似た顔立ちの美しい女性の写真を見ることによって確認した。自分と同じような真っ白な髪、ぱっちりとした二重の双眸、すらりとした鼻筋、女性らしさを称える桜色のふっくらとした唇。そうした端正な顔立ちをした若い女性は、胸元の開いた薔薇のように赤いドレスを着用し、椅子に座りながら微笑んでいる。そんな写真館で撮られたであろう上等な写真。

「でも、可愛いっていうか綺麗だよね。あんたの母親。あんたもその綺麗な容姿を継いでる。私と違ってさ」

「……これは?」

 逃れることが出来ない嫌悪すべき事実から目を背けるため、藤野は嫌悪すべき淫売の写真から目を背けた。その代わり、明野が差し出したもう一枚の写真に目を向けた。

「私たちのエコー写真。あんたと私のね」

 ノイズを一枚に収めたような黒と灰色で満ちる写真に、明野は憐れみの笑みを向けた。そして、彼女の顔を見ようとしない藤野は、ただただその写真を空虚な瞳で見つめた。

「ほら、写真の裏に名前書いてあるでしょ。父親の筆跡だよ。私たちのさ」

「……」

 治ることのない致命的な傷を負い、その傷口から魂が抜け欠けている藤野は、エコー写真の裏に青いボールペンで書かれた自分と彼女の名前を認めた。二人の名前は、力強い達筆な筆跡で書かれていた。

「私たちの名前、父親が全部決めたんだってさ」

 自分たちの名前を力強く睨みつけながら、明野は自身の父親を嘲た。そこには彼女なりの正義感が、家族として連れていかれず、母親の弟家族に贈り物のようにして預けられた少年を守るための正義感が込められていた。

 力強く、本当にその人を憎んでる声を発してくれた彼女を前にし、彼は顔を上げた。そして、その真っ暗で潤みを失った双眸を、死んだような眼を、彼女に向けた。

「……なのに捨てたのか」

 小さく紡がれた藤野の震える声は、この世の寂しさを詰め込んだような情緒を含んでいた。

「うん、邪魔だったからね」

 だが、明野は藤野の情緒を切り捨てるように断言した。瞼を全開に開き、狂気的な光を爛々と灯した彼女の顔は、容赦ない運命の顔つきそのものであった。

 運命の女王としての風格を纏った彼女であったが、これが保たれたのはごくわずかな間でしかなかった。威風堂々とした風采はすぐに失われ、その代わりに自分や妹、そして彼を憐れむ様な優し気な笑みを浮かべた。

「けど、それは私も一緒だった。私たちの母親が私の家から出ていったとき、私たちの父親は別の女と結婚して、瞬く間に子供を作った。アキラだよ。私は一つ下の妹が好きで好きで仕方が無かった。それはあの人たちも同じ。けど、育っていくにつれて新しい母親は血のつながらない私の存在を邪魔に感じ始めたんだ。父親にも、母親にも、アキラにも似ていない異形の存在が自分の人生における汚点に見えたらしいんだ」

「……醜い」

「うん、醜いよ。けど、それよりも醜いのは父親だよ。あの人はあんたを捨てたのにも関わらず、しかもあんたがどこに住んでるのかも知ってたのにもかかわらず、あんたを引き取らないで、自分の罪滅ぼしのためにあの子にあんたと同じ名前を付けたんだ。なのに、次は私を捨てようと、新しい母親と徒党を組んで私に一人暮らしを進めた。しかも、あの子には私のわがままだと聞こえるようにね」

 哀愁を表情と声音に纏わせながら、明野は藤野に教えてこなかった真相を淡々と紡いだ。

 次々と伝えられる事実は、本来であれば並々ならない衝撃を彼に与えることであった。しかし、もはや彼は肉塊でしかない。魂は半ば彼の肉体より消え去り、頼るべき理性も守るべきプライドも無く、ただただ事実を事実として捉えることしかできない肉人形と化していた。したがって、彼は彼女が言葉と表情に込める感情を理解しながらも、それを自己の感情に落とし込むことなく、単に言葉として自己に収めていた。

「それで私は御覧の通りの一人暮らし。ただ、一人暮らしを始めたおかげであんたの育ての親に会えた。見覚えのある名前と苗字を新入生名簿から見つけてくれたんだってさ。ありがたいことだよね。それで、私はあんたの育ての親からあんたの写真を受け取ることが出来た。驚いたよ。まさか、あんたが私の生き別れの兄妹だったなんてさ」

「……俺も驚いてるよ」

 並べられる事実は藤野の心を震わせる。そして、彼が母親に捨てられた時、つまり産まれた時から誇りに持っていた知性を阻害させる。強大なバイブレーションは、人の考えるという行為の一切を否定し、ただただ事実を見つめることしかできなくさせるらしい。

 呆けた様に自身の話を聞く彼に、明野は寂しげな微笑を向けた。艶やかさだとか、女性らしさだとかを一切含まない親兄弟を見つめる視線は彼にとって新鮮なものであり、壊れた彼の心を温めた。

 ただし、温められたからと言って彼にそれまでの聡い頭と鋭い知性が戻ってくるわけではなかった。顔を上げて、微笑む少女を見つめることしか彼にはできなかった。

「けど、いまさら家族だって告げられても絵空事にしか思えないよね。それにあんな腐った血から産まれてきたって考えるだけでもゾッとするし」

 演技染みた元気を貼り付けると、明野は右手の人差し指で左手首に見える静脈を優しく擦った。しかし、その目に光は灯っていなかった。

「……ああ」

「ハプスブルグ家の血は青い高貴な血って言い表せるのなら、私たちの血は真っ黒な血だね。酸化して、劣化しきったどろどろの血だ。そんな血が自分の体に流れているなんて考えたくもない」

 明野は指を左手首から離すと、大きな溜息を吐いた。

 親に対する失望、自身の運命に対する絶望、重苦しい意味が込められた溜息は、似て非なる運命を辿ってきた藤野に共感を与えた。しかし、共感したと言っても彼はこの問題に対する彼なりの回答を持っていたため、これを自己の理論として受け入れるつもりはなかった。そして、彼は理論の拒絶のために、砕け散った理性の欠片を集めて、立ち上がった。

「いいや、その血が流れているからこそ今この場に俺とお前は存在してる。だから、この穢れた血を憎むのは馬鹿らしい。憎むとしたら、俺たちの体に流れる血じゃなくて、俺たちを産んだ親だ」

「もちろん、憎んでるよ。流れてる血も、それを作った親も、そんな親をのうのうと生かしているこの世界も全部ね」

 共感しながらも理論を退けた藤野の回答に、明野は暗い眼のままニカッと笑って見せた。

 笑っていない笑み。いや、それは嗤っているのであろう。自らの出生と親の放蕩具合に。

 暗がりに置かれた日本人形の方が可愛く見えるほど不気味な笑みは、彼が作り直した理性をことごとく破壊しようとした。

 だが、理性の土台となっている歪んだ彼の精神は、彼女が無意識的に放つ威圧を前にして揺らいだが、崩れることは無かった。何とか精神衛生を持ち直した彼は、体に脱力しきった体に力を入れ、立ち上がった。

 今度は彼女が見上げる立場となった。そして、彼は彼女の憎しみを一身に受けるように、彼女の暗い双眸をジッと見つめた。

「この世全てを憎んじゃ駄目だ。俺たちが憎むべきは、あの夫婦、そして生殖という行為に対して身もだえるような欲求を持ってしまう人類の本能だ」

 本能的な恐怖を前にして震えは止まらないが、藤野は毅然とした態度で憎むべき対象を限定した。それこそが彼の愚行の行動原理であり、自分を産み落とした母親に対する復讐であり、堕落しないための指針であった。

 唐突な態度の変化と語気の鮮明さに少々の驚きはあったであろうが、明野は相変わらず微笑んでいた。暗い眼は相変わらず暗く、人間の雰囲気を感じられなかった。

「限定的な解釈に過ぎないよ。それに今あんたが言ったことは、人間が繫栄していくためには必要なことだ。何も私は人類を恨んでるわけじゃない。この世界を、業が許される世界を恨んでいるだけなんだよ。この空間自体が嫌いなんだ。そこに住んでる人は別に嫌いじゃないんだよ」

 一方的に言われることが少々癪に障ったのか、明野は立ち上がった。そして、息がかかるほど近くまで歩み寄った。

「この上なく不快な世界が私たちを包み込んでいるんだよ」

 キスが出来るほど近づいた明野は、藤野の首に腕を回し、優しく首を傾げた。

「……近寄るな」

 媚びるような淫売婦のような態度、堕落しきったあざとい言動、これらは藤野に生理的な拒絶を生み出した。

「嫌なんでしょ。というか、女っていう性別自体が嫌いなんでしょ」

「……ああ」

「でも、あんたは物理的な拒絶をしない。それはどうして?」

「どうして? さあ、どうしてだろうな」

 明野から顔を背け、彼女の問いかけを藤野ははぐらかす。

「正解はあんたが男だからだよ」

「gentlemanっていうことか? 水梨さんを泣かせた俺が? それはあんまりにも足元が見えてない」

「まあ、そこは擁護できないけど、あんたは本質的な男だ。もちろん、gentlemanっていう意味でね」

 分不相応な言葉によって定義される男という性別について、藤野は怪訝な表情を浮かべた。

「だから、あんたはあんたの男を示さなきゃいけない。あんたがどれだけ異性との性行為を否定しようとも、あんたはそれを何時か自分のために示さなきゃいけない。それが何時になるか、本当に来るのかは分からないけどね」

 クスクスと面白がるように明野は笑う。

「一生来ないさ」

「いいや、来るよ。というか、今がその時だよ。愚かな蛹が蝶になるときは、今なんだよ。それだから、私はあんたに接近した。そして、あんたを愚かな行為から救ったんだ」

 ぶれない眼差しを明野は藤野に向ける。

 真っ黒で、澱み切った彼女の双眸は彼に得も言えない恐怖を与えた。したがって、彼の体は硬直してしまった。せっかく、持ち直した精神が限界を迎え、彼に真っ当な思考力を与えていた理性は崩れてしまったのだ。

「……何が言いたいんだ?」

 勢いを失った藤野は、震える声音で問いかけた。

「そのまんまだよ。世界を憎んでいる私、人の性行為を憎んでいるあんた。マイナスとマイナスがぶつかり合えば、プラスになるんだよ」

「意味が分からない」

 抽象的な回答を明野は微笑みながら紡いだ。

「負と負の連鎖を断ち切るときが来たってことだよ。壊れた私たちが、この世界で健全に生きていくのは不可能なんだからさ」

「そんなわけがない」

「不可能だよ」

 たどたどしい口調で藤野は明野の言葉を否定した。

 しかし、彼女は瞼をカッ開くと、その拒絶を否定するような淡白な回答を返した。そこには彼がかつて積み重ねてきたプライドのような信念が籠っていた。生きるための理由というべき、自分を肯定する理由が。

「だって、私は健全に動く世界に憎しみを抱えているんだぜ? 中流の家庭よりもずっと裕福な暮らしをさせてもらっているのに、そんな環境を与えたこの世界が憎いんだ。壊れてほしいって思っちゃうんだよ。幸せだとか、愛だとかを勝手に定義してくるこの世界を、人という形がこうであるべきだと規定してくるこの世界が滅んでほしいって、思ってるんだよ。しかも、実の父親にも、育ての母親にも、何にも知らないあの子にすら嫌悪感を覚えているんだよ。そんな奴が、あらゆることで定義された世界で生きていけるわけがないだろう」

 畳みかけるように、間髪入れずに自分が生きていけない理由を明野は語った。

 顔にかかる彼女の息の熱さ、彼女の目尻に溜まる涙の冷たさ、彼女が力を入れる体の重さ、彼女の心に重くのしかかる自分と同じ運命、それらを藤野は全て受け取った。その上で彼はある一つの善行を思いついた。

 それは単なる言葉でしかない。そして、彼が生理的に拒絶すべきことであり、彼女の言っていた意味の分からない言葉を定義することもであった。

 だが、彼はそれをしなければならないと確信していた。唯一信頼していた人からも一種の裏切りを食らい、縋れる精神的支柱や生活的言動を全て放棄し、何もなくなってしまった彼が手放したくないものがそこにあったためである。

 だからこそ、彼は震える唇を必死に動かし、脳裏に浮かび上がる文字を紡ごうとするのである。

「なら、人間っていう定義をし直せば良いんだ」

「定義をし直す?」

 涙ぐむ声で明野は訊ねる。

「お前が至極嫌っているこの世界の定義を壊すんだ。つまり、この世界における人間性を放棄して、新しいお前の世界を創り出すんだ。そうすれば、この世界でも生きていける。お前は、いいや俺も、この世界と人間に絶望しながら生きていかなくて済むはずだ」

 輪郭の震える声で藤野は言い切ると、明野の柔らかく震える体を抱きしめた。それは性的な抱擁であり、家族的な抱擁ではなかった。何せ、彼は彼女の首元に顔をうずめ、今まで自分がされてきたようにキスマークを付けたのだから。

 痛みの伴う彼の言動は、真っ暗だった明野の瞳に光を宿した。澱みは消え去り、彼女は性的な笑みを浮かべた。痛みに顔を歪めることなく、むしろ愛おしくて心地の良い快楽として、彼女は彼の与えた痛みを受け入れたのである。

「それじゃあ、これからあんたとするのは儀式だね。この世界ではアンモラルとされていることをして、この世界の常識をぶっ壊すためにする神聖な儀式だ」

「そして、その儀式をもってしてお前の憎むこの世界は滅びる」

「そうすれば、あんたの生理的な女に対する拒絶も刷新されて、私たちは私たちだけの世界を創れる。見放された私たちだけの……」

 滔々した表情で新しい世界を想像するイブは、何かに恐れているアダムの震えている体を抱きしめる。そして、アダムがしたように彼の首元に顔をうずめてキスマークを付けた。

 たらりと銀糸がイブの口から垂れる。イブはその貴き糸を見つめて、艶やかに微笑む。

 糸が切れると、イブは自身を抱きしめるアダムの体から身じろぎして脱出すると、華奢なアダムの両肩を掴んだ。そして、あどけなく、屈託のない太陽のような笑みを浮かべた。

「それじゃ、さっそく私たちの儀式を、セックスを始めようよ」

「ああ、始めよう」

 純白のイブの笑みを受け入れたアダムの体は、行為を望んでいるのにも関わらず震えていた。全身は脱力し、ただただ自身をベッドに誘うイブの力に体を預けていた。

 しかし、アダムはそれが心地よかった。

 力が入らないことが。

 それは何者にも成れなかった者が、ようやく何者かに成れることであったからだ。

 彼は、藤野アキラという人間は、今ここで禁忌を冒すことによって何者かになるのだ。そして、明野トオルという人間は、禁忌を冒すことによって人ではないと定義していた自分を人として認められるようになる。

 だからか、二人は笑っている。

 何者にも邪魔されないような尊い笑みを浮かべている。

「アキラ」

「トオル」

 トオルは脱力したアキラをベッドに押し倒すと、彼の顔の左横に手をついた。そして、鼻息荒くジャージを脱ぎ捨て、黒い無地の肌着を放り投げ、シミ一つない美しい上半身を露わにした。豊満な双丘は黒いレースのブラジャーに包まれており、彼女が肌着を放り投げる動作と共に艶やかに揺れた。そして、彼女は彼の耳元で彼の名前を艶やかな声音で囁いた。彼もまた彼女に呼応するように、彼女の名前を呟いた。

「ゴムは要らないよね」

「……ああ、要らない」

 興奮しきったトオルは、避妊の有無をアキラに確認すると、ブラジャーのホックを外し、女性の象徴の一つを外気に晒した。柔らかそうに揺れる乳房、桜色の小さな乳輪の中心にある小さな乳頭が姿を現した。彼女は彼の左手を自らの右胸に誘った。

 柔らかな感触が彼の左手から全身に伝わり、今まで拒絶してきた性的快楽の充足を覚える。しかし、彼の左手は震えていた。そして、充足の裏に微かな恐怖が含まれていることを彼は自認したのであった。

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少年の愚行。もしくは少女による人間性の獲得 鍋谷葵 @dondon8989

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