第27話

「やっぱり独特な趣味してるな」

「それは誉め言葉して受け取っても?」

「どっちに捉えても良い」

「じゃあ、誉め言葉として捉えるよ。そっちの方が気分は良いしね」

「勝手にしてくれ」

 太陽が沈みながらも灯りの絶えない街を駆け来た二人の体は微かに上気していた。

 だが、二人の雰囲気に青臭い青春は介在していなかった。二人とも顔立ちが端正であり、出で立ちも身なりも大人びた方向に整っているため、二人の雰囲気は明野の部屋の内装とも相まって、妖しく艶やかなものとなっていた。もっとも、二人が自分たちの演出する雰囲気に気付いていたわけではない。二人にとって今の状況は、軽度の運動を行って微かに汗をかいているという事実を規定とした生活の一状況に過ぎない。したがって、二人の会話は皮肉交じりで、互いが互いを貶めようとする肉体的で艶やかな空気とは反する機械的な打算めいた空気に満ち溢れていた。

「それじゃ、私はシャワー浴びてくるからあんたは適当に本でも読んでて」

「年頃の女子が言う台詞か?」

「何? あんた、私の体に興味があるの? むっつりね」

 藤野の問いかけにふざけた言葉と態度でもって返答した明野は、そのまま手をひらひらと振ってシャワーを浴びに向かった。

 オカルト趣味の部屋に一人取り残された彼は、彼女に割れた通り歪んだ材木で作られた本棚に向かうと本を物色し始めた。ただし、彼が求めていたものは小説や哲学書のような誰もが読む様な本ではなく、彼女の写真アルバムであった。

 だが、壁一面を埋め尽くす蔵書の中でもひときわ目立つ白い背表紙の写真アルバムはどこを探しても見当たらなかった。代わりに彼が見つけたものと言えば、アルバム一冊分の空きスペースであった。彼は空いたスペースの前に立ち止まると、大きな溜息を吐いた。もしかしたら、そこに自分が自由を得るためのヒントが隠されているような気がしたためである。もっとも、自発的な行動によって写真アルバムを見つけなくとも、彼女から自由を得るためのヒントが得られることは確定していた。したがって、彼は写真アルバムの所在に一喜一憂する必要性は無かった。ただし、必要性と意気地なプライドは異なり、彼にとってはスマートな必要性よりも、自我を支えるプライドの方が優先される。このため、彼は未発見に落胆した。

 お目当てのものが無いということが分かった彼は、今度は読みたい本を物色し始めた。とはいえ、彼の目に入る本はどれもこれも長編小説や中編小説が収められた全集、また難解な哲学書、印象派や象徴派、シュルレアリスムの画集、芸術家や小説家などの評論雑誌、詩集であった。漫画だとかライトノベルだとか、丁度良く時間を潰せる本は一切、本棚に収められていなかった。目につかなかったという話ではなく、本当に彼女の本棚にはそういった類の本が収められていないのだ。

 遊び心の無い酷くつまらない本棚は、彼の自負している知的好奇心を冷まし、与えられた余暇はただの無駄な時間となってしまった。しかし、彼は有用性のない時間に身を投じたくはなかった。このため、彼は可能な限り文字の少ない重い画集を手に取り、立ったままこれを開いた。

「モローか……」

 藤野が適当に取った本は、ギュスターヴ・モローの画集であった。そして、彼がたまたま開いたページには、槍を持った裸のオイディプス王と、王の腹部によりかかる美しい女の顔を持ったスフィンクスが収められていた。不安げな鼠色の曇天と、奇怪な怪物が描かれた絵画の写真は、意味もなく彼の胸をざわつかせた。

 自己を揺るがせる絵画から目を逸らすために、彼は即座に次のページ、次のページへと本を捲っていった。しかし、幻想的なモチーフをテーマにしたモローの絵画を次々と目に入れても、初めに見たオイディプス王の絵画の印象が彼の網膜から消えることは無かった。

 意図しない偶然がもたらした負の印象から逃れるべく、彼はモローの画集を本棚に戻した。そして、本来は読みたく無かったサドの全集を手に取り、適当なページを開いた。ただし、ページを開いたからと言ってそこに書かれている文章を読むわけではなかった。彼は神に印字されている文字を洋服の柄のように眺めるだけであった。もっとも、これは彼がサドの作品自体を好いていなかったことも関係するのだが。

 ともあれ、彼は延々に羅列される文字を眺め続けた。極めて無益な時間であり、彼が逃れたかった不本意な余暇時間にあてはまるものであった。しかし、気分も乗らなければ、環境がこれを改善してくれることもない。

「サド、好きなの?」

 石鹸の香りを纏い、体を上気させる明野は昨日とは異なり、既にジャージを着ていた。

「好きじゃない。むしろ、嫌いだ」

「じゃあ、なんで食い入るように読んでるのさ」

 ついさっきまで入口に居たはずの明野は、いつの間にか彼の背後に立っていた。まだ微かな湿り気を帯びている彼女の肉体が放つ香りは、彼の鼻腔をくすぐる。しかし、彼にとってその香りは不快感をもたらす臭いでしかない。

「とりあえず、俺から離れてくれるか?」

 したがって、藤野は振り返り、入浴の余熱によって顔を赤らめる明野の両肩を軽く押した。

「もしかして臭う?」

「いや、臭いはしない。ただ、俺が嫌いなだけ」

 女子に対する扱いとして最低点を叩き出すであろう藤野の言動に、明野は眉をしかめる。加えて、わざとらしく頬を膨らませる。

「あんた、酷い男だね」

「生理的なものだから」

「それでも言わない方が良いぜ。意外と人って言うのは傷つきやすいんだからさ」

 しかし、仕草はわざとらしいのにもかかわらず、明野の紡ぐ言葉は真剣みに溢れていた。精神を傷つけられ、心の涙さえ彼女は滲ませていた。

 彼女の内面を傷つけてしまった藤野であったが、彼は自身の行為に申し訳なさを抱くことは無かった。むしろ、一向に傷つけられなかった彼女を傷つけられたことに達成感すら覚えていた。彼はやられてはやり返す応酬の連続の中の一事象としか認めていなかった。したがって、彼は悪びれるどころか、普段から彼女がして見せるように口角をにんまりと上げて見せる。

「やるようになったね。流石だよ」

 ただ、藤野がしてやったと思うと、明野はまるで彼の反応が見え透いていたように柔らかな笑みを浮かべた。子供の成長を見守る、あるいは妹か弟かあどけない人の成長を喜ぶような無償の愛が込められた笑みである。

「……悪かった」

 自身に向けられる笑みに耐え切れなくなった藤野は、表情を白けさせるとため息を吐くように明野に謝罪した。

「分かってくれるならよろしい」

 そして、明野は満足げにあどけなく笑う。

「まっ、私が負った心の傷とあんたの無遠慮さは置いておいてさ。とりあえず、ソファに座ってくれよ。話はそれからだ。体を落ち着かせないと話も出来ないだろ?」

「ああ、分かった。分かったら、袖を引っ張らないでくれ」

「分かったなら俊敏に動くことを薦めるぜ。時間は待ってくれない。気が付いたら取り返しのつかないことが、過ぎ去ってしまっていることなんてざらにあるんだしさ」

「……そうだな」

 ぐうの音の出ない正論と自身の発言に背反するような子供っぽさを兼ね備えながら、明野は彼を黒と赤の二色のフェルトによって構成されるソファへと誘った。

 諦めと呆れを兼ね合わせた溜息を彼は吐き出し、彼女の手に誘わるがまま、柔らかなソファに腰と背中を預けた。もちろん、一見して柔らかそうだと思えるソファは柔らかく、一日の疲れをため込んだ彼の体を優しく受け入れた。

 ただし、無遠慮にも彼の隣に座り込むお転婆な彼女により、失われるはずの疲労感はより増えるのであるが。

「とりあえず、まずは私の要件から先に済ませちゃおっか」

「……」

「それは良いってこと?」

「好きにしてくれ」

「オッケー、なら遠慮なくさせてもらうよ」

 抵抗したところで徒労に終わることを理解していた藤野は、降参の意を告げるために両手を挙げた。これを捉えた明野は遠慮なく、何に使うのかも分からない二本のベルトをソファの下の隙間から取り出した。

「じゃあ、両手を挙げて」

「……」

「違う違う、そんな白旗を上げる兵隊みたいに上げるんじゃなくて、手錠を掛けられる時みたいに両手首をくっつけてさ」

 ただ、藤野はベルトの使用用途を明野の発言から予期した。

 同時に自分が奴隷たる存在であることも再認識した。そのため、彼は女王に言われた通りの動きをして見せた。従順な奴隷に、女王は不機嫌そうな笑みを浮かべた。

「つまらないね」

「良いから早くしてくれ」

 笑みを浮かべながら落胆する女王に、奴隷は溜息混じりに早く自分を縛るよう催促した。対偶にあるような感情を浮かべる女王は慣れた手つきで、奴隷の手首と手首とをベルトで硬く縛り付けた。それから、彼に腕を下げるよう嗜虐的な目で訴えかけた。

 従順な奴隷であると自認している彼は彼女の訴えに従い、上げた手を下げ、微かに痺れた手に血が巡ることを認めた。

「それじゃ、次は足」

「足も?」

「そう。あんたが逃げないようにさ」

「そんなことしなくとも俺は逃げない」

「念のため。リスクヘッジってやつだよ」

 一切の抵抗を見せず、ほっそりとした両足首を藤野は重ねた。彼の利口な体裁に明野は溜息を吐きながら、彼の足首をベルトで束ねた。細くて白い今にも折れそうな彼の手足が縛られている様は、拷問めいた何かを連想させる。

 両手足を縛られた彼であったが、現状は昨夜のよりも精神的に楽であった。それは彼女が求めている行動が受動的なものであった。ただそれ以上に彼が彼女との関係に慣れてきたということもある。

 しかし、彼は後者の理由を捉えることは出来なかった。彼はあくまでも自身のメリットのためだけに、動いているとしか考えていなかった。思考と行動の軸が自分から離れていないと彼は本気で信じているのだ。

 自分に対する絶対的な自信を理性によって担保していると思い込んでいる盲目な奴隷とは異なり、絶対的な地位から彼を見下ろす女王は彼の意固地を見ぬいているようであった。そのために手足を固められたことにより身動きの取れなくなった彼を、彼女は見下ろしながら嘲た。

 だが、彼の顔に張り付いた澄ました表情が消えるわけではなかった。結局のところ、彼が自分の理性に対して絶対的な自信を持ち合わせている限り、彼は自分を見つめなおせないのだから。自己にのみ向いた絶対的な視点が転換するには、それ相応のショックが必要なのだ。したがって、彼が自分自身を見つめ返すためには何らかの事件が必要なのである。それこそ天地がひっくり返るような、コペルニクス的転回が彼には必要なのだ。

「何笑ってんだよ」

「不快?」

 自分を見つめることの出来ない愚か者を嘲笑する明野は、彼の苛立ちをさらに煽り立てるように首を傾げた。

「……」

「なるほど、でも、あんたがこれから見る映像よりは不快じゃないと思うよ。だって、それは幸せの証だもの」

 沈黙を保つ藤野の傍らから離れた明野は、ソファの後方にある仰々しい台座の上に載せられた家庭用プロジェクターの電源を点けた。それからスマホをジャージのズボンポケットから取り出し、映像データを転送した。ぐるぐると読み込みの球が回る映像が、白いスクリーンに映し出され、何らかの映像が流れようとする。

 映像が出力されていることを確認すると、スマホをプロジェクターが置いてある台座に置き、スクリーンの両脇を固めるスピーカの電源を彼女は着けた。そして、彼女は身じろぎせず、好奇心と恐怖心を混ぜ合わせた揺れ動く眼差しをスクリーンに向ける彼の横顔を懐かしむように見つめた。彼自身を見つめずに、彼の横顔に誰かを投影するような調子で。

  

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