エピローグ あたたかい冬の日に [2/2]
薄く開けた窓から入る風が、冷たいものの心地いい。
ネムリが投げつけてきたチャインソードで右こめかみに刻まれた切り傷は、自己治癒魔法で早々にふさがっているものの、周りの皮膚とは微妙に色が変わり、跡が残ってしまいそうだ。うまく消えてくれれば、よかったのだが。
失った左腕も、魔法で取り戻せればいいのに。そんな風に、未練がましく夢想してみていると、
「……あの、翼竜のことか?」
回り道をなにも言わず受け入れた火勢が、ぽつりと訊いてきた。
「それもあるんですけど……。それだけじゃなくて、」
那渡には他の、気になることがあるのだった。
兵庫県北部、山に囲まれた盆地の町。
軽トラックで走り回ると、戦闘の爪痕が、否が応でも目に入る。
工場の全焼した建物や、町なかの倒された電柱。復旧のための工事車両や作業員に加えて、報道関係者が行き交っていた。
この戦いに巻き込まれ、人生を狂わされた人がいてもおかしくない被害規模だった。罪悪感に苛まれつつ、那渡は火勢を目的地へ案内した。
有料駐車場に車を停め、記憶を頼りに歩く。
ほどなく辿り着いたのは、半壊した民家だった。ほかならぬ、那渡とハガネと銀の翼竜が、落下して突っ込んだ家だ。
外構の柵は無残に倒され、大通りに面したリビングの壁へ開けられた大穴は、シートで覆われている。敷地に入られないよう柵の代わりに三角コーンが置かれ、その間には黄と黒の縞模様のついたバーが渡してあった。
この損壊では、誰も寝泊まりしてはいないだろう。ドラゴンとパワードスーツの戦いに巻き込まれた家屋の住人がどこへ避難をさせてもらえるというのか、那渡は考えたこともなかった。
傾いた門柱に貼り紙がしてある。カラー印刷が施されたA4サイズのコピー用紙には、〝探しています〟の文字。表札に記されたのと同じ苗字に、携帯電話の番号。そして見覚えのある、白黒ぶち柄の猫の写真。名前をチコーニャという、二歳の雄猫なのだそうだ。
迷い猫の張り紙だった。
(……やっぱりだ)
民家の中で翼竜に向かっていったとき、パニック状態で逃げるぶち猫の姿を、那渡は見たような気がした。案じた通りにぶち猫は、家の外に出て戻れなくなっていたのだ。
あの女の子のもとへ、帰さなくてはならない。
「探そう」
後ろで火勢が言って、那渡はうなずいた。那渡の右手に提げられているハガネも、言葉を発する。
『映像記録によると、猫が走り去ったのは路地の方角です』
一行は捜索を始めた。家々の陰、側溝の中、街路樹の上や垣根の根元……。
ハガネのセンサーを駆使しても、目的の猫はなかなか見つからない。探し歩いている内に、家から何百メートルも離れてしまった。
室内飼いの猫の行動力では、ここまで迷い出てしまうことは考えにくい。半壊した家の場所に戻って、また探し直そうかと思ったときだった。
『前方の角の先に、小型の哺乳類の反応があります』
ハガネの言葉につられて、那渡は早歩きで目の前にあるブロック塀の角を曲がった。
そこには――住宅街の道路を横切ろうとする、猫の姿があった。頭が白く、腰や尻の方には黒い模様のある白黒猫がびくっと固まり、こちらを見ている。
あのぶち猫だ。探しているチコーニャだ。今まで気づかなかったが、尾や手足の一部も黒い。
那渡も固まってしまった。
どうすればいいだろうか。
名前を呼ぶ? しかし珍しい、外国語のような名前だ。どんなアクセントの呼び名なのかも、那渡には知れなかった。
「……こんにちは……」
双方見つめ合ったあと、結果的に那渡の口をついて出たのは、どこか間のぬけた挨拶だった。
あやしまれないだろうか。逃げ出されないだろうか。那渡は頬を上げて目を細め、にこっと笑ってみせた。
しばらく微動だにせず、なにか怪訝そうに一考してから、チコーニャは小走りで近づいてきた。
そして想定外なほどあっけらかんと、那渡の足首にひたいをこすりつけた。なにか気持ちが通じたのだろうか。緊張して心臓が早鐘を打つ。
彼を驚かせないよう、那渡は慎重にその場でしゃがみ込み、ハガネをアスファルトの路面に置いた。
チコーニャは強く警戒する様子もなく、にゃあ、と見事な声で鳴いてきた。
だれ? とでも問いかけているようだ。
那渡が右手を差し出すと、チコーニャは鼻先を寄せてくる。その頭と背中をひとなでふたなでしていたとき、那渡の後ろで、工事用と思わしき大型車両がクラクションを短く鳴らした。道の真ん中で、通行の邪魔になっているのだ。
那渡は慌てて思わず、チコーニャの脇に手を入れて抱き上げた。その体重を胸で受け止め、ダッフルコートの袖の中の、短くなった左腕でかろうじて、彼の腰を支える。
路上のハガネは、足で道路の端へどけた。横倒しになった。
『サカナ』「あっ、ごめん……」
横を自動車が通過してもチコーニャは、不思議そうな顔こそすれ、暴れたりはしなかった。人によく馴れている、落ち着いた子のようだ。
「火勢さん、火勢さんっ」
できるだけ静かな声で呼びかける。ついてきていた火勢は携帯を取り出し、張り紙に書いてあった番号へ電話をかけてくれた。
すぐにつながったようで、相手方と通話を始める。
那渡は指先で首まわりの毛に触れながら、チコーニャを見た。
雄にしては小柄な猫だが、すいとは違うボリューミーな毛並みだ。くもの巣や土で汚れている。寒く、きっと慣れない外をさまよい歩いて、腹も減っていることだろう。
きょとんとした表情のチコーニャへ向け、大丈夫だよ、とつぶやいたとき。不意に、那渡の頬を水滴が流れ落ちた。
遅れて、自分が泣いていると気づいた。
両目から涙がこぼれて、止められなかった。
どうしてだろう、と考える間もなく、この数日の記憶が浮かび上がってきた。
ネムリに襲われたこと、火勢と出会ったこと、ハガネを纏い、わけもわからず戦ったこと。
車で旅をしたこと、漸を見つけたこと、木々を薙ぎつつナバリと交戦し、倒したこと。
左腕を失い、町を荒らしながら翼竜を殺し、そしてネムリを灰塵に帰したこと。
損なわれてしまったものと、守ることができたもの。
この指先にどうにか引っかかり、残すことができた、いくつかの命のこと。
自分独り、体の中に閉じ込めておけない感情が堰を切り、溢れ出てくるようだった。
熱い涙だ。眼鏡のレンズが白く曇って、視界がぼやける。
この熱は、どこから来てるのだろうか。
きっと胸の奥だ。
すいの温もりの記憶が、そこに眠っている。
那渡は脈絡もなく、そう考えた。
腕の中で、同じように温かいチコーニャが、居心地わるそうに身じろぎをした。
「通りの向こう側を探してるらしい。ケージを持っているようだから、さっきの家で猫を返そう」
通話を終え、火勢が喋りかけてきた。泣きじゃくっている那渡を見て、ぎょっとした気配がする。
「はい……」
チコーニャの顔に涙が落ちないよう、那渡は顎を伝う滴を肩でぬぐった。鼻水までたれてきた。
「……拭こうか?」
ためらいがちに、火勢が訊く。
「大丈夫です……たぶん、止まらないから……」
那渡は顔をくしゅっとゆがませた。本人は笑っているつもりだったが、伝わらないかもしれない。
「けど、行きましょう」
火勢のうなずく動きが、ぼんやり判った。
気をつけて、車が通る。と注意の言葉をかけてから、路上に倒してしまったハガネを拾ってくれたようだ。
おぼつかない視界のまま、火勢に先導されながら一歩ずつ、ぶち猫を抱いた那渡は歩く。
かじかむような冬の風が吹いたが、陽だまりであたたかいのが、幸いだった。
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