第1章 魔力駆動のパワードスーツ [2/3]
カセと名乗った男性は、開け放った運転席のドア越しに全裸の男――ネムリを見た。
跳ねた手応えでわかったことだが、並外れて体重がある。セダンのフロントバンパーは、ネムリにぶつけた右半分が破損し、歪んでしまっているようだ。
ネムリは路上に伏した状態から、緩慢な動作で立ち上がってくる。反応こそ鈍いが、大きなダメージがあるようには見えなかった。
無言でカセは、車のドリンクホルダーから一本の瓶を引き抜いた。助手席の足元にも、同様の瓶が七、八本詰められた肩掛け鞄がある。
瓶の中は半分ほど液体で満たされ、口からは布がはみ出していた。
それは火口だ。瓶は火炎瓶だった。
手慣れた所作でポケットから抜いたオイルライターを使い、火口に点火する。炎が立ち上る瓶を、カセは投擲した。
火炎瓶がネムリの足元で割れる。路面に広がった燃料へ引火し、ネムリの脚は炎に包まれた。
カセが、気のない握手でも求めるときのように無造作に、ネムリへ向けて手を伸ばした。
同時に、ネムリを火柱が襲った。
爆発と呼んで差し支えない、勢いの強い炎が周辺を照らした。高さは電線にまで達している。
火炎瓶一本分とは考えられない異常な火力だったが、ネムリは炎の中に立っていた。熱に苦しむそぶりもなく、こちらへ一歩を踏み出してくる。
ネムリの様子を観察し、警戒しながら運転席へ腰を下ろすと、カセはドアを閉めた。
後ろのシートでは
『カセ。現条件下で攻撃を試みても、ネムリへ有効打を与えることは困難です』
ハガネと名乗るアタッシュケースが、カセに意見した。
カセは恨めしげな顔でネムリを睨んだまま、オーケストラの指揮者が曲を締めるように拳を握った。すると、ネムリを巻き込んでいた炎がすべて、ふっと消える。
ネムリの全身の表皮は黒く炭化していたが、爛々とした白目と無感情な瞳だけ、はっきり見えた。視線が交錯するのを感じて、那渡は身震いした。
さらに二歩、三歩とネムリが足を動かし、向かってくる。
カセは車を操って交差点内で方向転換、急発進させた。
「あ、あの!」
那渡ができる限りの大声で抗議する。
「スピード出しすぎ! このへんは野良猫とか狸、多いから!」
カセは応じず、路地の狭い道を飛ばし続けた。
代わりにハガネが喋る。
『今の人物はネムリ、といいます。あなたの生命を狙う、脅威です』
すぐに大きな通りに出た。仕方なく那渡は、ハガネの言葉に耳を傾けた。
「……どうして襲ってきたの?」
『それが、彼の使命のひとつだからです』
合成音声にふさわしい、淡々とした口調。ネムリと呼ばれた男が異様な人物であることは認めざるを得ないが、それにしても〝使命〟とは。
どのように受け止めればいいのか判断できず、那渡は黙った。
『ネムリを迎撃し、無力化する必要があります。サカナ、あなたの安全のために』
迎撃、そして無力化。那渡の半生には登場したことがない概念だった。
変質者の出現に際して通報や避難をするというくらいなら、まだ想定の範疇だったのだが。
「来ている」
サイドミラーに視線を走らせ、カセが言った。那渡はリアウインドウを振り返り、その向こうの光景に目を疑った。
猛然と追走してくる、先ほどの男がいた。真っ黒に焦げた体表から、膝や肩といった関節部の皮膚が剥離し、振り落とされていく。
詳細に確認することはできないが、剥がれた皮膚の下は真新しい肌のようだった。
『ネムリは、高い身体能力と自己治癒力を有します』
さらりとハガネが説明した。
実際、ネムリの走力は自動車と同等か、それ以上だった。
前方の車を避け赤信号を無視しながら、灰色のセダンは道路を進む。
「いけるか?」
カセが後部座席へ問いかけてきて、なんのことだろう……と那渡は他人事のように思う。
ハガネが言葉を継ぐ。
『サカナ、あなたは私を装着して戦うことができます。ネムリを無力化し、命を守るためには、戦闘は不可避です』
前と横から迫られ、自分がなにを要求されているか、やっとのことで那渡は認識した。
「あの人を、倒せってこと!?」
『その通りです』
ハガネと会話しようとするのだが、どこに目を合わせるべきなのかはっきりとしない。持ち手の根元辺りに、青白く光る小さいパネルが埋め込まれているので、とりあえずそこを見て質問する。
「どうやって!」
『ですから私を装着して』
カセが見つめるバックミラーには、真後ろまで迫るネムリが映っていた。前方がひらけたので、車体をコントロールできる限界まで速度を出しているが、追いつかれつつある。
「そんなの……」
那渡は言い淀んだ。
『サカナ』
ハガネの音声に、何らかの気持ちが滲んだように聴こえた。
『戸惑うでしょうが、理解できないことではない筈です』
「……どういうこと?」
この機械はなぜ急に、そんな漠然としたことを言い出すのだろう。
『あなたは――戦いを選ぶことが、できるからです』
頭の上で大きな音がした。ルーフパネルがへこみ、天井が那渡の頭すれすれまで沈み込んでくる。
「取り付かれた!」
カセが怒鳴るのを聞き、車の屋根にネムリが跳び乗ってきたのだとわかった。那渡の視線は反射的に上へ向けられる。
天井を破り、腕が車内へ突き下ろされた。空振りだったが驚き、那渡は上体をのけぞらせてドア側に寄った。
焦げた皮膚もその大半が剥がれ落ち、傷ひとつない腕だった。獲物を探るように指を蠢かせたあと、真上へ引き抜かれる。
『サカナ、早く』
「わ、わ、わかったよ! どうしたらいいの?」
『私を掴んでください』
二撃目が突き込まれた。
ネムリの腕がコートの胸をかすめ、那渡のショルダーバッグのベルトを捕らえた。
「わっ!」
そのままバッグごと引き上げられ、那渡の体は天井へ押し付けられた。工場の機械に巻き込まれたように、抗いようのない膂力だった。
那渡はパニックに陥りながら左手を伸ばす。アタッシュケースの持ち手を握ろうとするが、指先は空を切るばかりだ。
後部座席の動きを察したカセが、左へ急ハンドルを切った。車体の向きが変わり、慣性力が働いてアタッシュケースを右にぐらりと傾かせる。
必死でもがく那渡の手が、ハガネの持ち手に触れたとき、
『初回認証ガイダンスを省略。装着します』
変化は一瞬で開始した。
アタッシュケースを構成する金属部品が細かく変形し、那渡の指先から左肩の付け根までを包んだ。銀色のフレームと透明なパネルが形成され、さらにガンメタリックの装甲が腕全体を被う。
機械仕掛けの鎧となった。
左腕だけの鎧はアタッシュケースを放して勝手に動き、その中にある那渡の腕も、意思と無関係に従うほかなかった。
ハガネは那渡のバッグのベルトにある、プラスチック製のバックルを握り潰した。バックルは粉砕され、那渡のいましめが解ける。そのまま上体がシートへ倒れた。
その間にもアタッシュケースの部品は自ら形を変え、那渡への装着を進めていった。
背中を這って右腕、そして腰を経て両脚へ。
コートやスニーカーごと、那渡の手足を被っていく。
それはまさに、高度に発達した人工知能が複雑な立体パズルを組み換え、正解を嵌め込んでゆくさまだった。
セダンは道路を外れ、道沿いにある空き地の侵入防止フェンスへ突っ込んだ。樹脂製の薄い網が、たやすく引き千切られる。
振り落とされないよう、ネムリの左手がルーフの穴の縁を掴んでいる。
――次の攻撃が来る。那渡は予感した。
座席の足元へ伏せて避けようと考えたが、ハガネに自由を奪われた手足は、思うように動かせない。
屋根に新しい穴が穿たれた。
ネムリの右手が目前へと迫る。
顔面を直撃される前にハガネが動いて、すんでのところでそれを躱す。
ネムリの腕に接触され、那渡の眼鏡がどこかへ飛んだ。
両足と左手が車内を捉えて踏ん張り、ハガネの右手は拳を握った。
『オートパイロットで反撃します』
ハガネが言う。
那渡の腕は弩が放たれるように、直上へ突き上げられた。
右の拳が車のルーフを貫通し、その上のネムリに命中する。生まれてはじめて、那渡は人の顎を殴る感触を味わった。
同時にカセが急ブレーキをかける。
ネムリの体は車体から離れ、宙に浮いて飛んでいった。
人体が地面に落ちる音が聴こえた。
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