第4章 銀の翼竜、白い猫 [9/10]


 すいの体調は日に日に悪くなり、彼女は痩せていった。

 治療はしているが、あくまで対症療法だ。容体の悪化を遅らせることしかできない。

 猫としては老齢のすいに、その時が近づきつつあるのだと、誰の目にも明らかだった。

 那渡も同じだ。他の誰より理解しているつもりだった。

 それでも、すいを孤独に逝かせたくないと、那渡は強く思った。病気に苦しみ、飢え、そのうえ独りで死んでいくことを避けるために、できるだけのことはしたいと考えた。

 それは那渡なりの、すいと生きてきた、けじめだった。

 この半生を通して培ってきた感性であり、簡単には変えられない価値観だった。


 すいの看病に専念するため会社に休職を申請したが、認められなかった。

 すいにとっての〝その時〟が来るのは、一週間後なのか、三ヶ月後なのかもわからない。

 そのことを正直に話したところ、上司と、ほとんど初対面の総務課長から「常識的に考えておかしいでしょ?」と口々に諭された。

 想定外の反応ではなかった。納得し、それならばと、仕事を辞めることを那渡はその日の内に決めた。職場の同僚たちへ対する負い目は感じたが、折衝を試みる時間と手間も惜しかった。


 実家で家事をしながら、すいの世話をする。季節は真冬だった。

 すいは好きな小魚を咀嚼できなくなり、ペースト状の療養食も口にしなくなった。

 スポイトで食事を直接与える、強制給餌も試した。素直なすいもさすがに嫌がり、口のまわりは餌と吐いたもので汚れたが、命を長らえるために微量ながら栄養を摂取することはできているようだった。

 しかし、すいにとって食事が喜びではなくなったことを意識してからは、それもやめた。

 同時に、通院も終わりにした。

 別れを認めるようでつらいとは感じたが、労力を思うまま、すいのために注ぐことができる日々は、幸せだったと、那渡は思う。



 現在。

 那渡は、浅い川底から立ち上がった。

 夜の川。鉄橋の灯が、水面に反射して揺れている。

 静かだった。

 那渡よりも若干上流に、翼竜の姿があった。

 川底に激突して倒れ伏した状態から、流水を跳ね上げて体を起こす。

 おぼつかない足取りで四肢を踏ん張り、重い巨躯を立ち上げる。

 白銀の鱗が水を纏い、鈍く光っている。

 鉱石のような金色の瞳を縦に裂く瞳孔が、必死そうに那渡を直視してきた。

 その姿は痛々しく、那渡は感情を揺さぶられた。

 四つ足でよろめきつつ、命がけで力を振り絞る翼竜に、思い起こすのは、病床のすいの姿だった。


 いとおしい記憶のかけらが、心に引っかかってしまった。


「なんで……きみは戦ってるの?」

 思わず言葉を口に出し、言い終える前に、那渡は翼竜の爆炎で吹き飛ばされた。

 ハガネの機体が河川敷の草地へ乗り上げて転がり、そこにあった乗用車に激突する。誰も乗ってはおらず、古ぼけてところどころに錆が浮き、放置車両と思われた。

『サカナ、問いかけは無意味です』

 翼竜が羽ばたき、こちらへ迫る。

 失血により思考が鈍化している那渡の代わりにハガネがオートアシストで介入し、対処する。

 ガントンファーを両手で掴み、バトンを反転させる。傍らの車両のトランクにバトンを突き刺して持ち上げ、向かってくる翼竜へ向けた。重量物を支えるため、深く重心を下げる。

 そしてバトン先端の噴射口から衝撃波を噴出させ、勢いよく車体を打ち出した。

 翼竜は翼をおどらせて旋回し、飛来する車を太く長い尾で横に弾く。流れるような動作で一回転して前方へ向き直ったとき、ハガネの姿はなかった。

 ハガネは翼竜の死角に隠れて回り込み、背後を取ったのだ。続けて、翼竜の背と同じ高さまで跳び上がる。

 ガントンファーを把持した両腕を大きく開いた構えから、攻撃を仕掛ける。

 左手のトンファーを時計回り、右手のそれを逆方向に駆動させ、翼竜の片翼を両のバトンで鋏のように捉えた。強力な力で挟み込まれて、翼の骨が圧壊する。

 痛みから翼竜が叫びを上げ、のたうち回る。

 翼竜の背を蹴って間合いを離し、ハガネは着地した。

「ハガネ……! ぼくたちは逃げよう。もう追っては来れない」

 骨をへし折られ、翼竜の片翼は力なく垂れ下がっていた。

『ネムリほどでなくても、魔法による自己治癒能力があります。この場で完全に無力化しなくては、またすぐ追いつめられることになります』

「それじゃあ戻って、ネムリにとどめを刺そう」

『今のあなたの体力では無理です。より有利な状況をつくりながら撤退戦を展開しなくては、勝ち目はありません』

 ハガネの言うことが正論だと、那渡にもわかっている。


「……嫌だ。ぼくはこの子を殺したくない」


 那渡とハガネが葛藤している隙に翼竜が跳びかかってきて、取り押さえられた。

 機体が後ろへ倒れ込む。胸と肩を前脚で圧迫され、頭に噛みつかれる。

 頸部フレームや、今や弱々しく赤光を放つばかりの魔導流体パネルに、がりがりと牙が食い込んだ。

 那渡の視界に、翼竜の口腔内の映像が映される。

 やはり顎の力が強い。パワーダウンした現状では、機体ごと、那渡の首の骨がへし折られかねない。

 危険が生じた瞬間、ハガネは緊急回避措置として、機体の頭をパージした。 

 卵の殻が剥けるように頭部シェルが外れ、那渡の顔面が露わになった。

 翼竜は口に残った、ハガネの首から上を吐き捨てる。

 那渡は、肉眼で翼竜の顔を見た。センサーを通した視界よりも辺りは暗く、軽度の近視があるため細部はぼやけているが、存在は鮮明に感じられた。

 あちらも、金属のスーツから生身の人間が出てきて意表を突かれたのだろうか。那渡の顔に鼻先を寄せてきた。涎の生臭さを冷たい風が静かに洗い、土と枯れ草の匂いも漂ってくる。

 そうかと思うと、翼竜の太い鼻息が周囲の空気をすべて吹き飛ばして、那渡はつい小さく笑ってしまった。

 この相手を殺すべきとは、どうしても那渡には考えられなかった。

 翼竜の顔が遠ざかり、ハガネ越しの圧力が、ふっと消える。

 その次は翼竜に、胴体を咥えて持ち上げられた。那渡の首と脚が、重力に負けてだらりと下がる。

(そうか……ネムリのところに行って、殺されるんだ)

 過度に体力を消耗した上、緊張の糸が切れて、那渡の意識は限界だった。命は確かに惜しいのに、抗う気力が湧かない。

 のしのしと歩く翼竜に運ばれて、堤防を登る。

 翼竜は舗装された堤防道路に出た。上流へ向けて道路を歩き出したとき、二十メートルほど前方に、見覚えのある軽トラックが停車した。

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