第2章 命と祈りの逃避行 [1/3]


 那渡なとは、車の後部座席で揺られていた。


 意識は半ば、まどろみの中にあり、夢のように感覚が不確かだ。

 体を曲げ、窮屈な姿勢で横になっていたが、動いてそれを直すのも億劫だった。

 車窓や、ルーフの穴の向こう側を、白や橙の光が規則的に通過していく。

 冬の夜だというのに、体は芯まで温かい。頭がぼんやりとして、今にも無意識へ引き戻されそうだった。

 視線を動かし、運転席の人物を見た。名前を思い出そうとしても、うまくいかない。

 その男は前方を見つめている。運転しているのだから当たり前だ。道に合わせてゆるやかに、ハンドルが操られる。


「……すばる」


 男がひとこと、つぶやいた。呻くように、求めるように。

 それを聞いて那渡が思い出したのは、狸のことだった。


 何ヶ月か前、自宅近くで、轢死した狸のなきがらを見つけた日の夜。悲痛な鳴き声を聞いた。

 つがいの相手を探す、もう一頭の狸の声だったのだろう。つらさや心細さを、そのまま絞り出すような悲鳴。


 男のつぶやきは小さかったが、どこかあの悲鳴に似た感情の表出を伴って、那渡の耳には届いた。

 なにを、そんなに悲しんでいるのか……。


 問いかける間もなく、那渡は再び、眠りへと沈み込んだ。




 次に気がついたときも、周囲はまだ暗かった。

 アタッシュケースに頭をあずけたまま、那渡はぱちりと瞼を開けた。車内には自分しかいない。

 寒い。パワードスーツを着ているときに感じた不思議な熱は、どこかへ去ってしまっていた。

 車の屋根が穴だらけになり、夜空が見えている。全裸で白髪の異様な男による襲撃が現実だったことを再認識し、ぞっとする。


 そういえば、逃げきった記憶がない。途中でなにか夢を見ていたような気もするが、思い出せなかった。

 用心深く上体を起こす。かなり体を動かし、激しい衝撃も受けたはずだが、痛みを感じる部位は特にない。

『サカナ』

 落ちていた眼鏡を足元から拾い上げたとき、枕代わりになっていた金属製のアタッシュケースが、那渡をあだ名で呼んできた。

『日をまたいで、ただいま午前零時三十分ちょうどです』

 これを身に着けて、あのネムリという男へ反撃したのも、現実に違いないのだろう。ただし、自分が装着して戦ったというよりは、取り憑かれて操られたような印象が強い。


「大丈夫だったの? その……さっきのは」

『はい。ネムリの行動力を削ぐことに成功し、現場から離脱しました。有効打を与えるためにガントンファーの噴射で急加速をした結果、身体に急激な負荷がかかり、あなたは今まで意識をなくしていましたが』


 詳しく経緯を聞く気力も湧かず、ベルトが壊れたショルダーバッグを手に、那渡はひとり車を降りた。

 外から見る灰色のセダンは、長四角で飾り気もなく、どこか懐かしさを感じさせるデザインだった。本来のレトロさよりも、どうしても損傷が目立ってしまう車両状態ではあったが。

 ナンバープレートに記された地名は〝大分〟で、遠くだなあ、という印象だけを那渡にいだかせた。

 ハガネの装着に巻き込まれ、皺がついてしまったコートの裾を、手で伸ばす。


 この場所は、高速道路のサービスエリアのようだ。だだっ広い駐車場に、トラックや夜行バス、一般車両がまばらに停められている。

 敷地内に立ち並んだ施設の照明が辺りを照らしており、なんとなく安心感があった。

 セダンの持ち主――カセと自称していた男性はどこだろうか。


 見回しながら、日頃の習慣でバッグのポケットから携帯電話を取り出したが、端末のタッチパネルディスプレイが砕けており、待ち受け画面すら表示できないありさまだった。車の天井へバッグごと宙吊りにされた際、圧壊してしまったらしい。

 かなり困るけど、仕方ないか……。

 そう気持ちを切り替えようとしていたとき、カセが小走りに戻ってきた。実用的そうな黒のジャンパーを着込んでいる。

 大丈夫か、と尋ねながらコーヒーの缶を渡してきた。

 抽象的な質問にどう答えるべきなのかわからず、ただ礼を返す。自分も、ハガネに似たようなことを訊いたばかりだったが。

 受け取った缶は適度に温かく、熱の刺激が心地よかった。

「飯にしよう。食欲があれば」

 言われてみれば、空腹だった。




 彼は改めて、火勢かせ忠正ただまさと名乗った。

 白髪まじりの短い髪に、うっすら伸びた髭。見た目の年齢は、明るい場所で見てもほぼ変わらず、四十過ぎといったところだろう。

 ふたりは少しだけ言葉を交わし、深夜営業のフードコートで食事をとることに決めた。火勢は車からアタッシュケース――ハガネを持ち出して、両手で重そうに運んできた。

 食券の販売機に表示されたメニューの中から、那渡は山菜うどんを選んだ。火勢が千円札を差し出してきたが、財布は無事なので断り、自腹で支払う。


 フードコートの四角いテーブルへ料理のトレイを並べて、席に着く。那渡と火勢は椅子に座り、ハガネは床置きされた。

 熱いつゆを流し込んで、ようやく一息つくことができた。眼鏡のレンズを曇らせながら、もそもそと食すうどんは、旨かった。

 火勢は寡黙で、ほとんど無言だった。かき揚げそばに七味を振りかけ、麺をたぐる姿を、那渡はちらちら観察する。

 彼も痩せているが、那渡よりはよっぽど体力がありそうだ。緊張感のあるぎらついた目つきをしており、食事中にもそれが緩む気配はなかった。



 もらった缶コーヒーを食後に開栓する。火勢がこちらをじっと見てきたので、何らかの説明をしてもらえると思い、那渡は身を乗り出した。


「……なにか、知りたいことはあるか?」

「……なにもわからないので、全部教えてください」


 火勢は、自分が理解できている範囲だが、と前置きをして話し始めた。要約すると以下のような内容だった。


 一昨日、自宅の車庫へ突然ハガネが現れたこと。

 ハガネから、ネムリによる襲撃を事前に知らされたこと。

 ネムリの標的であるサカナには身を守る手段がなく、火勢がハガネを届け、手を貸さなくては死ぬと教えられたこと。

 見も知りもしない他人だが見殺しにはできず、荷物を揃え、高速道路を飛ばして九州からやって来たこと。


 突拍子もない話だったが、那渡には信じるより他なかった。火勢の話し振りが真剣だったせいでもある。

 駆けつけてくれる際、彼が武器として火炎瓶まで自作してきたことについては、人命のための備えとはいえ若干おそろしくも感じてしまう那渡だった。

 現時点で火勢の印象は〝やばそう、でも恩人〟である。


「俺も同じように、化け物に襲われたからな。そうでもなかったら、わざわざ信じてここまで来ない」

「火勢さんも、ああいう感じの人に……?」

「いいや、こっちは」

 火勢は少し躊躇してから、

「大きな動物の化け物だったよ。白く燃えてて、鼠に似てた」

 訥々と語った。


 どうやって切り抜けたのか尋ねようとしたとき、テーブルの下からハガネが合成音声を発し、喋りかけてきた。


『カセを襲撃したのは〝火鼠〟という種族の刺客だったと推定されます。カセは独力で魔法を行使できる素養を有しているため、火鼠を迎撃することができたのです。

 カセが行使する魔法とは――』


 相変わらずの、中性的で落ち着いた声。那渡は思わず慌てて周りを見たが、他の客は近くにおらず、誰かがこちらを気にしてくる様子もない。

「先に、お前自身の説明をしてやってくれ」

 ハガネの解説を火勢が中断させた。那渡も、いい歳して魔法の話をするには及び腰なので、それには賛成だった。


『承知しました。サカナ、あなたの脅威に対抗するため、私は数十年先の未来から来ました。魔力を動力源として動く、戦闘用パワードスーツです』


 未来から来た。そう言われてどのように反応すべきなのか、那渡にはわからなかった。

 確かにハガネが人工物であるなら、少なくとも那渡が知る範囲を超えた高度な科学技術が用いられていることは、容易に想像できる。だからといって、それをすぐに受け入れろというのは、なかなかに難しい相談だ。


 パワードスーツというのも、軍事用や運搬・介護に使うものが開発されているのはおぼろげながら知っているが、実物に触れたことはない。

 SF映画の中ならば、たびたび目にすることがあるのだが。


『正確にはこの世界の未来ではなく、近似した並行世界の、より進んだ時代から送り込まれた、という表現になります。平行世界――いわゆるパラレルワールドの概念は、仮説やフィクションで充分に浸透している筈です。概ね理解できますか?』


 那渡は曖昧にうなずいた。火勢は眉間に皺をよせ、なんとも言い表しがたい顔をしている。


『では話を移します。あなたたちを襲撃したネムリや火鼠は〝磨道鬼〟と呼ばれる、魔法使いの一種です。彼らは、過去の文明からの侵略者です。

 遥か昔に魔力資源のシステムを構築した磨道鬼の一派は、充分な魔力の蓄積が成されたこの時代に蘇り、侵攻を果たそうとしているのです。ネムリは、その尖兵です。戦闘能力に長け、私の世界でも脅威となりました』


 おそるおそる、ハガネの話に割り込む。

「あのー……。なんとなく話が見えてきたんだけど、きみが、ぼくがネムリって人に襲われるのを知っていたってことは」

 言ってから、普段づかいの〝ぼく〟という一人称を、初対面の火勢の前で口走ってしまったと気づいた。あえて職場などでは〝わたし〟を使っているのだったが、変に思われた様子もなさそうなので気にしないことにする。そもそも今は、体面を取り繕う余裕もない。


『はい。私の世界でもサカナ、あなたはネムリの襲撃を受けました。その結果、私の世界のあなたは、生命を奪われたのです』

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