四節 「帰り道」

 由梨花は、霞澄に揺さぶられ目を覚ました。


 「お~い、早く起きないと、置いてかれちゃうよー」


 「う~ん———ん?」


 雑踏の雑音の中、由梨花は次第に意識がはっきりしてくる。


 「ここ…どこ?」


 「富山」


 「富山…あっ」


 由梨花が跳ね起きると、霞澄は既に荷物をまとめ終えている様子だった。 周りを見渡しても、立っている乗客はほとんど見当たらない。 アナウンスもとっくに半ばを過ぎたようだ。


 「忘れ物ない?」


 霞澄は遠回しに、それでも確実に由梨花を急かしている。


 「大丈夫。 それじゃ、降りよー」




 「由梨花ちゃんの実家って、どの辺?」


 霞澄がお土産店を眺めながら訊いた。


 「えっと、確か…ここから電車一本で行けたはず!」


 そう言うが早いか、由梨花は券売機に向かって走り出した。 実家に帰るのなんて久し振りだったから、こうしていう間も体が勝手に前へ進む。 けれど、それ以上に心配な気持ちが由梨花を前へ前へと押し出しているような感じがした。




 二人が乗った電車からの景色もまたとても単調で、少しも面白みはなかったけれど、由梨花は人一倍見とれていた。 何故なら、何を隠そう、この電車は由梨花にとっては“帰り道”だった。


 先程とは打って変わって、車窓から見えるのは一軒家の民家や田園ばかりだった。 どちらにせよ、在り来りであることに変わりはなかったといえばそれまでなのだけれど。 由梨花にとっては、こちらの方がよっぽど見飽きない景色だった。


 「向こうにはね、海もあるんだよ!」


 由梨花は地平線のそのまた先を指差しながら、目をらんらんと輝かせているけれど、そんな由梨花はよそに、霞澄はずっとどこかを眺めていた。


 …いや、実は、考え事をしている振りをして、眠っているのだろうか。 狐面の向こうでどんな顔をしているのか、何を考えているのか、由梨花には察する術もない。 そんな事を考えているうちに、電車は駅に停車していた。




 二人が駅から出ると空はやはり晴れ渡っていたけれど、既にあかみがかってもいた。 由梨花が郷愁に浸っている間も、霞澄はずっと空を見上げていた。 生家を探しつつも、霞澄が気になった由梨花もまた、知らず知らずの内に空を見上げてみる。


 常にすぐ身近にある空。 故に、あまり意識して見る事のない、遠い空。 霞澄の真似事をして、由梨花も天を仰ぐ。


 その瞬間から、由梨花の周りから、喧騒も、蝉の鳴き声も、風の音でさえも、消え去ってしまうような感覚に襲われた。 それと同時に、自分が空に一歩近づいたような…いや、遠のいていくような、そんな摩訶不思議な気分にもなった。



 ——するといきなり、由梨花は肩を後ろに引っ張られた。 由梨花が首だけ振り返ると、後ろにいたのは霞澄だ。 由梨花が口を開く間もなく、霞澄は溜息を吐いた。


「排水溝。 気を付けなよ」


 やはり、ぶっきらぼうには聞こえてしまうけれど、それでも霞澄なりに気を遣ってくれているようだった。


 「ごめん、よそ見してた。 ありがとう」


 そう、由梨花が言っても、まるで聞こえていないかのように、霞澄はすたすたと先に歩いてしまった。 由梨花に興味が無いのかもしれないが、案外心の内では返しに迷っていて、返し損ねただけなのかもしれない。




 しばらく住宅街の中を歩いていると、見覚えのある一軒家が見えてきた。 西日の中でも映える薄緑色のモルタル壁、由梨花の実家だ。 家の前の小庭に植わっている小さな桃の木は、由梨花がまだ小学生だったころに植えたものだったはずだ。


 今では植えた日の季節も、天気も、まるで想い出せない。 ただ、植えたという事実のみが木を通して断片的に存在していた。 木製のドアの隣に付いているインターホンも、押すことさえほとんどと言って良いほど無かったものの、そのチャイム音は昔のままだった。


 「は~い」


 聞き馴れた声がドアの向こうから聞こえてきた。 しばらく電話越しでしか聞いていなかった、由梨花の母親の声だ。


 「あら、由梨花じゃない! わざわざ帰って来てくれたの?」


 「うん、お父さんが心配だったから」


 実際に由梨花は、父親のことを心底心配していたから、これもあながち間違いではない。 けれど、“日本を救うため”なんてことを言う勇気はなかった。 それに、きっと言ったところでどうせ良い方向には転びやしない。


 それでも、由梨花は今更立ち止まることはできなかった。 想愁病の正体なんて知り得なくても、霞澄の言っていることが本当なら、由梨花は日本を救うことのできるたった一人の勇者なのだ。





 「…その人は、友達?」


 由梨花の母親は、霞澄を不思議そうな目で見ながら言った。 けれど、“今朝知り合った旅の仲間”だなんて言う訳にもいかず、由梨花は答えに困った。 するとそれを察したのか、元々こうなるのを知っていたのか、霞澄は静かに頷いた。


 由梨花の母親は、それでもやはり不思議がってはいたが、一応納得したという様子で二人を家に招き入れた。 由梨花を懐かしい空気が包む。 ここが、我が家だ。

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