序章 ~全ての始まり~

一節 「狐面の少年」

 私は時折、ふと思う事がある。 例えば、初めて来た場所なのに来たことがあるように感じる時。 そんな時はどうしても、本当に来たことが無いのかと自分を疑ってしまう。


 また、“想い出の中にでも入り込んでしまった”のかと、錯覚してしまう時もある。 遠い昔に行ったあの場所での記憶の中に――




 —————目覚ましが鳴っている。


 カーテンの隙間から差し込む朝日に目が眩みながら、由梨花は目を閉じたまま右手を伸ばした。 でも、その右手は時計を空振って、机を撫でるばかり。


 外では、雀が一、二羽ほど挨拶を交わしている。 そして、部屋の中では、目覚まし時計の鈴が、頭が割れるような音でさえずっている。


 「…痛っ!」


 未だに目が開かないまま、時計がある辺りを思い切り叩いたけれど…。 目覚ましを止め損ねたのは言うまでもなく、それどころか自分の手首を強打してしまった。 由梨花は引っ込めた右手を布団の中に戻し、深く溜息を吐いてから細目で起き上がった。


 髪をまとめている間もまだ、視界も頭も、霧がかかったようにぼんやりとしている。 朝日が眩しいせいなのか、それとも――—




 由梨花は卵を溶きながら、夢のことを思い出していた。 けれど、思い出そうとするほど記憶は曖昧になっていき、フライパンの上で卵焼きを転がしている頃には、もう何も思い出せなくなっていた。


 「そういえば…」


 想い出もまた、そうだ。 例えば、小さかった頃の夏祭りがどれだけ楽しかったとしても、今ではもう思い出せない。 食べたもの、会った人、花火の色。


 色、色・・・


 「——あっ! 今日、プラスチックごみの日じゃん!」


 そう、今日は第二月曜日。 青い袋は、ペットボトル用なのだ。 この機を逃せば、また来月まで待たなければならない。


 けれど、ゴミ箱に目をやると、それほどの余裕がないことは一目瞭然。 由梨花は白だしを火に掛けたまま、部屋から飛び出して行った。




 ペットボトルばかり入った青い袋を持ちながら、由梨花はエレベーターへと走っていた。 マンションのゴミ置き場があるのは由梨花の部屋の四階下。 とても階段で駆け降りられるほどの距離ではなかった。


 「よいしょっと・・・」


 一旦袋を降ろしてからボタンを押すと、タイミングが良かったのか、数秒もしないうちにエレベーターが降りてきた。 由梨花は降ろしていた袋を再び持ち上げて、エレベーターに駆け込んだ。


 乗り込みながら横目で中を見ると、そこには既に誰かが乗っていた。 無視をするのも気まずい。 由梨花は、挨拶くらいはしておこうと顔を上げた。



 ――けれど、開いた口からは、出る言葉もなかった。  普通のシャツに普通のズボン、そして少々禍々しさをまとった場違いな狐面。 何の躊躇ためらいもなく奇抜な格好をしているその少年は、偏見だけで見れば正直ただの変人にしか見えない。


 しかし、見た目で判断するのは良くない。 もしかしたら、何か事情がある…のかも、知れない。 そう思い、由梨花は思い切って声を掛けた。


 「あ、あのっ! おはよう、ございます…」


 すると、お面を付けた顔はゆっくりとこちらを向いた。 由梨花の中で、鼓動がいつもより速く響く。 表情を察することはできないが、目元に嵌った一対の硝子球の奥で、じっとこちらを見つめているような気がする。


 「——君は、夢が好き?」


 「・・・はい?」


 「夢ってさ、寝る前の記憶とか、そんなものも関係してるんだって」


 少年は、突拍子もない事を淡々とした口調で続けた。 身振り手振りまで付いているが、棒読みに聞こえる口調のせいか全く頭に入って来ない。 それはまるで、元から話そうとしていたかのようだ。


 「はぁ…」


 由梨花は正直、少年が何を言っているかさっぱり分からず、精一杯の苦笑いを浮かべながら、一階に早く着かないかとそわそわしていた。 しかし、なんとなくこの少年の人間性が気にならないこともない。 なんとなくせめて何者なのかくらいは訊いておこうと、話を遮るように口を挟んだ。


 「あなたは…誰? このマンションの人だよね?」


 「僕は霞澄かすみ。 想い出の欠片を探してるんだ」


 おもいでのかけら…と言われても、由梨花には何も理解しようがない。 首を傾げるまでもない。 そもそも、初対面の自己紹介(?)でよく分からないことを言っているこの人は、まさか本当にただの変人なのだろうか。


 「…ごめん、どういう事? 想い出の欠片って――」


 ———扉が開いた。 話している間に、一階に着いてしまったみたいだ。 由梨花は先程とは反対に、もう少しだけ遅く着けばよかったのに、と無責任なことを考えた。


 「もしも君に覚悟があるのなら、603まで来て」


 「覚悟? …え、ちょ、ちょっと!」


 霞澄は、由梨花が引き留めているのなんてお構いなしに、何かの歌を口遊くちずさみながら、どこかへ行ってしまった。 それにしても、何だったのだろうか。 想い出の欠片、覚悟・・・


 「——もういいや、関わらないでおこうっ」


 そう言って、由梨花は一度背伸びをしてからゴミ捨て場に向かった。 雲が遮る朝陽は、それでも晴れやかに、由梨花を照らしている。 今日はなんだか楽しい日になりそうだ。

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