二節 「ノスタルジア症候群」

 あれから数分後、由梨花は足早に部屋へ帰ってきた。 いつものことではあるけれど、やはり少し散らかっている。 散乱した小物なんかを飛び越えながら、キッチンへと戻った。


 「やばいやばい、学校に遅刻しちゃう!」


 由梨花はそう言いながら、コンロから沸騰し切った白だしを下ろし、レンジから出した冷凍うどんを突っ込んだ。 急いでいる朝の即席の朝食なんだから、当然具なんてものはない。 シンプルイズベストというものだ。


 リビングのテレビでは、いつものニュース番組が放送されている。 付けた覚えはないから、きっと消し忘れだろう。 別に見たい訳でもないけれど、消す面倒と暇潰しからそのまま見ることにした。


 「続いては、ノスタルジア症候群についてです。 全国のノスタルジア症候群の患者数は右肩上がりで増加しており、合計の患者数は昨日の時点で3000人を超えています。」


 「ふぅ~ん。 つい先週までは、二、三人だったのにねぇ~」


 由梨花は独り言を呟きながら、結局水で戻したわかめを一掴み丼に乗せていた。 しかし、よくもまぁそんなアニメみたいな病気を発見したものだ。 エコノミー症候群の同類か何かなのか。


 「それにしても、何なんだろうなぁ~。 確か、ノスタルジア症候群になると、毎日少しずつ感情がなくなっていっちゃって、最後には完全にうつろになっちゃうんだっけ。 感染する病気でもないしそもそも原因不明だから、どうしてなるのかどうしたら治るのかも分からないとか言ってるけど――」


 「これに対し日本政府は、何らかの空気感染するウイルスによるものとして、国民に注意を呼び掛けています」


 「…そんなわけないでしょ!」


 由梨花は笑いながらも、心の中には恐怖心が着実に巣食っていた。 一体、今後の日本はどうなってしまうのだろう。 自分たちの住んでいるところまでは、流石に来ないよね、と。


 しかし、やはりその時はその時。 とりあえず今は、今が大切なんだ。 そんなことに気を配っている余裕なんかない。


 「いっただっきま~す!」


 …と、由梨花が朝食を食べようとした途端、スマホの着信音が鳴った。 軽く溜息を吐きながら箸を止める。 どうやら、由梨花の母親から電話が掛かってきているみたいだ。


 「えぇ、この、今まさに朝ご飯を食べようとしてた時に…なんなの、もう!」


 愚痴をこぼしながらも、由梨花は渋々電話に出た。


 「もしも~し。 お母さん? どうしたの? こんな朝っぱらから…」


 「由梨花! 父さんが、父さんが!」


 由梨花の母親は、今にも泣きだしそうなたどたどしい口調で、必死に何かを伝えようとしていた。 その緊迫感に、由梨花も思わず息を呑んだ。 悪い考えが堂々巡りする中、由梨花は問いかけた。


 「何? お父さんがどうしたの⁉」


 「由梨花、父さんがね、その…」


 「その?」


 「お父さんが、ノスタルジア症候群になってしまって…」


 「———え…?」


 由梨花は、思わず箸を落としてしまった。


 「由梨花、あなたも知っているでしょう? 想愁病おもいでびょうが、どんな病気か」


 「で、でも! どうしてお父さんが?」


 「分からないわ…でも確か、何日か前からずっと、『実家に帰りたい』とか何とか騒いでいたような気が…」


 「帰りたい…?」


 その時、先ほどのあの言葉が由梨花の頭を過った。 それは確か…


 『僕は、想い出の欠片を探しているんだ』


 「想い出…覚悟——」


 由梨花は心の中で、何かが分かったような気がした。 けれど、上手く表すことも出来ず、それでも心の奥では自分が今何をすべきかが分かっているような気もしていた。 あまりにあからさまなこれを、きっと世ではこれを“運命さだめ”と呼ぶのだろう。


 「由梨花⁉ どうしたの? ねぇ、由梨花!」


 「ごめん、お母さん。 私ちょっと、行かなきゃいけないところがあって」


 「え、ちょtt...」


 『プーッ、プーッ…』


 由梨花は電話を無理矢理切ると、何も考えずうどんをかき込んだ。 そして、とりあえず流しに放り、寝室へと向かう。


 もはや、今更考えなんかない。 けれど、とりあえず、何か動かなくては。 そんな意味の分からない、とても強い想いが、由梨花の体を引っ張っているようだった。


 何が何だか分からない謎の病、ノスタルジア症候群。 それについて少しでも知っていそうな人は、ただ一人しか見当たらない。 きっと他の誰も頼りにならないはずだ。


 けれど、ついさっき会った隣人が由梨花を助けてくれる保証なんかない。 そもそも、由梨花が勝手に結び付けているだけで、ノスタルジア症候群について知っているとは言っていなかったはず。 考えれば考えるほどに分からなくなる。


 それでもあの言葉には、どこかすべてを見抜いているような響きがあった。 それこそ勝手な印象だけれど、確かに由梨花はそう感じた。 そんな曖昧な理由でも、由梨花は既に支度を始めていた。



 がさつに結んだ髪はそのまま、とりあえずクローゼットの手前にあった適当なシャツとハーフパンツに着替えた。 今となってはおしゃれなどどうでもいい。 それよりも、少しでも早く、早く何かをしなくては。


 窓の鍵閉めと並行しながら歯磨きも済ませ、残すは手荷物の用意だけ。 由梨花は、棚からは一応の保存食を、散らかった机上からは母親から貰ったお守りを普段使いのリュックサックに仕舞い込み、部屋を飛び出した。

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