三節 「覚悟を決めるということ」
『ピンポーン』
由梨花は、自分から
「は~い」
さっきは気付かなかったけれど、霞澄の声を改めて聞くと、どうしても少しばかり棒読みに聞こえてしまう。 そんな人もたまにいるものなのか、それとも単に不愛想なだけなのか。 扉が開くと、やはり狐面が出迎えた。
「あぁ、君はさっきの。 えぇと…」
「私は由梨花。 ねぇ、あなた、ノスタルジア症候群について何か知ってるんでしょう? ねぇ、教えてよ!」
由梨花は、まるで怒りをぶつけるかのように、霞澄を問い詰めた。 そんなつもりはないのに、口が勝手に由梨花の心を語る。 口に出してしまってから我に返ったけれど、霞澄は気にしていない様子だ。
「…まぁまぁ。 とりあえず、上がりなよ」
そう言って霞澄は、由梨花を招き入れた。 霞澄の部屋には家具があまりないように見えるけれど、あるとすれば机に椅子、そして、何かが書き込まれた日本地図くらいだ。 由梨花が部屋を物色している
「由梨花ちゃん、なんか飲む?」
「いや、喉は乾いてないから…それより、ノスタルジア症候群について早く話してってば」
「じゃあ、カルピスとりんごジュース、どっちがいい?」
「だから———はぁ…分かった。 じゃ、りんごジュースちょうだい」
まるで人の話を聞いていない霞澄の態度に、由梨花は少し腹を立てた。 そんな由梨花のぶっきらぼうな口調を全く気にしていないのか、霞澄はまた呑気に歌を口遊んでいる。 やっぱりどこか信用できない。
「それで、用件は何だっけ?」
りんごジュースが入ったコップを両手に持ちながら、霞澄がキッチンから歩いてきた。
「何度も言うようだけど、ノスタルジア症候群について知ってる?」
「ノスタルジア・・・あぁ、
「おもいでびょう…? まいいや、それ、治す方法とかないの!?」
由梨花はつい立ち上がりながら、食い気味で訊いた。
「——待って。 物事には、順序ってものがあるでしょ? まずは、想愁病がなんなのかを話さなきゃ」
由梨花を
「まず、
「どうして?」
「どうしてって…例えば、由梨花ちゃんは、楽しいっていう感情をいつ感じる?」
霞澄は、真っ直ぐ由梨花を見つめている。
「えぇと…例えば、アニメを見てるときとか?」
「それじゃ、もし世界中からアニメが消えたら?」
「ん~…私の楽しみがなくなっちゃうなぁ」
こんな話題でも、由梨花はまるで問題集と睨めっこをしているかのように真剣に答えた。
「でしょう? 由梨花ちゃんが、嬉しいって思えることがなくなっちゃう。 それはつまり…」
由梨花は、あからさまに目を見開いた。
「そっか、“嬉しいって感情そのものが消えちゃう”ってことか! …でも、なんで消えちゃうの?」
「それは、“想い出”が割れてしまうから」
「おもいで?」
外では相変わらず、雀が鳴いている。 けれどそんなことにはまるで気が付かないくらいに、由梨花は霞澄の話に聞き入っていた。 知っているどころか、これはもはや専門家だ。
「そう。 そのせいで、人の感情が消滅しつつあるんだよ」
「どうして、思い出が割れちゃったの? …というか、思い出に実体なんてあるの?」
由梨花は、小馬鹿にしたように尋ねた。
「もちろん、実体なんてないよ。 でも、人が想い出を大切にしないから、バラバラになった欠片がそこら中に散らばったんだ」
霞澄の落ち着いた口調が無ければ、これが現実だと信じることもできなかったと思った。 そして、霞澄はその信じ難い話を、淡々と続ける。
「その想い出を取り戻さない限り、想愁病になってしまった人は二度と治らないんだ」
「じゃあ、どうすればいいの⁉」
由梨花の声に、やりどころのないような不安が混じる。
「想い出を元に戻すためには、欠片を探さないと」
「欠片って、さっき言ってた欠片?」
「そう。 僕は、数カ月前から、想愁病の蔓延を予測してたんだ。 だから、事前に欠片の場所は分かってる。 でもこれには、それなりの覚悟が必要なんだよ」
由梨花が相槌を打つ間もなく、霞澄は続ける。
「なにしろ、全日本人の命運を背負うわけだから、絶対に失敗は出来ないし、弱音も吐いていられない。 それにそもそも、欠片があるのはここの近所だけじゃないんだよ」
由梨花は、少し不安になった。 いくらなんでも、二つ返事では承諾できない内容だ。 けれど…
「———それでも、私は、何もしないわけにはいかないんでしょ。 人間の感情が消えちゃうなんて、絶対に嫌だから」
由梨花は既に、“覚悟”を決めていた。
「…本当に、いい? もう、後戻りはできなくなるんだよ?」
「そんなの構わない! 私には、お父さんを、そして、みんなを見捨てる事なんて、絶対にできない…!」
もう、由梨花を止めることはできないと、霞澄も頭のどこかで察しているように見えた。 同情も
「それじゃあ、今から、欠片の場所を教えるね。 当然僕もついて行くけど、まずは見通しを持たないと」
そう言った霞澄は立ち上がり、部屋の端の方へ歩いて行った。 その先には、先程目に留まった日本地図。 その四隅のピンを丁寧に引き抜くと、両手に抱えながらゆっくりと戻ってきた。
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