第二章 ~鏡の向こう側は~

一節 「夢」

 「由梨花、そろそろ起きなさい~」


 どこからか声がする。 多分、幸代の声だ。 カーテンの隙間から射し込む朝陽が、やけに眩しい。


 「由梨花~」


 軽く柔らかいタオルケットを除け、由梨花は起き上がった。 寝ぼけているせいか、頭がぼんやりしている。 確か昨日は、霞澄と一緒に実家に行って、そのまま泊まって…


 「——え?」


 家は出たはずなのに、家に居る。 その矛盾に、由梨花は唖然とした。 これは夢なのだろうか? そう思った由梨花は、漫画のように頬をつねってみた。


 「痛っ!」


 疑う余地もなく、現実だった。 しかし、それならば。 昨日…いや、過ごしたはずの今日はどうなるのか。 確実に由梨花は、この家から次の目的地へ発っていたはずだ。


 どうしてか、はっきりと思い出せない。 それに、証明できる物も持ち合わせていない。 …となれば、確かめる方法はただ一つ。




 「ねえ、お母さん」


 「由梨花、やっと起きたのね」


 微笑む幸代に、由梨花は思い切って尋ねた。


 「今日ってさ、何日だったっけ?」


 幸代は、壁掛けのカレンダーを見て答えた。


 「今日は、8月12日よ」


 「…そっか」


 由梨花が霞澄に会ったのは、8月11日。 やはり、二回目の今日で間違いない。


 「どうかしたの?」


 「いや、大丈夫」


 幸代は心配そうな顔をして由梨花を見ている。 きっと、“疲れているのかしら”などと思っているに違いない。 それより、幸代は今日が2回目だということに気付いていないのだろうか。 それなら、霞澄に訊くしかない。


 「ねえ、霞澄くん、まだ寝てる?」


 「…誰? その人」


 「———え?」


 もはや、理解が追い付かない。 由梨花が霞澄とここに留まったのは事実で、目覚めた後からが夢だと思っていたのに、霞澄が来ていないと言うのだ。 …いや、そんなはずはない。 確かに由梨花は、霞澄と家を出てバス停に行ったのだ。


 行った…のだろうか?


 「続いては、お天気情報です。 現場の罌粟野けしのさ~ん」


 誰が見ているわけでもないテレビから、天気予報が流れる。 ただ、どこか聞き覚えがあるような気がしなくもない。


 「また、中部地方は高気圧の影響で――」


 『おおむね晴れの天気になるでしょう』


 由梨花の呟きは完全にシンクロした。 やはり…。 由梨花は、リュックサックをゆっくりと背負った。


 「——ごめん、私行かなきゃ」


 「…行くって、どこへ?」


 「福井県に」


 返事を待たないまま、由梨花は家を出た。 空は晴れている、と同じように。




 由梨花は、一度待っていたはずだったバスに揺られていた。 乗客は由梨花ただ一人。 それもそのはず、今は夏休みの早朝だ。


 そんな静かな車内で、由梨花はずっと今後について考えていた。 特に考えがあった訳でも無い。 ただ、とりあえず福井に行ってみる以外の選択肢が思い浮かばなかった。


 福井に行けば、何か分かるかもしれない。 もしかしたら、霞澄がいるのかもしれない。 そんな淡い期待を抱きながら、由梨花は駅前でバスを降りた。




 空港に着いてからも、由梨花はずっとそのことばかり考えていた。 そのせいで予約を取っていないことに気が付き、スマホを手に取った。


 「え~と、福井行は…あれ、無い?」


 何度探しても、東京行と千歳行しか見つからない。


 「——そういえば、福井ってどの辺だっけ」


 そう言いながら、地図を開く。 すると、そこには、東京よりも近い富山県と福井県が載っていた。


 「なんだ、全然近いんじゃん…」


 由梨花は大きく溜息を吐くと、空港の入口へとゆっくり戻っていった。




 来た道を戻り、違う電車に乗り、今度は直接福井に向かった。


 「それにしても、釣りしたのってどの辺りだったっけ…」


 由梨花は小さく呟いた。 何しろ、何年も前のことだから、覚えていなくても当然だ。 けれど、分からないところに行くことはできない。 なんとか思い出すきっかけを探していた。


 思い浮かんだのは、堤防にいる自分と両親、それに・・・タンクトップを着た、やんちゃそうな同い年の男の子。 それは、由梨花の幼馴染の湊翔みなとだった。


 小学校時代の同級生で、4年生の時に福井に引っ越したと聞いていたが、今でも住んでいるかもしれない。 希望は淡いが、他に頼れる人も居ない。 由梨花は、とりあえず会いに行ってみることにした。


 仮にも親交の深かった幼馴染だ。 連絡先が入っているはずだと、メールを開いた。




 ちょうど電車が駅に着いた頃に、返信は来た。


 『久しぶりだな。 由梨花と最後に会ったのは、一昨年の同窓会以来だったか。 今から福井に来るって言ってたが、何かあったのか?』


 少し強めの口調も、見かけによらない面倒見の良さも、昔のままだ。


 「ちょっと色々あって、と」


 駅前のバス停に座りながら返信する由梨花は、正直不安な気持ちだった。 福井に来てみたところで、一体どうなるのか。 そもそも、湊翔にはどう説明をすればよいのだろう。


 「まぁ、なんとかなるかな」


 そう言って、由梨花はバスに乗り込んだ。

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