二節 「山紫水明のいざない」

 「そんながむしゃらに歩いて、本当に道合ってるの?」


 「——霞澄くんだけには言われたくないっ」


 言っていることは強ち間違ってはいない。 でも、こんな山奥に地図も持たずに連れて来た張本人に言われては、もはや聞く耳を持つ気さえ失せてしまう。 霞澄を信用したのは由梨花だけれど、そんなのは今更問うべきことでもなかった。


 …ただ、そうは言っても、由梨花に活路が見えているはずもない。 どこにも着かないことはないとは思いつつも、確証もなければ時間もあまりない。 そんな風に悩みながらも、むこうに進んでいるだけの足は止まらない。



 ——ふと木々の間に目をやると、少し遠くに舗装路が見えた。 見違いかと思い目を凝らしてみても、確かにアスファルトが覗いて見える。 流石にくさむらを分け入って行くわけにはいかないけれど、右に逸れた小道の先で繋がっていそうだ。


 「ねぇ、霞澄くん見て見て! あっちに道見えない?」


 「どれどれ? ——あぁ、ほんとだ~」


 背伸びをしたり屈んだりしてその道を見つけた霞澄は、人ごとのように感心している。 由梨花はそんな呑気な霞澄に少し呆れながらも、滝に辿り着けそうだという喜びを噛み締め、進み始めた。 その後ろでは、足音に気付いた霞澄が置いて行かれぬようにと足早に付いて来ている。


 先程の場所から三十歩ほど歩くと、舗装路と合流することが出来た。 その両端を確認してみると、左へ続く方の路傍には場違いな交通標識が抛存ぽつんと立っている。 そのまた向こう、もっとずっと遠くには、道の果てと何かの構造物が望めた。


 新緑で照り返される日差しが薄いベールのように覆い隠しているそれは、蜃気楼で生き物のように揺れうごめいている。 近付けば近付くほどに形は鮮明になり、アブラゼミやクマゼミの鳴くおとも次第に大きく聞こえてきた。 小指ほどの大きさで見えるようになった宛所は、既にそれが何かを肉眼で認識できるようになっていた。


 「え、あれって…鳥居?」


 一瞬目を疑ったものの、隅々まで眺めてもあの形状は鳥居以外に有り得ない。 けれど、霞澄の話を聞く限りは向かっているのは滝だというのだから、由梨花は更に頭の中が混乱してしまった。 そうしていると、追い付いて横に並んだ霞澄が呟いた。


 「そういえば、たしかここお不動さん祀られてたんだっけ」


 「——お不動さん?」


 「うん、お不動さん。 厳密には、不動明王っていう仏教のなんちゃらかんちゃらで…」


 そう言う霞澄は既に歩き始めていて、由梨花がお不動さんの理解を諦めた頃にはとっくに鳥居をくぐっていた。 由梨花も慌てて追い掛け、脱帽一礼してから潜ると、少し空気が変わったような気がした。 伊勢でもこんなことがあったような気がしないでもないけれど、やはりスピリチュアル的な何かがあるものなのか。



 左に流れる清水の音を愉しみながら日蔭の中を進んでいくと、飛沫と轟音をあげる滝が目に映ると同時に、その右手前にお堂のようなものが見えてきた。 鳥居があったのだから自然と言えば自然ではあるものの、滝とセットで見ることなどうないのだと思うと、それだけで気分が浮かぶものだ。 位置関係的に先にお堂を見たいところだけれど、体が圧倒的な存在感を持つ滝に吸い込まれていく。


 細い丸太でできた柵から身を乗り出すように滝を眺めると、弾け飛んだ泡沫の所為か、少しだけ涼しく感じられた。 常に響き続けている轟々とした瀑音は、耳障りのように思えて、それでもどこか心地好い。 舞い上がった清澄が木々に囲まれた空気に架けた虹霓こうげいは、木洩れ日を受け煌々とした光彩を水面に放っていた。


 滝壷の周りでは絶えず木の葉が渦巻き、円環を成していた。 そこから派生した流れは川底の岩なんかにつかりながらうねりをあげ、下流へと競うように広がっている。 今朝の暁光ぎょうこうといい、やはり自然の中での美しい景色には心を洗われる。



 「お~い、ちょっとこっち来てみて~」


 しばらくの間由梨花が見入っていると、背中の方から霞澄の声がした。 由梨花よりも少し早く見飽きたようだったが、先にお堂へお参りしているのだろうか。 露出した木の根を飛び越え、由梨花はお堂へ向かった。


 まばらに生えた杉や石灯籠を避けながら進むと、まだ十歩も行かない内に霞澄の下へ着いた。 そこには少し古びているものの立派なやしろが建っており、その傍らには剣を模したような構造物が置かれていた。 よく見ると、少し離れた所から霞澄が隣の石碑を眺めている。


 「——これ、何が書かれてるの?」


 「“大聖不動明王”って書いてあるから・・・何だろうね」


 半笑いで言った霞澄は、一周くるっと回って辺りを見回し、敷地の端で明らかに浮いている金属製の質素なベンチに腰掛けた。 一切の力を抜いているのか、背凭せもたれを乗り越え、首ごと後ろに垂れ下がってしまっている。 無気力な霞澄の姿はどこか目新しく、かげる側面の一つを見れたような気がした。




 樹叢じゅそうを抜け、今度は舗装路に沿って歩いている最中、由梨花は欠片のことを思い出した。 一つ前は言うのを忘れていたらしいものの、流石にまた忘れているなんてことはあるはずがない。 されど、忘れていなければそれはそれで回収できていないことになるけれど…。


 「霞澄くん、欠片ってもう集まってる?」


 「うん、ここに付いた時点でとっくに」


 「・・・それはよかったけど。 私、霞澄くんと違って欠片がどうとか分からないから、できればもうちょっと早く言ってくれる?」


 「それなら、もうちょっと早くそれ言えばいいのに」


 「——ぐぬぬ…」


 明らかに悪びれる様子もないのに、ヘリクツなのに道理が通っているからなかなか言い返せない。 言っていることは正当化もしようがないがけれど実に的を得ているような風に堂々と言われては、否定もし難いのだ。 そんな駄論に手をこまねいていると、霞澄がさぞ愉快そうに笑った。


 「ごめん、ちょっとからかった。 次は…って言っても最後だけど、言い忘れないように気を付けるよ」

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