四節 「懐かしい小さな公園で」

さっきのことを考えながら由梨花は歩いていたけれど、やはり考えはまとまらない。 霞澄が正しいのか、湊翔が正しいのか。 それか、どちらとも合っていて間違っている…?


 「あ~っもう、分かんない!」


 一人呟いても、誰も返す人などいない。 気づけば、よく知らない街を一人で歩いていた。 今更それに気づいた由梨花は、ますます今後が心配になった。


 一度、実家に帰ろうか。 それとも、いっそのこと東京まで帰ってしまおうか。 そうして、何もなかったことにしてしまえばいい。 そんな考えが由梨花に浮かんだ。


 たった二日三日のことなんて、きっとすぐに忘れてしまえる。 想愁病は…どうせ誰かが血清でも作ってくれるはず。 所詮勇者など名ばかり、由梨花には何の義務も力もなかった。


 由梨花には、もはや何もかもどうでもいいという気持ちしか残っていなかった。 自分のことが、行き先を見失った迷子のようにも思えてきた。




 ――ふと、小さな公園が目に入った。 ブランコに滑り台、鉄棒といった最低限の遊具と最低限のベンチのみ置かれた、在り来りな公園だった。


 特にすることもないのだからと、由梨花は滑り台に向かった。 少し塗装の剥げ掛け風化くすんだ赤と青の滑り台は、少し茜色に染まって見えた。


 階段を上ってみたけれど、やはり小さな段に足がつっかえてしまう。 それに、手摺りも少し低く、一度 つまづきそうになってしまった。


 それでもなんとか天辺てっぺんまで登った由梨花は、滑る前に辺りを見回してみた。 小さかった頃、好きだったであろう景色。 今では、もう少し高くなった景色を。


 滑り台の上からは、色々なものが見えた。 公園の全体や傍の店の看板、そして同じく茜色に染まりかけている海までもが見えた。


 その美しい街並みに吐息を漏らしながら、由梨花は腰掛けた。 後ろには小さな階段、横には柵状の低い手摺てすり。 そして滑った先には、均されていない砂場が見える。


 台に手を掛けると、まだ少し熱かった。 夏の日差しに熱された滑り台は、しばらくは冷え切らない。 由梨花も何度これで火傷をしたことか。


 けれど、憎くはなかった。 むしろ、そんなところもあるから、滑り台という遊具が好きだったのかもしれない。 滑り台の火傷も、階段での順番待ちも、雨の憂鬱ゆううつささえも、滑り台のいい思い出だ。


 そして、一気に滑り降りてみる。 少し窮屈ではあったけれど、つっかえはしなかった。 ものの数秒間で、スリルも何もなかったが、体が勝手に再び階段の方へと向かってしまう。


 由梨花は何度も滑った。 特に何も考えずに、ただただ滑ってみた。 これと言って何かが変わったわけでもないけれど、少しだけ気持ちが軽くなったような気がした。




 次に由梨花はブランコに腰掛けた。 ブランコに乗るのなんて、いつ振りだろうか。 歳を重ねるにつれ、いつしか公園の遊具で遊ぶことを躊躇ためらうようになってしまっていた。


 ブランコに座る。 後ろに引く。 両足を蹴り出す。 そのまま前に伸ばす。 膝を曲げる。 また膝を伸ばす。 その一連の動作を、無意識にしている。


 人が無意識に息をするのと同じように、泳ぎ方や自転車の漕ぎ方も、勝手に記憶の奥底に刻まれるのか。 幾度も幾度も挑み、そうしてやっとできるようになったことは、ずっとできるままなのか。


 この世にブランコの漕ぎ方を教える職業はないけれど、それでも未だに漕げる人はいる。 もしかしたら、アリやミツバチのように、自然と遺伝子に刻まれているのかも知れない。


 由梨花は、ブランコが好きだったことを思い出した。 今はもうほとんど思い出せないあの頃、確かにブランコを漕いでいた。 毎日のように漕いでいた。


 「…懐かしいなぁ」


 もう既に少しだけ染まり始めている空を見上げながら、由梨花は静かに呟いた。 鎖を握る手が痛み始めた。 少し、ベンチで休もうか。




 由梨花が降りたブランコの影が、まだ微かに揺れている。 滑り台の隣の砂場には、誰かの作った山があった。 さっきまでは気がつかなかった懐かしい情景が由梨花を包み、なんとも心地好かった。


 どこからか、鴉の鳴き声も聞こえてきた。 でも、それは段々と小さくなって―――

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