七節 「空坊主」

 「——アレって?」


 霞澄の言う「アレ」とは何だろうか。 もしや魚の種類を予測したのか。 でも、手先の感覚だけで当てるなんて芸当、にわかには信じがたい。


 「由梨花ちゃん、これはね」


 「うん…」


 由梨花は唾を飲み込んだ。 間を置く霞澄に、緊張と期待が高まる。 続きを待ちきれずに口を開こうとした由梨花より少し早く、満を持して霞澄は言った。


 「多分、針が引っ掛かっちゃってるね」


 「——何に?」


 「さぁ…岩とか、海藻とか?」


 「・・・えぇ~‼」


 予想だにしていなかった答えに、由梨花は思わず周りをはばからない大声を出してしまった。 まさか、魚すら掛かっていなかったとは! 驚愕のあまり、由梨花はただ感嘆詞を繰り返すことしか出来なかった。


 「———じゃぁ、魚は?」


 「掛かってないと思うな~」


 「そっかぁ…」


 霞澄はさらっと言ったけれど、由梨花はひどく落胆してしまった。 マグロやらタイやらが釣れることはなくても、少なくとも小魚くらいは簡単に掛かるものだと思っていたのだ。 由梨花はその場に座り込んで、溜息を吐いた。



 「じゃぁ…もう一回、やり直し?」


 「そうだけど、その前にまずは針をどうにかしなきゃだよね~」


 そう言いつつ霞澄は、釣り竿を上下させている。 本当にそんなことで取れるのだろうか。 そんなことを思いながら眺める由梨花に、視線を変えずに霞澄が呟いた。


 「…まぁ、欠片はもう見つかったんだから、別に魚は釣っても釣らなくてもいいと思うけどさ~」


 「・・・えっ?」


 あまりの衝撃に、由梨花は再び言葉を失った。 別に由梨花は魚が食べたくて福井まで来た訳ではない、欠片が集まったのならそれでよかったのだ。 それなのに霞澄は…


 「もうっ、それなら早く言ってよ!」


 一番大事なことを言わない霞澄の天然さとその可笑しさに、由梨花は霞澄の左腕に飛び掛かりながら言った。 リュックサックの中で小荷物が跳ねる。 当然霞澄はよろけたものの、何食わぬ声で返した。


 「ごめん、ついうっかり」


 霞澄は海藻だらけの針を釣り上げ、手で払いながら続けた。


 「釣りに夢中になって言い忘れてたけど、もう欠片は見つかったよ」


 「…さっき聞いた」


 「——そうだっけ?」



 「それよりさ」


 由梨花は、霞澄を見つめながら言った。 少し落ちてきた陽が海の中で煌めいている。 深く息を吐き、ゆっくりと口を開いた。


 「次の欠片って、どんなの? どこらへんにあるの?」


 「ん~…」


 霞澄はわざとらしく頬に手を突きながら暫く俯いていたが、パッと顔を上げた。


 「次は、伊勢あたりじゃなかったかな~」


 「伊勢? 伊勢ってたしか、大阪とかの近くだよね…」


 「そうそう、その辺その辺~」


 由梨花には何を基準に場所が決まっているのかは計り知れなかったけれど、相も変わらない霞澄の軽さに少し苛立ちを覚えた。 少なからず由梨花は、想愁病と真摯に向き合っているのだ。 霞澄の余裕さには呆れたものだ。


 「——それで、次はどんな感情の欠片なの?」


 「次はね~、“怒り”の断片だったはずなんだけど…でも、伊勢で怒ることなんてあるのかな?」


 「ん~・・・特に思い当たることはないかなぁ」


 そもそも、由梨花は伊勢に行ったことがあるのかすらも怪しいくらいなのだ。 ましてや、怒ったことなど、覚えているはずもない。 一体、どんなことがあったのだろう。


 「じゃぁ、行き当たりばったりの旅ってこと? それって、なんか…すっごく楽しそうじゃん!」


 霞澄は急にらんらんとして、両脚で飛び跳ねた。 …期待の断片が集まったから、また性格がややっこしくなったということなのだろうか。 身振り手振りのひとつひとつが更に子供らしく見えてしまう。


 次の欠片は“怒り”。 ということは、回収したら霞澄が怒りっぽくなるのだろうか。 頬を膨らませる霞澄も見て見たいけれど、なにしろこんな感じだ。 今以上に面倒になるに違いない。



 「———そうだ! せっかく伊勢に行くなら、今晩は伊勢海老食べよ~!」


 霞澄が右手の釣竿を振り回しながら言った。 まだ道具の片付けも終わっていないのに、無邪気に妄想を膨らませている。 まぁ、夕飯が伊勢海老というのも悪くはないけれど…。


 「——え、まさかとは思うけど、今から三重まで行くつもり!?」


 「・・・だめ?」


 「いや、ダメというか…」


 「だって、お腹空いてるからさ~。 早くエビ食べたいじゃん?」


 「そりゃ、まぁ…」


 気のせいかもしれないが、先程から一層楽観的になっているような気がする。 自分の胃袋を優先してとりあえず伊勢まで行くなど、常人の考えることではない。 ――だからと言って、反論する気もないけれど…。


 「それじゃ、電車調べとくから、これ返してくるのお願いっ!」


 「・・・はいはい、いいよ」


 どうせ嫌だといっても、霞澄は食い下がらない。 それに、電車の時間を調べるのもそれはそれで面倒なのだ。 今度は無駄な抵抗はせず、素直に返しに行ってあげることにした。


 「———その代わり、おいしい海老が食べられるお店、探しておいてね?」


 「任せてっ!」

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