第六章 ~悲しみの断片~

一節 「燦然たる禊祓」

 「はぁ~、おいしかったぁ…」


 電車を待つホームで、由梨花はつい呟きを漏らした。 けれど、清潔感溢れるそこはそれほどに由梨花にとって居心地のいい空間だった。 今でもあの柔らかい香りが鼻に残って離れない。


 そんな由梨花の隣では、霞澄が調べ物をしている。 次に行く場所でもチェックしているのだろうか。 意外にマメだなぁと思いつつ由梨花が覗き込もうとすると、気配を察したのか霞澄がこちらを向いた。


 「由梨花ちゃん。 次の欠片があるのは関東なんだけどさ~」


 「へぇ~、関東ってことはやっぱ東京?」


 「いや、東京ではないんだけど。 …霞ケ浦って行ったことある?」


 「かすみ・・・がうら――」


 「無いんだね」


 「・・・うん、ない。 というかどこそれ?」


 「うーん…」


 由梨花が言ったことはないと答えると、霞澄はあからさまに困惑したようだった。 でも、聞いたことのない地名を出され、由梨花だって困惑しているのだ。 行ったことがないのは行ったことがないのだから、どうしようもない。


 「———まぁ・・・いっか!」


 「…いいの!?」


 「うん、どうせどうにかなるし」


 由梨花は、これほどまでに無責任な“どうせ”を初めて聞いた。 それくらい、テキトーに霞澄は答えた。 違和感はないが、納得がいくかと言われれば答えに詰まる。


 けれど、由梨花の杞憂など気にしていないかのように…というより意識もせずに、霞澄は丁度止まった電車のドアに吸い込まれていった。 そして目の前の無難な席に座ると、能天気に手を振りだした。 由梨花を呼んででもいるのだろうか。


 ――全く、霞澄のノリの軽さには呆れたものだ。 これじゃ頼りになるんだかならないんだか。 霞澄に聞こえないくらいに小さくそんなことをぼやきながら、由梨花も笑い混じりの溜息を吐きながら電車に乗った。




 それから二人は、電車を取っかえ引っかえしながら目的地へと向かった。 このシンプルなデザインの特急に乗ってから、どれくらい時間が経っただろうか。 目を覚ました由梨花が車窓の奥を眺めていても、一向に“浦”は見えて来ない。


 どれだけ進んでも、道路にビルに住宅街…既視感のある街並みばかり。 そんなものを目で追っているうちに、水面が見えないままとうとう駅についてしまった。 土浦駅——浦がありそうでなさそうな、なんとも曖昧な名前だ。


 「車内に落し物お忘れ物ございませんようご注意ください――」


 聞き慣れたアナウンスのテンプレートがホームに木霊する。 周囲の雑踏は手々散々てんでばらばらに自動扉をくぐっていく。 夏の昼下がりのせいか、由梨花にはそんな一本調子な様がスローモーションに見えた。


 由梨花の三歩先を行く霞澄に付いて歩く間もまた、鬱蒼とした低層に虚けていた。 昨日まで自然に触れていた分、都市部に戻った時の喪失感もより引き立てられてしまう。 そんな気分を紛らわすように、由梨花は霞澄に声を掛けた。


 「ねー、霞澄くん。 霞ケ浦ってあとどれくらい?」


 「割とすぐそこなんだけど、先にホテルのチェックインしておかないと」


 「そっかぁ…」


 気怠い気持ちは解れぬまま。 もはやこのままでは、旅が終わった後もずっとこんな調子なのではないかとさえ由梨花は思った。 これを俗に帰郷嫌悪ノスフォビアと言うのだろうか。


 駅からある程度近いホテルへ行った時でさえ、心を躍らせるようなものはなかった。 美麗荘厳な装飾すらも、焦点を留めるに値しない。 由梨花の瞳には、総てが平坦に映った。




 「——そろそろ見えてくるよ~、霞ケ浦」


 ホテルを発って数分。 霞澄に言われた頃には、由梨花はとっくに夢現ゆめうつつだった。 寝惚けたような返事をしたせいか、霞澄は笑いながら何か言っている。


 「ほら、やっと着いた~」


 霞澄はそう言うと、立ち止まって背伸びをした。 由梨花も傍へ行くと、路地の建物が途切れ、途端に眼が眩むほどのな斜陽が刺し込んできた。 その瞬閃フラッシュを振り解くと、そこには目を奪われるような、美しい絶景が広がっていた。



 雲をも染め上げる黄昏たそがれはきっとどの陽差しよりも堂々とあでやかに輝き、水面の揺らめきの乱反射はその煌きを際立たせている。 その情景は、その光は。 まるで由梨花の心、奥深くまで包み込み、疲れや憂いを洗い流しているかのようだった。


 何か特別なわけでもない。 それでも、その澄み切った光は由梨花の心を動かすほどの色を持っていた。 由梨花は、感動にも安堵にも似たような吐息を漏らした。


 「ここ、すっごく景色いいよね~」


 「———うん」


 平然と言う霞澄でも、その佇まいからは穏やかさが瞭然と伝わってくる。 けれど、それを目視できないほどに、由梨花は夕焼けに釘付けになっていた。 見事なまでに純白のかがやきは、ついには逢魔が時でさえも満たしてしまいそうだ。


 「でも、これもいつまで続くかなぁ」


 「…え、どういうこと?」


 由梨花が反射的に訊くと、霞澄は少し笑った。 しかし、どこか哀しげに笑っているようにも感じられる。 霞澄は堤防から跳び降りると、確かな重みのある声で言った。


 「——明日また、来よう」

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