二節 「守られた約束」

 「——お~い、由梨花ちゃ~ん。 起きて~」


 耳元で、声がした。 誰かに肩を揺さぶられている。 そっと薄目を開けると、枕元に人影が座り込んでいる。 どこか締まらないぼんやりとした声からして、霞澄だろうか。


 「由梨花ちゃん、朝だよ~」


 「ん~…おはよう」


 目を擦ると、右手に鍵を握った霞澄が映った。 きっと、早く朝食を食べたくて仕方がないのだろう。 若干そわそわしているのがその仕草から伝わってくる。


 「霞澄くん、朝ご飯ってどこのお店で食べるの?」


 「この近くのとこなんだけど、結構人気らしいから早めに行っておこうよ~」


 「わかった。 それなら今から支度するから、先に外に行って待っててくれる?」


 「は~い!」


 そう言うと、霞澄はスキップをしながら部屋を出て行った。 よほど朝ご飯が楽しみなのだろう。 となれば、朝から海老でも食べる気なのか。


 「さすがにそれはちょっとなぁ…」


 そう由梨花は呟きつつも、実はちょっと嬉しかった。 エビを食べたいと言い出したのは霞澄だとはいえ、店探しから…何なら、電車等の予約までも全て霞澄に任せっきりになっていた。 由梨花にもできないことはないけれど、有り難いものだ。


 一通りの支度を済ませた由梨花は荷物をまとめ、部屋の鍵を閉めた。 無駄に洒落たエレベーターに乗り、高級ホテル気取りの小さなフロントでチェックアウトの手続きを済ませた由梨花は、リュックを背負い直しながら道に出た。 眩しい朝陽がそこら中の建物に反射し、町は煌めいている。




 「———お待たせ~」


 霞澄は特にすることもなかったようで、ホテルの近くをうろついていた。 手には何も持たず、ただ街並みを見ていたようだ。 由梨花は声を掛けると、クルッと一回転して振り返った。


 「それじゃ、さっそく食べに行こ~」


 「いいよ。 それで、お店ってどっち?」


 「あっち!」


 そう言って霞澄が指差したのは、すぐそこのお洒落な雰囲気の飲食店だ。 確かに海鮮料理は出てきそうだけれど…


 「・・・え、もしかして、あれ?」


 「うん」


 「すぐそこの?」


 「そうだよ?」


 すました声で答える霞澄に、由梨花は一瞬呆気にとられてしまった。 霞澄のことだから、突拍子のないことはしそうだとは思っていたけれど。 まさか、目の前にそのお店があるとは思っていなかった。


 「もうお腹ペコペコだから、早く行こ~」


 「…そうだね、それじゃ、行こっか。 ――それにしても、伊勢海老楽しみだな~」


 由梨花はそう言いながら歩き出した。 向こうの太陽に手を翳しても、指の隙間から零れてしまうほどに、まだ低い朝陽は眩しかった。 隣に目をやると、霞澄も真似をして手を目の前に挙げていた。




 「おはよ~ございま~す!」


 いつものように声をかけてから店に入った由梨花は、窓に近い席に座った。 その窓からは、明るい街並みと、その奥に覗く目が眩むほどの綺麗な海が見えた。 目線を席に戻すと、霞澄がメニュー表を眺めている。


 「私にもメニュー見せて~」


 由梨花がそう言うと、霞澄はメニュー表を机に広げたまま90°回し、丁寧に海鮮丼のページまで開いてくれた。 指の先には、具が溢れんばかりに盛られた海鮮丼。 既視感があるような気もしたけれど、バリエーションなどないシンプルなその海鮮丼を注文することにした。


 「霞澄くんも海鮮丼食べるんでしょ?」


 「うん」


 「それじゃ、店員さん呼ぶね。 ——すみませ~ん!」




 案の定戸惑い気味の店員は、由梨花が注文した数分後、二杯の丼をお盆に載せて持ってきた。 確か、中華料理屋に行った時もそうだった気もする。 けれど、居心地のいい早朝の店内で、そんな細かいことなど気にならなかった。


 「これめっちゃ美味しそうだね! 特にこのおっきなエビとか…」


 新鮮さの伝わってくる具材の中でも一際目立つその身は、反射光で文字通り宝石のようだった。 そんな伊勢海老に負けないくらいに、鯛や鮪の切り身も大葉と共に彩りを補っている。 霞澄も先程からずっと見惚れているようだった。


 「それじゃ、いただきま~すっ!」


 そう言うや否や箸を持ちながら合わせた手で口へすくった途端、磯の風味が口一杯に広がった。 噛めば噛むほどに溢れ出る旨味に、由梨花はうっとりしていた。 まるで、何かが報われたような…。



 向かいに目をやると、霞澄もやはり海鮮丼を頬張っていた。 頬が少し膨れているのがお面の下からでも判る。 流石海老の王様といったところか、万人受けするのも納得がいく。


 「霞澄くん、これすっごく美味しいね!」


 「うん」


 霞澄は口をもそもそさせながら返した。 先程からずっと箸を手放さずに食べ進めているところを見ると、よほど海老が気に入ったのだろう。 …なんてことを考えている内に、由梨花の海鮮丼も底が見えていた。


 この後は確か、伊勢神宮に向かう予定だ。 由梨花はなんだか、もはやこれがただの日本一周旅のように思えてきた。 案外、そんなものなのかもしれない。 そう思いながら、最後の一掬いを口に運び込んだ。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る