三節 「狐の雲隠れ」

 「———え? 行かなくちゃ…って。 どういうこと?」


 「・・・ごめん、本当に」


 「いや、謝らなくていいから――」


 問い詰めようとする由梨花の声を、華やかな音が掻き消した。 霞澄は由梨花からも花火からも目を背け、俯いたまま黙り込んでいる。 歓喜の声も、爆発音も、ずっと遠くから聞こえるような、見えないベールに阻まれて弱まるような、そんな不思議な感覚に包まれた。


 「——元はと言えば、僕が向こう見ずなせいで。 それに、この不甲斐無さが祟って…」


 「ねぇ。 いったい、何の話?」


 独りよがりな霞澄に、由梨花はつい声を荒げた。 霞澄はこちらを見たけれど、悲哀と葛藤混じりのもどかしい溜息しか返ってこない。 月白色げっぱくしょくの狐面は、裂光に当てられて七色に揺蕩たゆたっている。


 「本当は、全部を話したいけど。 どっちにしろ僕は、もう帰らなくちゃいけない」


 「帰るって、どこに」


 「・・・ごめん、これ以上は言えない」


 「どうして!」


 由梨花の声を無視するように立ち上がった霞澄は、どこかへ歩き去ろうとしている。 引き留めようとして伸ばした手は、僅かに届かず空を切った。 大空に上がった花火の響きと共に、霞澄の姿は群衆の中へ消えた。


 「霞澄くん、待って!」


 必死に叫んでも、上空の爆音に吸い込まれてしまう。 追い掛けてちゃんと最後まで説明してほしいのに、暗い足元につまづいて、起き上がる力さえない。 由梨花は地べたを睨みながら、にじんだ視界をがむしゃらに擦った。


 由梨花の嗚咽おえつと重なり、最後の花火が上がった。 最高潮まで盛り上がった歓声で、由梨花の耳は溢れ返った。 突然去った霞澄が憎くて、腹立たしくて、恋しかった。


 そして、群衆が帰り始めてからも、由梨花はしばらくの間座り込んでいた。 うつろに人の流れを眺めながら、何も考えられずにいた。 けれど、結局霞澄が裏切ったのか逃げたのかは分からないままとはいえ、このまま座っていてはどうしようもないと区切りを付け、ゆっくりと立ち上がった。




 帰り道のバスは、静けさと月光で満たされていた。 今はもう、話し掛ける相手もいない。 由梨花は虚しい気持ちのまま、そっと目を瞑った。


 思い返せば、この数日間は全部夢だったのではないかと思えるくらいに、非現実的で、破茶滅茶で。 何より、少なからず楽しかった。 よく分からないことだらけではあったものの、旅の間の由梨花はずっと笑っていた気がした。


 …それにしても、霞澄は何故急にいなくなったのだろうか。 どうしても外せない用事が急にできたのか・・・それにしても、何も話さないなんて納得が行かない。 そもそも、旅に連れて来たのも、花火大会に誘ったのも、霞澄だったのに。


 だからと言って、特に何を失ったわけでもなかった。 移動費も宿泊費も、払ってくれていたのは殆ど霞澄だったし、失くしたものも一つもない。 ちゃんとしたお礼もまだ言えていなかったけれど…。


 薄ら目を開けて車窓を見ると、街灯や室内から漏れる照明が目に入り、瞬く間に左へ流れて消えていった。 交通標識も、商店の看板も、何一つ留まらずに視界から去って行く。 そして、バスが角を曲がる度、景色は一新される。


 そうしている内に、由梨花に強烈な睡魔が襲ってきた。 今日は特に感情の起伏が激しかったから、きっと心身が疲弊しているんだ。 あくびをすると、視界がぼやけ思考がぼやけ、気分がぼやけ・・・


 「——あぁ、早く家になぁ…」


 そう呟き終えたのか、途中で途切れたか。 朦朧としていた由梨花は、そのまま深い眠りへちた。 そうして、丑の刻まで四半日残し、家へ帰りついた。

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