霧宮澄御架の章 その12

 2年4組の教室では、いつものように澄御架がクラスメイトたちに囲まれていた。

 登校した俺はそれを一瞥し、自分の席についた。

 近くには閑莉の席があり、なにやら真面目に授業の予習なのか宿題なのかに取り組んでいる様子だった。


「おはよう、九十九里」


「社さん。おはようございます」


 閑莉は淡々と返事をすると、すぐにペンを動かす作業を再開した。

 俺は楽しそうに女子たちと雑談する澄御架と閑莉を見比べた。


「霧宮のところ、行かなくていいのか?」


 俺がそう言うと、閑莉はぴたりと手を止めた。

 不思議そうにこちらを見上げる。


「どういう意味ですか、社さん」


「ああ、いや……九十九里、せっかく霧宮が戻ってきたっていうのに、あんま話してる様子見ないから。もっと話しかけりゃいいのにって思って」


 すると、閑莉も言われて気づいたように澄御架の方を見た。


「べつに、構いません。今はべつの女子と談笑している最中のようですし。隣が空くのを待ちます」


「べつに順番制とかじゃないと思うが……」


 意外だった。

 転校してきてすぐ、あれほど俺に澄御架の後継者探しという目的に執念を燃やしていたのが嘘のような落ち着きぶりだった。


「結局、おまえが探していた人物は、見つかったのか?」


「いえ。ですが……もういいんです。澄御架が戻ってきたのですから」


「そう、なのか」


「はい。もう、いいんです。このままで」


 閑莉は穏やかな声で言うと、再び手元の問題集に視線を落とした。


 *


 その日の体育の授業で、俺はまた隣のクラスと合同で野球をやっていた。

 試合の前にキャッチボールがあったため、俺は前に組んだ野球部の田辺の姿を探した。

 だが、どこにも見当たらない。

 仕方なく、向こうのクラスの生徒に俺は話しかけた。


「あのさ、今日って田辺って休み?」


「田辺……? え、誰?」


「? いや、野球部の田辺だよ。知らない……か。いや、なんでもない」


 そろそろクラスメイトの顔と名前は覚えそうな時期だが、意外と薄情なやつもいるものだと思いつつ、俺は体育の教師に聞くことにした。


「すみません、野球部の田辺って、今日休みですか?」


「うん? 誰だって?」


「だから……田辺ですよ。田辺祐樹」


 フルネームを答える。合っているはずだが、なぜか体育教師は、怪訝そうに俺を見返した。


「クラスを間違えてないか? 田辺という生徒は、少なくともこの3組と4組にはいないぞ」


「え……?」


 途端、足元がぐらついたような気がした。

 なにを言われたのか、すぐに理解できない。


 田辺が3組にいない? そんなことあるはずがない。この前、一緒にキャッチボールしたのは間違いなくあいつだ。

 呆然としている俺に、体育教師も本気で困った様子を見せている。

 からかわれているわけではない。


 俺はほとんど意識がかやの外にいったまま、体育の授業を終えた。

 その後、すぐに他のクラスに行ってみるが、どのクラスにも田辺の姿は見つからなかった。


「どうしたの、神波くん。だれか探してるの?」


「あ、早乙女さん……」


 翼が慌ただしく廊下を走る俺に気づいて声をかけてきた。

 ちょうどよかった。


「悪い、ひとつ聞きたいんだけど、田辺って今どこのクラスだっけ? ちょっとあいつに用事があってさ」


「田辺……くん?」


「うん」


 翼の反応が、どこかおかしかった。

 ただ単純に俺の質問の答えがわからない、という雰囲気ではない。

 それは、あの体育教師とまったく同じ、困惑の表情だった。


「神波くん……田辺くんって、誰のこと?」


「え……だから……1年4組だった、田辺だよ。野球部の……わ、忘れたの?」


「えっと……ご、ごめん、なに言ってるかわからなくて……。

 そんな子、いなかったと思うけど……」


 翼は心底申し訳なさそうに、かつ俺を心配するように怪訝な表情を浮かべていた。

 今度こそ、視界がぐらりと揺れるような感覚がした。


 いったい、何が起こっているのだろうか。


 *


「すみません、先生。仕事中に邪魔してしまって……」


「気にするな。たかが男子生徒が横にひとりいるくらいで、私の作業効率は落ちたりはしない」


 俺は授業をサボって、科学準備室にいた。

 鑑が近くで淡々と次の授業の準備をしている。


「それにしても、随分とひどい顔をしているな。神波」


 鑑がタブレットPCで作業を続けながら言った。

 俺は答えに窮し、黙り込んでしまう。


 あの後、俺は念のため、2年の全部のクラスの出席簿を確認した。

 だが、そのどこにも田辺の名前はなかった。

 家に帰って、1年のときのあらゆる資料を漁ったが、澄御架のときと今度は逆に、そのすべてから田辺の名前が消えていた。


 間違いなく、青春虚構具現症による現象だ。

 だがいまだにその発症者が誰なのか、何が原因なのか、皆目見当がつかなかった。


「この前の話の続きか? おまえの話では、霧宮澄御架は一度死んだことになっていた、という」


「どう言えばいいのか……俺も、混乱してて。それだけじゃないんです。おかしなことが、色々あって……」


「ふむ……。私が一番気になっているのは、おまえが1人でここに来たことだが」


「え?」


「普段なら、おまえはいつも霧宮と行動を共にしていた。抜群のストライカーである霧宮と、普段はあまり冴えないがときおり鋭いアシストをする神波は、良いコンビだと思っていからな」


「……先生が、サッカーで例えるなんて珍しいですね」


「おかしいか? 今年はワールドカップもやっているからな。

 私が言いたいのは、おまえがその悩みを、なぜ真っ先にに霧宮に相談しないのか、という点だ」


 鑑の指摘は鋭かった。相変わらずその視線は手元のPCに向けられたままだ。


 もちろん、それも考えた。

 だが、田辺が消える前日に言ってた話が本当であるならば、澄御架は田辺を覚えていなかった。

 聞いて、澄御架が忘れていることを目の当たりにするのが、怖かった。

 

 寄る辺がなくなっていくような不安が押し寄せていた。

 俺は、いったい誰を当てにすればいいのだろうか。


「なるほど……どうも、これまでとは勝手がちがうようだな。

 ひとつ、これは一般論だが」


 鑑は突然、そう前置いた。


「それまでと異なる特異な状況が発生した場合は、異分子の存在について考えてみるといい」


「異分子……ですか?」


「ある一団のなかで、ひとつだけ性質がちがうものが混じっているとすれば、それが異なる状況を引き起こした因子である可能性は高い、ということだ。振り返って考えてみるもよいだろう。私から言えるとしたらその程度のことだ」


 鑑の言葉は、ゆっくりと、俺の身体と頭に浸透していった。

 なにかが、ふと鎌首をもたげた。

 

 それは輪郭をもった明確な答えではまったくない。

 ただ、そこに繋がる、ほんの小さな入口――そこから漏れた光のように感じられた。


 俺は自分でも意識しないうちに立ち上がっていた。

 科学準備室を飛び出そうとしてから、鑑に礼を言っていなかったことを思い出す。


「ありがとうございます、先生」


「ふむ。結果が判明したら報告してくれ。これでまた青春虚構具現症の研究材料が増えるからな」


 最後まで鑑はタブレットPCから顔を上げなかったが、その最後の言葉には、ほんのすこしユーモラスな響きが含まれていた。


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