早乙女翼の章 その6

 放課後の校庭で、翼はいつも通り練習をしていた。


 100メートルほどの距離に等間隔で並べられたハードルを、スパッツ姿の翼が次々と飛び越していく。スピードも落とさずあんなことができるとは、陸上競技素人の俺からすれば驚異的だった。


 以前翼が言っていたように、大会前で、今は練習も長時間はやらないらしい。

 俺は校庭で、なるべく目立たないよう翼を待った。


「どうするつもりですか、社さん」


 振り返ると、スクールバッグを持った閑莉がそこに立っていた。

 俺はぎょっとして後ずさった。


「おまえ……なんで俺がここにいるって?」


「鑑先生から、話をお聞きしました」


「……そうか」


「社さんの考えていることに、私は反対です」


 閑莉は俺の心を見透かしたように、そう言った。

 相変わらず、歯に衣着せない性格だ。それはときに頼もしいが、今は俺にとって都合が悪かった。


「おまえ、なに言ってるんだ? べつに俺がなにかするなんて、鑑先生にも言ってないぞ」


「惚けないでください。社さんは、自分を犠牲にしようとしているんではないですか?」


 閑莉の言葉には、明確な非難の響きが含まれていた。

 誤魔化すことは、早々に諦めた。


「……だとしたら、なんだよ。もともと、おまえが言った通りの方法だろ。早乙女さんと付き合えばって」


「今は事情が違います。あの時は、彼女の青春虚構具現症をもっと軽く見ていました。ですが、彼女の起こす現象が、他人の精神にまで及ぶものなのであれば話は違います。社さんの心がどこまで“奪われる”のか。最悪、今の社さんが、社さんでなくなってしまう可能性すら考えられます」


「そうかもな」


 俺はなるべく感情を出すまいと、淡々と答えた。

 いつもとは立場が逆だった。冷めた俺に対して、閑莉の声には熱がこもる。


「社さん、やめてください。自分を犠牲にするなんて、英雄のやることです。

 それこそ、霧宮澄御架のように」


「おまえに、澄御架の何がわかるんだよ」


 自分でも驚くほど冷徹な声が出た。

 はっとすると、閑莉は黙り込んでいた。まるで八つ当たりのようになってしまい、そんな自分に嫌悪感がつのる。


「……悪かった。とにかく俺は、俺にできることをする。それだけだ」


「社さん……」


 制服に着替えてスポーツバックを持った、練習終わりの翼の姿が見えた。

 行かなくてはならない。

 

 俺は閑莉にまた明日と挨拶し、翼のもとへ向かった。


 *


 以前の河川敷を、俺は翼と二人で歩いていた。

 

「今日は、ありがとね。また付き合ってもらっちゃって……買い物とかも」


「いや、全然。どうせ時間はあるから」


 俺は翼と一緒に、彼女がよく行くというスポーツショップに行った。

 翼はスパイク(競技用のシューズのことだ)のピンを買った他、俺が見ていたタオルをちょうどいいからと手にとっていた。

 その後、またカフェに行って時間を潰した。大会が終わったら、翼は行きたいケーキショップがあるという話が出たので、今度それにも付き合うことになった。


「あ、今度行くときだけど、神波くん、映画とか観たいものある? よかったら、ついでになにか一緒に観れたらいいな、って……学割もあるし」


 翼はスマホでせっせと情報を調べていた。

 だが俺は、ふとその場で足を止めた。


「……? 社くん、どうかしたの」


「早乙女さん。この前は、ほんとに悪かった。あんなことしちゃって」


 俺が深く頭を下げて言うと、翼は気まずそうに表情を強張らせた。

 そのまま静かに首を横に振る。


「お願いだから……もう気にしないで。神波くんは、なにも悪くないよ」


「でも……」


「それに……わたし、ぜんぜん嫌じゃなかったし」


 翼は消え入るような声で、そう呟いた。

 その視線は向ける先を見失い、地面へと落ちている。

 夕陽の赤みで彼女の顔色は判別できないが、翼は指先を落ち着かなく絡ませていた。


「早乙女さん……」


「あ……つ、翼……で、いいから」


 俺の腹の底で、強い衝動がこみ上げてくる。

 それは以前、この場で起きたものに、非常に近いものだった。

 だが決して、不快ではない。


 潤んだ翼の瞳が、俺を見上げる。


「あのね、神波くんが、したいことあれば……なんでも、付き合うから」


 翼に引き寄せられるように、翼に向き合った。

 気づくと、俺は彼女の手を握っていた。

 びくん、とその華奢な肩が震える。


 どこか深い深淵から沸いてくる甘美な誘惑に身を任せるように、俺は再び彼女の肩を抱き、顔を近づけ――


「…………――っ!」


 ぱしん、と乾いた音が夕暮れの河川敷に響いた。

 それは、俺が自分の頬を、自分で平手打ちした音だった。


 翼が目を丸くして、奇行に走った俺を見つめている。


「ごめんっ……やっぱり、ダメだ……こんなこと」


「神波、くん……」


「こんなこと……絶対に、普通じゃない。普通の高校生が、当たり前に過ごすはずの“日常”じゃない……! だから、ダメなんだ。たとえそれで問題が解決したとしても、それは絶対に、間違ってることなんだ」


 俺はこみ上げる衝動のまま、それを言葉にして吐き出した。


 これは澄御架が、命を懸けて守り抜いた、日常の出来事ではない。

 あいつが全身全霊を懸けて取り戻した、ごくありふれた青春の日々。

 それを無下にすることは、俺にはできない。


 翼の気持ちを否定した先に、なにが起こるのか。

 

 今の明確な拒絶は、きっと翼を傷つけただろう。

 彼女の青春虚構具現症が、次に俺の心をどう操作するか、どんな事態が引き起こされるか、その危険性を受け入れるほかない。

 その覚悟を決めた上での、決断だった。


 だが、待っていた翼の反応は、俺が予期していたどれとも違っていた。


「……そっか。やっぱり、神波くんは、神波くんだね」


「え?」


 翼の頬を涙が伝う。

 けれど、翼は穏やかに微笑んでいた。

 なぜ、拒絶した俺に対して、そんな優しい笑顔を向けてくれるのだろうか。


「わたし……わかってたよ。神波くんが、無理してわたしに付き合おうとしてくれてること。それが嬉しくて……でも嫌で……でも、やっぱり嬉しくて……。わたしから、言い出せなくて……。でも、神波くんは、言ってくれた。だから……今わたし、安心した。ちゃんと、わかったから」


「……なに、を?」


「澄御架ちゃんのことを大事にしている神波くんが、わたしは好きなんだって」


 翼の涙を拭うこともできない俺は、ただ茫然と、彼女の微笑に、本当の意味で心を奪われていた。

 それは決して、青春虚構具現症によるものではない。


「早乙女さん……俺は……」


「最初から……わかってたんだ。神波くんの心のなかで特別なのは、澄御架ちゃんなんだってこと」


 翼の口から澄御架の名前を出されたことで、俺は気が動転していた。

 この会話の流れだと、まるで俺が、澄御架に恋愛的な感情を持っているような聞こえ方だった。


 けれど俺はなぜか、違うと即答できなかった。

 特別、というのは、間違いではない気がしたからだ。


「去年の1年4組で、わたし、ずっと見てた。ヒーローみたいな澄御架ちゃんと、そんな凄い女の子と一緒になって、クラスの問題を解決しようと、必死に頑張ってる男の子のこと。

 すごく一生懸命なその人のことが……気づいたら、好きになってました」


 どれだけ俺が鈍い朴念仁であったとしても、彼女が言う男子が、自分のことであることは理解できた。


 だが、彼女が打ち明けてくれたその想いに対して、俺は応えることができない。

 してはいけないと思った。


 それは、きっと翼も望んでいない。


「わたしに今起きていることは、わたしが自分でなんとかしてみせるよ」


「でも、そんなこと、できるかどうか……」


「できないなんて、言わせないから。わたしの神波くんへの気持ちが、これを引き起こしるなら……それはわたしの問題だから。

 それに……澄御架ちゃんや、神波くんが頑張ったように、今度はわたしが頑張る番だもん。そうでしょ?」


 翼は自分で涙をぬぐうと、力強く笑ってみせた。

 地面に落としていたスポーツバックを担ぎ直す。


「神波くん、今度の記録会……よかったら、見に来てくれないかな?」


「え……?」


「神波くんが見てくれてる前で、ちゃんと走れたら、これからも頑張っていける気がするから」


 翼はそう言って、俺に手を差し出した。

 俺は戸惑いながらも、彼女が示した強い意志に対し、敬意をもって頷いた。

 そしてゆっくりと、彼女と握手を交わした。


 今度こそ間違いなく――俺たち、自分たち自身意思で。


  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る