早乙女翼の章 その5

「社さん、昨日のデートはいかがでしたか?」


 翌日の学校で、閑莉は第一声から聞いてきた。

 不意を突かれて俺は動揺する。


「お、おまえな……なんで知ってるんだよ。いや、デートじゃないぞ」


「安心してください。尾行はしていません。私もそれほど暇ではありませんし、社さんの許可なくそこまでするのはプライバシーの侵害かと思いますので」


 たいして安心もできなかった俺は沈黙し、ちらりと翼の席を一瞥した。

 彼女は今日、体調不良で休んでいる。


 昨日の一件が、生々しく脳裏に刻まれていた。

 

 自分がしたことを、悪夢のように振り返る。

 俺は翼の肩を抱いて、彼女に――キスをしようとしたのだ。

 自分がなぜあんな行為をしようとしたのか、いまだに自分でも理解できない。今日朝目覚めたとき、どれほど現実を直視したくなかったことか。


 改めて冷静に、己の胸に問う。

 翼に対して、恋愛的な意味で好意を持ったのだろうか?


 自分がそれなりに健全な思春期の男子高校生であるという自覚はある。だが、そこまで俺は、自分の衝動や欲求を制御できない精神性だったのだろうか。そう考えると、死にたい気分だった。


「浮かない顔ですね。もしかして、あまり上手くいかなかったのですか? なにか、彼女に嫌われるようなことでも?」


 閑莉の言葉が胸に突き刺さり、それが顔にも出た。

 閑莉が不思議そうに小首をかしげる。


「社さん? どうかしたんですか?」


「なんでもない……」


 俺は席を立ち、閑莉の質問から逃げるように教室を後にした。


 *


 鑑知崎の白衣姿は、いつもと同じように科学準備室にあった。

 

 やって来た俺を鑑は一瞥すると、すぐに手元のタブレットPCに視線を落とした。机の上には、他にもなにやら見慣れない機器が並んでいる。


「今日はまた、一段とひどい顔をしているな。神波」


 鑑は俺の顔を二度は見ることなく、そう評した。

 眼鏡の奥の理知的な双眸は、いつもにまして、世の中のすべての真実を見抜いているようにも感じられた。


「もっとも、おまえたちが苦労するということは、私にとっては興味深い事象であることを示しているわけだがな」


「はは……それはまた、よかったですね」


 俺はユーモラスな返しをする余裕もなく、弱々しい笑みをつくる。

 すると、鑑がすたすたと歩みに寄ってくる。


 鑑はすっと両手を伸ばし、手のひらで俺の頬をぱしっと挟み込んだ。


「せ、先生!?」


「忘れたのか? 去年、言ったはずだぞ。子供が大人に遠慮することはない、と。おまえはなにか助けを求めてここに来た。そうだろう? ならば、それを話すといい」


 鑑の手はひんやりとして冷たかったが、なぜか妙に落ち着く気がした。

 沈み込んでいた気持ちがわずかに軽くなる。


「……ありがとうございます。実は――」


 俺は鑑に、早乙女翼が発症した新たな青春虚構具現症と、その現象に俺自身が巻き込まれていること。

 そして昨日起きた、奇妙な出来事についても、正直に告白した。


 鑑はさきほどの言葉通り、終始興味深そうに話を聞いて頷いていた。


「なるほど。先に言っておくが、色恋沙汰うんぬんについては、私の完全専門外だ。せめて個人的に経験豊富であれば何か安直なアドバイスでもしてやれたのだが」


「いえ、それはべつに……」


 ストレートな解答に反応に困った。そういえば、鑑は何歳なのだろうか?

 見たところ指輪はしていないし、結婚はしているような話はこれまでにも聞いたことがなかったが。

 

 ぼんやりそんなことを考えていると、鑑はそれを見透かしたように、


「ちなみに言っておくが、私はラノベでよくいるような、行き遅れや年増を気にするような女教師ではないからな。結婚にも恋愛にも興味はない」


「そ、そうですか……」


「だから、私が言えることは、おまえたちの間にあるかもしれない健全な恋愛感情の話ではなく、あくまで青春虚構具現症についてのひとつの推論だ」


 鑑は前置きしてから、言った。


「神波。おまえは早乙女に、“心を奪われた”のではないか?」


「……え?」


 一瞬、俺は何を言われたのかわからなかった。

 そのままの意味であれば、翼に対して恋に落ちたのではないか、という問いだが、鑑の言葉のニュアンスはそれとは違っていた。


「早乙女の青春虚構具現症は、おまえの持っている物を奪う、といったな。だが先日の北沢古海の件と同様、青春虚構具現症によって引き起こされる現象は固定ではなく、その特性は変化し、進化する。

 奪う対象が、物から、したところで、おかしい道理ではない」


「ま、まさか……」

 

 信じられなかった。

 鑑の言っていることが、もし仮に本当なのであれば、俺は知らない間に、翼に、ということになる。


 全身に寒気が走り、勝手に震えそうになる自分の手を握って抑えた。


「神波、よく聞くんだ。警戒しろ」


「え……」


「これまでにも、私はお前と澄御架から、様々な青春虚構具現症の話は聞いてきた。だがこれはそれらと比べても、引きを取らない危険性を秘めている。仮に早乙女の能力が、おまえ以外の生徒に対しても拡大したら? 早乙女は、他人の心を意のままに操ることができるようになるかもしれない。それがどれほどのことか、おまえには想像できるだろう?」


 他人の心を操作する力。

 もし仮に、それが翼の能力の本質なのだとしたら、絶対に放置してはならない。


「俺は……どうすればいいんでしょう」


「……難しい、と言わざるを得ないな。話を聞く限り、早乙女が神波に対して、特別な好意を抱ていることは間違いないだろう。だが、この事実を知ったおまえが、翼から距離をとれば、彼女の“奪う”力は、より強力になって暴走する可能性もある」


 それは恐ろしいイメージだった。

 もちろん、翼がそんなことを意図してやる人間だとはまったく思っていない。

 だが、青春虚構具現症は、本人の意思の力でだけどうにかなる代物ではない。


「とはいえ……お前が心を操作される危険性を無視して、彼女の好意に応えてやれ、とは私から言うことはできない。……それでも、最終的にどうするかは、お前次第だ」


「どういう意味ですか……?」


「青春虚構具現症は、その者が持つ根源的な願望が源になっている。そして早乙女の願いが、お前との恋愛関係の成就であるならば、それを満たしてやることで、起きている現象そのものが収束する可能性はある、ということだ」


 それは奇しくも、閑莉が最初に口にした馬鹿げた提案と、まったく同じものだった。


「お前には、彼女の想いに応えるという選択肢がある。

 もし、おまえに偽りではない、その気持ちあるのならば、な」

 

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