霧宮澄御架の章 その13

 放課後、学校の屋上で俺は人を待っていた。

 グラウンドで活動する運動部の姿や、校門から帰っていく生徒たちの姿を見下ろしながら、深いため息をつく。


 すでに今の時点から気が重い。正直、こんな選択肢は絶対にとりたくなかった。

 けれど、背に腹は代えられない。


 鑑からヒントをもらった、朧げな糸口。

 それを確かめるには、俺の力だけでは足りない。

 今までで、どれほど澄御架のことを当てにしていたか、今更ながらに思い知る。

 

 他に大きな力を借りられる相手は、今の俺には、あいつしか思い浮かばなかったのだ。


「私を呼びつけるなんて、随分偉くなったわねぇ」


 俺は入口のほうを振り返る。

 王園令蘭が、夕暮れの屋上へと姿を現していた。


 俺は今、苦虫を嚙み潰したような顔をしていることだろう。

 それがわかったのか、令蘭の口元には嗜虐的な笑みが浮かんでいた。


「いよいよ本当に私に愛の告白をする気になったの? 一生私に従うっていうのなら、考えてあげなくもないけど」


「お前に、頼み事があるんだ」


 俺は令蘭の戯言を無視し、端的に切り出した。

 だがそれが令蘭には気に入らなかったらしい。


「誰に向かってものを言ってるつもり? こうして足を運んでやっただけ光栄に思いなさいよ」


「……ありがとう。感謝してる。これでいいか?」


 俺は感情を押し殺して礼を言った。

 ふん、と令蘭がつまらなそうに鼻を鳴らす。


「で、霧宮澄御架の犬が、この私になんの用かしら?

 まさかどこかであの女が隠れていて、私を貶める気じゃないでしょうね?」


 令蘭はそう言って、周囲を見渡した。

 この反応――令蘭も他の生徒と同様に、澄御架が一度死んだことになっていたことを覚えてはいない。


 それでも、使える道は残されていると信じたかった。


「俺のクラスの、ある生徒のことを、調べてほしい。王園の家の力を使って」


 令蘭の表情から笑みが消える。

 俺は構わず、以来の詳細を令蘭に説明した。


「――内容は、それだけだ。ただ、これは法に触れる可能性がある。常識的に考えたらできないような依頼内容かもしれない。けど、おまえのコネと財力なら、調べられるんじゃないかって思った。 

 だから、頼みたい。急いで調べないといけないことなんだ」


 令蘭はじっと俺を観察していた。

 値踏みするように。あるいは言葉の裏に何かあると疑っているのかもしれない。


 だが俺には令蘭を騙すような理由も性格も持ち合わせていない。


「なるほど、あんたにしては、わりと愉快な話ね。

 でも、なぜそれを、私が聞いてあげる必要があるのかしら?」


「この前、おまえが言ってただろ。

 今こそ、借りを返して欲しいんだ」


 それだけが、俺に切れる唯一のカード。

 なんの特技も力もない一般人の俺が、今起こっている異常な事態に対抗するための、唯一の活路だった。


 悪いな、澄御架。勝手に使わせてもらうぞ。

 俺は内心で謝りながら、令蘭の返答を待った。


 令蘭は頬を歪ませた。

 美人だけに、怒りの表情の迫力は十分だ。

 

「足りないわ」


「……なんだって?」


「私が借りを返しても、十分おつりが来るべきと言っているの。それとも、今度は私に大きな借りをつくりたいのかしら?」


「おまえ……」


 俺は歯噛みして令蘭を睨んだ。

 どこまで、人の弱みに付けこもうとするのか。

 これが普段、周囲には人格者として通るほどの猫を被っているのだから、馬鹿馬鹿しくなる。


 最悪の相手に借りをつくるなど考えられない。

 だが、他に方法も思いつかない。


「頼む……! おまえの力を貸してくれ」


 今できることを、と俺は深く頭を下げた。

 俺のプライド程度で突破口が開けるのであれば、安いものだ。


 しばらく黙り込んでいた令蘭が、ようやく口を開いた。


「わかった。ひとつ条件があるわ」


「なんだよ?」


「私の手に、口づけしなさい」


 俺はいま、よほど間抜けな顔をしていることだろう。

 思わず口を開けたまま固まってしまった。


「……………………は?」


「聞こえなかったの? ほら」


 令蘭はさも当然といった態度で、手の甲を差し出す。


「お、おまえ……正気か?」


「ええ」


 さも当然といった様子で令蘭は頷いた。

 

 まったく理解できない。いったい、何を考えているのか。

 いくら周りに人はおらず見られるような危険もないとはいえ、なぜ俺がそんなことをしなくてはならないのか。


「寛容な私は、これでチャラにしてあげると言っているのよ。

 それとも、私の前にひざまづくなんて、神波のプライドが許さない?」


 令蘭は実に楽しそうに目を細め、頬を緩めている。

 ほんのりと頬が上気しているようにも見えた。


 やはり、まともじゃない。

 今さらながらそのことを痛感しながらも、俺は、それをすぐに跳ねのけることができなかった。


 頭を下げるのも、これも変わりはしない。

 今の俺に必要なのは、行動することだ。


「…………わかった」


 ゆっくりと令蘭に近づき、葛藤を押さえつけて、目の前でひざまづく。

 令蘭が手を俺の前に寄せる。


 苦労など微塵もしたこともないであろう、色白で綺麗な指だった。

 それを俺は手にとる。


 だがそこで、激しくためらいが生じた。

 ただそれは屈辱やプライドの話ではなく、単なる恥ずかしさだった。

 冷静に考えると、女子の指に口をつけるというのは、いくら相手が憎たらしい悪女だとしても抵抗はある。むしろ、令蘭自身は抵抗がないのだろうか。


「どうしたの? やりなさいよ」


 俺がプライドと恥ずかしさと目的の間でがんじがらめになり、まさにフリーズしているときだった。


「社さん、ここにいたのですか」


 屋上に、閑莉が姿を現した。

 俺は気が動転し、令蘭の前から弾かれたように飛びのく。


 古海が落ちてきたときは、閑莉は不純な行為をしていたと理不尽な疑いをかけてきたが、今度はあやうくそれが真実になってしまうところだった。


 閑莉は俺の近くにいた令蘭を見る。


「あなたは……」


「あ、ああ、こいつは……王園令蘭。俺の前のクラスメイト……なんだ」


「そうですか。初めまして、2年4組の九十九里閑莉です」


 その瞬間、令蘭がすっと目を細めた。


「そう……

 

 令蘭の呟きに、閑莉が首をかしげる。


「私はこれで失礼するわ。もう用も済んだから」


「お、おい」


「なにか?」


 あまりに完璧すぎる笑みを向けられ、俺は言葉が出ない。

 

「それじゃあね、神波くん。九十九里さん。また今度、ゆっくり話しましょう」


 令蘭はいつもの外面の行儀のよさを発揮し、その場から去っていった。

 



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