早乙女翼の章 その3
当然のことながら、閑莉の素っ頓狂な提案は断った。
とはいえ、なにか別の解決策を思い付いたわけではない。
局所虚構具現症との対峙は、いつだって手探りだ。
ただ今回は、俺自身がこれまでにない立ち位置で関わってしまっている、という可能性がゼロではなかった。もちろん、本当に翼が俺に好意を持っていて、それが青春虚構具現症の原因であるならば、だが。
教室に入ると、自然と彼女に視線が向かった。
しゃきっと伸びた背筋。日焼けしたうなじに短めの後ろ髪がかかっている。
「あ……」
翼も俺の存在に気づく。今までなら挨拶をするほど仲でもなかったのだが、妙に意識してしまう自分がいた。
「お、おはよう……」
「あ、うん。おはよう……神波くん」
小声で挨拶しながら後ろを通り、席につく。
こんなぎこちない関係になってしまったのは誰のせいだと八つ当たりにしたくなるが、べつに閑莉に非はない。
ふと視線を感じると、その閑莉がこちらを無言で観察していた。
そしてなぜか手元で、俺に向かって親指を付き立てる。
(なんのサインなんだよ……)
閑莉の人形的な無表情が、いつもに増して憎らしかった。
*
「あの……神波くん」
休み時間、翼が話しかけてきた。
反射的にびくりと反応してしまう。緊張してどもり気味になってしまう。
「な、なに?」
「あの……これ……」
彼女がおずおずと差し出したのは、スマホなどで使えるワイヤレスイヤホンだった。そしてそれは、俺が普段使っている物と同じ製品だった。
「それが、なに? 早乙女さんの?」
「だからこれ……神波くんの」
「え?」
遅れて俺は、ようやく気づいた。
慌てて自分のカバンを探ると、いつも仕舞っている場所からイヤホンがいつの間にか消えていた。
戦慄する。まったく気がつかなかった。
これが翼の青春虚構具現症。実害として大きくないとはいえ、改めて起きている異常現象を目の当たりにすると悪寒に近いものが沸いてくる。
「ごめんなさい……」
「い、いやいいって。ありがとう」
礼を言うのもおかしいが、反射的に言って受け取ってしまう。
原因がわかっていれば、こうしてすぐに返してもらえるのだから、それほど困ることはないだろう。
――と、そのとき俺が思っていたことが単なる楽観に過ぎなかったと、段々とわかることになる。
*
体育の授業中、俺はジャージ姿で野球グローブをはめながら、2人1組になってキャッチボールをしていた。
体育は隣のクラスと合同でやるため、ちょうど前のクラスで一緒だった野球部の男子とペアを組んだ。
普段は触ることのないずしりとした硬球を、肩を使って投げる。
たいして飛距離も速度もないボールは山なりを描いて、相手のグローブにすぽりと収まった。向こうがしっかりと勢いのあるボールを投げ返してくる。
「オーライ」
頭を越しそうな球を仰ぎながら、俺は後ろに下がりながらグローブを構えた。
次の瞬間、突然左手が軽くなった。
「っ……!」
指先を硬球がかすめる。小さな痛みが走った。
相手が驚いて駆け寄ってくる。
「おいおい、大丈夫か? あれ……ってか、神波、グローブどこやったんだ?」
「え……」
俺の左手から、忽然とグローブが消えていた。
授業が終わった後、ジャージから制服に着替えて教室に戻る途中で、翼に声をかけられた。
「か、神波くん……これ」
彼女は、なぜか汚れた野球グローブを持っていた。
それは見間違いでなければ、俺の手からつい先ほど消えるまで装着されていた物だ。
「もしかして……これも早乙女さんが……?」
「ごめん、なさい……」
翼はただひたすら申し訳なさそうに頭を下げた。
どうやら彼女が無自覚で奪ってしまう物は、俺の私物には限らないらしい。
それを裏付けるように、日々、彼女の青春虚構具現症は発動した。
ある日は、授業中に見ている教科書が突然なくなった。
またある日は、サイフからよく行くショップのポインドカードだけが綺麗になくなった。
さらには昼休み、学食で食べているうどんから具材だけが綺麗になくなったこともあった。もっともこれについては、彼女の方でも大変だったと思われる。
そんな現象が続き、翼は謝りに来るたび、どんどん委縮していった。
いくら悪意がないとはいえ、罪悪感に苛まれているのは傍目にもわかった。
そんな状態が、数日続いた日のことだった。
「……神波、くん。今日って……この後、時間ある?」
放課後、リュックに荷物を仕舞っていると、翼が話しかけてきた。
「あ、ああ……うん。俺は大丈夫だけど、早乙女さん部活なんじゃ?」
「今日は休養日。もうすぐ大会も近いし、昨日まで追い込みしてたから」
「そうなんだ」
「あ、あのね……その……せめてものお詫びに、お、お茶でも奢らせて欲しいなって、思って……」
「え? いや、いいってそんなの。べつに、気にしてないから」
「そ、そんなのダメ! あんなに迷惑かけてるのに……お願い、せめてなにかしないと、わたし申し訳なさすぎて……」
翼は手元で小さく拝み手をつくった。
俺は気まずかったが、たしかにそれで彼女の罪悪感を少しでも軽減させられるのなら、それも悪くないかもしれない、と思った。
「わかった。んじゃあ……適当に、カフェとか行く?」
「う、うん……ありがとう」
そう言って、翼は少しだけ安堵したように笑った。
そんな風に翼の笑顔を見たのは、だいぶ久しぶりな気がした。
胸の中が躍るような、不思議な感覚を俺は感じはじめていた。
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