霧宮澄御架の章 その10
澄御架が服を汚したこともあり、俺たちはそのまま帰路についた。
家の最寄り駅へと戻ってきたときには、あたりはすっかり暗くなっていた。
「ねえねぇ、社。ちょっと学校寄ってかない?」
ふと、澄御架がそんなことを言い出した。
俺はスマホを取り出して時計を見て、眉をひそめる。
「いや、もうこの時間は閉まってるだろ」
「じゃあ忍び込こもう」
「はぁ? いや、おまえな……」
「だいじょーぶ。バレないようにするから」
澄御架はすでにその気満々だった。こうなると、こいつを止める術はない。
俺たちは学校の閉じられた正門からぐるりと迂回し、埋め込みの奥にあるフェンスをよじ登った。
まったく、高二にもなってこんなやんちゃな小学生のようなことする羽目になるとは、入学前は想像もしなかった。
「あ、そっち通ると警報装置鳴るから気をつけて。こっちセンサー切れ目あるから」
「学校からなにか盗まれたら、俺はおまえを密告することにするよ」
澄御架は迷いなく夜の学校の敷地内を進む。
到着した先は、プールだった。
水面は月の光を反射し、わずかにゆらゆらと揺れている。
それを見て澄御架は感嘆の声を上げた。
「夜のプールって、一度来てみたかったんだ」
はしゃいだ澄御架がプールサイドを大股で歩く。
まだ五月だというのに、水が張ってあるのは意外だった。そういえば、日光による劣化の予防とか、災害時用の貯水とかそういった理由でオフシーズンでも水は抜かないという話を聞いたことがある。
澄御架はスタート台の上に腰を下ろすと、おもむろに靴と靴下を脱いだ。
「おい、なにしてる」
「いーでしょ。誰も見てないんだし」
「そういう問題か」
澄御架は生足をぶらりとプールに垂らし、つま先の先端をわずかに水面に付けた。
「ほら、社もやろう?」
「遠慮しとく」
「もー、ノリ悪いなぁ」
澄御架はくすくすと笑うと、無邪気な子供のように微笑んだ。
水面には外灯の明かりが、轍のように伸びて映りこんでいる。
自分たち以外、誰もいない夜のプールで、ひとりの少女がすらりとした素足を伸ばし、波紋と戯れている。
それは、一枚の絵画のようなどこか幻想的な光景だった。
俺は澄御架の傍に腰を下ろし、そのまま大の字になってプールサイドに横たわった。
「あはっ、社も行儀悪いなぁ」
「誰も見てないからいいだろ」
まるで、時が止まったような静けさだった。
夜空には点々と砂粒のような輝きが張りついている。
それを無心で目で追っていると、ふいに澄御架が口を開いた。
「ねぇ、社。そういえば前にも学校の屋上からこうやって星空を眺めたときあったよね」
「あー……? ああ、文化祭の前日に遅くまで残ってたときか」
「そうそう。お化け屋敷の準備、めっちゃ大変だったもんねぇ」
「ほんとに大変だったのは、翌日だけどな。おまえはなぜか2組のメイド喫茶手伝ってるし、王園には絡まれるし」
「ははっ、まさか当日まで青春虚構具現症で事件が起きるなんて思わなかったもんねぇ」
「思い出したくもない……」
俺は心底辟易して目をつむった。
まぶたの裏には1年のときの記憶がパノラマのように映し出される。
こうして今、あの1年4組というクラスが崩壊せず、無事に進級できていることが、奇跡のように感じられた。
「ねぇ、社」
「なんだ」
「社は、きっと大丈夫だよ」
澄御架は不思議なことを口にした。
俺は理解できず身体を起こす。
「なにが、大丈夫だって?」
「社は、きっとわかってくれる。気づいてくれる。そう思ってるから、大丈夫。
これから何が起きても、社なら、乗り越えていけるから」
「意味がわからん」
「ふふっ、そうだね」
澄御架は謎めいた表情で笑った。
いつだって、こいつはそんな風にして、俺にはわからないことを見通している。
一般人の俺がそれを理解するのは、いつだって二歩も三歩も遅れてのことだった。
きっと今度もそうなのだろう。
それでも、俺は英雄のそばを離れなかった。
決して手の届くことのない羨望を胸に抱きながら。
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