霧宮澄御架の章 その11

 澄御架の帰還から、さらに一週間の時間が過ぎた。

 

 結局、あれから社たちのように澄御架がいなかった時期のことを、覚えている生徒には出会うことはなかった。

 だが、逆に言えばそれ以上の異変は起きていない。

 傍から見れば、平穏そのものの学校生活がそこにあった。


「澄御架ちゃん、ここの問いがどうしてもわからなくて……」


「霧宮、頼む!今日昼休み2組の連中とフットボールやんだけど助っ人入ってくれね? おまえがいたら絶対勝てるからさ」


「霧宮さん、我がクイズ研究部に興味はないですか? ぜひうちのエースに!」


「はいはいはい~! お任せあれってね」


 澄御架は相変わらず人気者だ。

 冗談のように多忙であるのは間違いないはずだが、澄御架の顔にはなぜかいつも余裕がある。きっと忙しさよりも楽しさの方に意識が自然と行くのだろう。


 凡人の俺はといえば、そんな澄御架を、ただのクラスメイトその1として、ぼうっと眺めていた。


 何事もないのであれば、それでいい。

 この時間が、どれだけ貴重で、失ってはいけないものなのか、今の俺は嫌というほど理解しているのだから。


「神波、ちょっといいか?」


 頭上からかけられた声に顔を上げると、ひとりの男子が立っていた。

 坊主頭で野球部に所属している田辺だ。


「田辺、どうした?」


 2年になってクラスが分かれたので、こうして教室で話すのは久しぶりだった。


「話があるんだ。ただ……ここだと話しにくいから、屋上いこうぜ」


「? ああ、まあいいけど」


 田辺は、妙に人目を気にしているような態度だった。

 教室を出るとき、クラスメイトたちに囲まれている澄御架のことをちらりと一瞥した。


 田辺に付いて歩き、屋上に出る。

 他に生徒がいないことを確認すると、田辺は小さく安堵のため息をついた。


「なんだよ、話って」


 よく見ると、田辺の顔色は悪かった。

 額にはうっすらと汗が浮かんでいる。


「神波、おまえさ……前から霧宮と仲いいだろ」


「べ、べつに特別なにかあるわけないぞ」


「そういう話をしてんじゃない。とにかく、おまえから見て、霧宮って、今まで通りか?」


「今まで通り? それ……どういう意味だよ」


 俺が困惑の顔にあらわすと、田辺は気分が悪そうに顔をしかめながら続けた。


「その……霧宮とは、去年同じクラスだっただろ。2年になって俺はクラス分かれたけど」


「……ちなみに、一応聞くけど、霧宮がしばらくいなかったことは……」


「いなかった? なんの話だよ」


 俺は内心嘆息した。念のため確認したが、やはり田辺も霧宮が“帰ってきた”という認識はないようだ。


「それより、どうなんだ? 最近の霧宮は。同じクラスだろ」


「まあ……変わってはいないよ。おまえもさっき見ただろ。あいつはいつも通り、クラスの中心にいるよ」


 俺が淡々と言うと、田辺は唇をかみしめた。

 いよいよ、何があったのか気になってしまった。


「なにか、あったのか?」


「……昨日、廊下ですれちがって、ひさしぶりに霧宮と話したんだよ。部活のこととか、話題はべつにたいしたもんじゃない」


「ああ。それで?」


「あいつさ……俺が野球部だってことは知ってたのに、俺のんだよ」


 一瞬、俺は田辺が何を言っているのかわからなかった。

 

「いや、そんなわけないだろ。あいつ、ときどき意味のわからんボケするからな。それだけだろ」


「ちがう! あれはそんなんじゃない……! ほんとに、あいつ、わからないみたいで……。俺が名前を言っても、ぴんと来てないみたいで……」


 田辺の顔はすっかり青ざめていた。

 だが、俺はいまだに理解できない。というより、それはありえない。

 

 常人の数倍は記憶力に優れた澄御架が、そう簡単に人の名前を忘れることなどありえない。

 まして、去年1年間、苦楽を共にしたクラスメイトの名前を。


「マジ、なのか」


「ああ……なんかすげえ気持ち悪くなっちまって、でも、誰に話せばいいかわかんなくて……」


 そこまで言うと、田辺は少し落ち着いたらしく、弱々しく笑みを作った。


「悪かったな、急にこんな変な話して。まあ、べつになんでもなくて、俺がちょっと大げさになってるだけかもな」


「そう……かもな」


「つーわけで、話はそれだけだ。じゃ、もう行くわ。ありがとな」


 田辺はそう言うと白い歯を見せて、屋上から校舎へと戻っていった。

 残された俺は、しばらくの間、田辺が言ったことの意味について考え続けていた。


 *


「あれ、社どこいってたの?」


 教室に戻ると、澄御架が俺の椅子に座っていた。

 どいてくれと手で促す。座席に残った生暖かさが落ち着かなかった。


 澄御架は隣の席の女子と、スマホで動画を見ていた。そこには愛くるしい子犬の映像が流れている。


「なに見てんだ?」


「【柴犬まるすけ日記】! いま大人気の動物チャンネル」


「へえ……うわ、再生数エグいな。これは広告費相当稼いでるだろうな」


「社……そういう感想しか出てこないと、女の子にモテないよ?」


「はいはい、悪かったな」


 俺は愛らしい柴犬からは早々に興味を失くしたが、代わり一つ、思い出したことを口にした。


「そういえば前、俺とおまえでこういう小さい犬探しまわったことあったよな?」


「あああったねぇー。いやーあのときは大変だったよね。まさか、探してる途中で社の方が迷子になっちゃうなんて参っちゃったもん」


「おまえが途中でチョコで有名な洋菓子店を見つけて失踪したからだろ……」


 名誉のために一応ツッコんでおくが、澄御架の行動に付き合う上で、過去の理不尽さを追求していたらキリがないのはわかっていた。

 

 それに、俺はそんなことがどうでもなくなるくらい、ショックを受けていた。

 なぜ澄御架が否定しなかったのか、わからない。


 俺と澄御架が探したのは、犬ではなく――猫だ。


 俺はその誤りを、その場で指摘することができなかった。

 ただド忘れしているだけ。ちょっとした勘違い。

 普通ならそれで済む話だが、澄御架のことを知っているからこそ、それがということがわかってしまった。


 なぜ、澄御架は間違えたのか。

 なにかが狂っている。


 それが何なのかわからず、その全ぼうの大きさすら、俺にはまだ見えていないような気がした。

 

 

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