早乙女翼の章 その7
土曜日の昼間、俺と閑莉は都内の陸上競技場を訪れていた。
会場には、うちの学校の陸上部以外にも他校の選手や関係者など、大勢が集まっている。
短距離走や、幅跳び、棒高跳びや砲丸投げなど、様々な競技が同時に行われている。その様子を、俺と閑莉は観客席から眺めていた。
「それで、最近はどうなのですか?」
閑莉はちょこんとベンチに座りながら、律儀に双眼鏡を覗き込んでいる。
こいつが何に興味を持って、何に興味を持たないのか、いまいちよくわからなかった。
「べつに、何もない。平穏無事に、退屈な毎日を過ごしてるだけだ」
あれから、俺の物が突然なくなるという現象は起こらなくなっていた。
翼とは、ときおり教室でクラスメイトとして会話する程度だ。
もちろん、気まずいに決まっている。だがそれを翼は一切態度には現わさなかった。
俺は二重の意味で、彼女に救われていた。
「青春虚構具現症とは、不思議なものですね。それが本当なのであれば、彼女は自分自身の意思で、それを止めてみせた、ということになります」
「ああ、そういうことだ」
「私たちは、いったい何と戦っているのか、と考えるときがあります。
都市伝説なのか、怪奇現象なのか……はたまたなにか、べつのものなのか」
閑莉の疑問はまったく当然のものだった。
俺だって、もし今初めてこの現象に直面していたら、もっと取り乱していたにちがいない。なんとかこうして冷静に現実を受け入れられてはいるつもりだが、結局のところ、青春虚構具現症について、はっきりとした正体や原理はまったく掴めていない。
「自分たちと、戦ってるんじゃないか」
ふと、自分の口から自然とそんな言葉がこぼれた。
古海のときも、翼のときも、その根底にあるのは、個人的な強い感情だ。
能力の性質や、それが収束した経緯はまったく違うとしても、常にその中心になって影響を与えているのは、個人の感情であることに変わりはない。
だとしたら、もしかしたら、青春虚構具現症は幻のようなものなのもしれない。
集団幻覚なのか集団催眠なのかは知らないが、実はそこで起きていることそのものが問題なのではなく、むしろ問題は、俺たち自身にあるのではないだろうか。
「……ふむ。社さんにしては、冴えた評価ですね」
「そりゃどうも」
「ですが、油断はしない方がよいかと。今回の翼さんの気持ちが、また再燃しないとは限りません。人間はそれほど理性的な動物ではありませんから。特に10代のうちは」
「おまえだって10代だろうが……」
俺が呆れていると、競技トラックに、見知った姿が見えた。
翼はいつもとはちがい、ぴったりと身体に張り付いたユニフォーム姿だった。
その身軽な見た目からしてすでに速そうだ。
他の選手と並んで、スタートラインの手前で身体を揺らしている。
審判の声とともに、選手たちが位置につきはじめる。
彼女たちの視線の向こうには、校庭で見たときのようなハードルが全レーンに並べられていた。
翼は無事、あれだけの障害をすべて越えて、走りきれるのだろうか。
「今回に関しては、大丈夫な気がする」
「その根拠は?」
俺は沈黙して、翼の姿に注目していた。
緊張した、しかし凛々しい表情で、まっすぐとゴールを見つめている。
「俺は、たぶん、思い上がってた」
閑莉への返答の代わりに、俺は言った。
「北沢の件があって、青春虚構具現症に対して、なにかできるんじゃないかって。
俺が事態を解決させることができるんじゃないかって、どっかでそう思い込んでたんだ。
でも、ちがった。一番の解決策は、俺じゃなかった。
早乙女さん自身が乗り越えることができるかどうかだったんだ。そんな簡単なこともに、俺は気づくことができなかった」
「社さんは、十分お役には立ったかと」
「だとしても、解決したのは俺じゃない。
……やっぱり、澄御架のようにはいかないな」
自嘲するよう言って俺は笑った。
こういうときこそ、閑莉にはよくわからない冗談を言って欲しいところだったが、いつもの通り、にこりともしなかった。
「当然です。澄御架の代わりなど、どこにもいません」
閑莉がそう言ったとき、選手たちが一斉にスタート位置についた。
一瞬、競技場が静まり返る。
直後、甲高いピストルの音が鳴り響いた。
賑やかな声援の声とともに、翼が風のようにレーンを駆け抜ける。
翼は、他のどの選手よりも鮮やかに、すべてのハードルを飛び越えてみせた。
俺は固唾飲んでその軌跡を見つめる。
翼は一着でゴールを切った。
思わず手元でガッツポーズをとる。
走り抜けた翼は、ゴール付近にあるデジタル時計のような電光掲示板を振り返った。
そこに表示された記録を見て、飛ぶように喜んでいる。
同じ部活の仲間たちも、一緒になってそれを称えていた。
大丈夫だと思う。
彼女なら。そう俺は確信していた。
歓声が晴れ切った青空に吸い込まれていく。それを俺はぼんやりと見上げた。
――なぁ、澄御架。
おまえがいなくなっても、俺たちはなんとか頑張ってるぞ。
だから……少しくらい安心してもいいよな。
俺は心のなかで、いまこの場にはいない英雄の少女へと報告した。
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