どん詰まり

――Kai――

 取調室で、病院で出会ったあの老刑事がため息をついた。その手元には、証言を記録するためのメモ帳が一冊開いている。取調室で公的な聴取を行う場合は、何かしらの記録が義務付けられているそうだが、どうせカメラを回すので、彼の行為は完全に無駄だった。本人曰く、癖だそうだ。


「お前が、そんなことをするなんてな。まぁ、スーパーヒーローってのは、世間サマが持ち上げ過ぎだってこった」


 机を挟んだ所にカイは座っていた。手錠が掛けられた両方の手首と、文字通り前後が逆になってしまった左手首を気にしていた。それと、刑事の背後にあるマジックミラーに映る自分と同じ動きをするジェイクも、気になっていた。


 まだあれが、自分の身体なのだという自認が生まれず、何かに写る自分を見付けてはビックリしてしまっていた。


「でも、なりゆき……と言いますか。あの……」


「あのな、若ぇの。良い歳してオドオドするんじゃねぇ」


「はぁ……」


 取り調べの中で、この事件が起こった原因のもっとも重要なところは言っていなかった。ジェイクという男の中身が、見かけよりは若いとは。


「それで……道路交通法だの航空法だのの存在も知らず空を飛び、それだけならバカやってるなで済んだってのに、どうしたって事件が起こっちまったんだよ」


「……黙秘、します。すみません」


「黙秘権を行使するってのに謝る奴があるか」


「すみません」


 彼は眉間をつまんで俯き、薄暗い中でメモを取ってから、改めてカイへ向いた。


「……まだ信じられんな。四十七部隊隊長のオークラーを……任務でもないのに、病院で一緒にいたんだろ? それをお前、背中から撃ったのか」


「…………」


「黙秘だな。分かってる」


 はい。撃ちました。そう言う前に刑事が勝手にメモを取り、話を進めてしまった。


「それと、あのレインって子どもだが……」


 カイの表情が変わったのを見て、刑事は小さく頷き、「黙秘だな」とだけ返した。


「あの、すみません。ずっと黙っていることしか、できなくて」


「俺の勘は間違いないから言うが、お前ほど犯罪者に向かねえ奴もいねぇよ」


「あ、ありがとうございます」


「褒めてねえ」


 カイは机に身を乗り出し、なんとなく小声になった。このサイバーパンクな世界だ。どうせ囁き声だって拾われるのだろうが、もはや儀式的に、無意識でそうしていた。


「えっと、ところで、ニコさんは……」


「一応、病院に運び込まれたとは聞いた。行くだけ無駄だとは思うがなぁ。どうなったかは……」


 刑事はカイの、前後逆の左手を見て、眉を八の字にした。


「それをどうにかするついでに自分で確かめな」


「……はい」


「さ、それで全部か? 話は」


 彼は机に両肘をついたまま、小さく両手を開いた。


「……はい。全部です」


 すると老刑事はメモ帳に何かを書きなぐり、それからペンと共にカイへ寄こした。


「じゃあ、右下に線を引いてるだろ。そこにサインしろ」


「は、はぁ」


 カイは言われた通り書こうとして、それから、どうすればいいか分からなくなって止まってしまった。


 書類上の処理に、カイという名前で書くべきなのか、身体の持ち主であるジェイクの名を書くべきなのか。老刑事が少しだけ慌てた様子でカイの顔を覗き込んだ。


「なにやってんだ?」


「いや、カイって書くべきなのかって……」


「わけねえだろ。お役所の書類にヒーローのお名前書くバカがどこにいんだ」


「す、すみません」


 抵抗はあったが、いつかオークラーに書類で見せてもらった『ジェイク・ドルトン』の名を書いた。


 それから刑事へメモ帳を返そうとして、彼が取っていたメモが滅茶苦茶であったことをやっと発見した。


「え、あの」


 唖然とするカイ。だが隙ありとでも言わんがばかりに、メモとペンを目にも留まらぬ速さで奪われてしまった。


「そ、それって」


「ああ。お前の証言が合ってるかどうかのサインだ。間違いなく、お前のサインだな」


「でも……」


 言ったこと言わないこと、それらを組み合わせてどうにかカイの有利な方へ――というより、もはや不起訴にするレベルで――辻褄を合わせていた。


 カイの視線を見て、老刑事がカメラを鷲掴みにし、わざとらしい舌打ちをした。


「録画できてなかったか? ボタンの押し忘れかよ。これだから新しいもんは嫌いだ。ま、このメモがあるから問題ないがな」


 明らかに嘘だった。カメラを何度も目で確認していたのはきっと動いていないことを確認していたのだし、動いていないと気付いたはずの瞬間にも何一つ驚きはしなかった。


 カイが気付いていることに気付いたのか、老刑事はふてぶてしく座り直す。


「T.A.S.か警察にキッチリ入隊すりゃ、嫌でも分かることがある。国民は偉くもなんともねぇ、ただ人がいるだけでしかねぇってな。人間ってのは、勝手に疑って、勝手に解決しようとして、勝手に動き回るもんだ」


 老刑事はカメラを机にボンと置き、首を後ろへそらさせて、カイを見下すような姿勢を取った。姿勢だけで、ただ疲労しただけの表情をしていた。


「こっちだってな、治安保護法だかみたいな、時代錯誤なこたしたくねえ。だが、中途半端に情報が出回っちまう方がもっとやべぇんだよ。情報開示しろってマスがうるせえから開示すりゃ、まだ犯罪者だって決まったわけでもねえのに容疑者・・・がどう容疑・・がどうで好き勝手に叩いて、で、無罪だと分かりゃこっちに白羽の矢を立てて騒ぐ。知る権利たぁ聞いて笑わせんな」


「それは……大変みたいですね……」


「前哨帯のあのバケモノだけで国中パニくっちまってる今、お前が事件の容疑者でしょっぴかれたなんざって話を広げるわけにはいかねえのさ。今回の件が内輪揉めだろうなってのも、一目で分かるしな」


「…………」


「それと、ニコの事だが……」


 彼はカイの、弱々しい表情を眺めた。


「お前が背負いすぎるな。お前は、ってか最近の若いヤツは、どいつもこいつもナイーブ過ぎんだよ。昔の細かいことを気にしねえ精神を知らねえ」


「でも、ぜんぜん細かいことじゃ……」


「それだ。でも・・だの何だの煩ぇったらない。とっとと帰ってやることやれよ。ああ、でも駐車違反はするなよ。そっちではちゃんと書類仕事してやるからよ」


 彼は顎で扉を差した。それ以上、なんの返事もしなかった。


 そしてカイは何の問題もなく、警察署から出られた。


 これから病院へ行き、この手を治療してもらい……。するべきことは自明だが、脚は動かなかった。


 リィラに会う資格が無くなった。そんな気がしていた。



――Layne――

 少女はただ虚空を見つめ、虚無を聞いている。頭に押し寄せる雑多が正常を塗り潰し、全てを背景に押し退けているのに、それを自覚さえできずただ塗り潰されていた。


 車に乗せられてどこかへ連れていかれるときでさえ、その知覚が記憶の片隅にさえ残ることはなかった。だから、クレイの家族の部屋で安心するところに収まっていたはずが、目の前に孤児院が急に現れたように見えた。


 それから、思考の全てを逃げ去る父の車と、殺される母の記憶に圧迫され、呼吸を浅く、声混じりにして、ただ泣いた。両隣の大人の表情どころか、その存在にさえ気付かず嗚咽して、思考がグチャグチャに発散し、あらゆるところへ接続されていつの間にか〝あの瞬間〟に収束しては、また発散した。


 誰かがレインの脇の下に腕を通し、抱き寄せた。見ればジェイクがママと呼んだ顔がある。それが分かったが、それ以上はなかった。思考がほんの少しも深いところへ降りてくれない。抱きしめられてぶら下がる足に、金属のような硬さを感じていた。


「いったいどういうことなの!」


「安全のために預かっていましたが、ストレスにより食事を取れなくなってしまったようで。もし不安があればすぐにご連絡ください」


「ふざけないでちょうだい。子どもはオモチャじゃないのよ。無理やり奪っておいて何の責任も取らずに……」


 言葉の途中でドアが閉まり、車が発進してしまった。


「なんて人たち……。レインちゃん。大丈夫だった?」


 名を呼ばれ、遠い景観のように見えていたこの場所に自分がいると気付いた。そうか、自分は孤児院に戻されたのか、と。


「…………」


 それが分かったが、そこまでだった。どうしてそうされたのか。先を想像するには余裕が要る。その余裕が、わずかにさえ無かった。


「暖かいお部屋に入りましょう? あんな冷たい人たちなんか忘れて、さぁ」


 ママはレインを抱き上げたまま、孤児院へと入った。その姿勢が母に抱かれる時のようで、また、あらぬ方向を見ていた母の死骸が画像として知覚を支配した。


 ふと大きな扉の前で下ろされる。立っていることができず、人形が置かれるようにそのまま地面へと座り込んだ。


 どうにかその記憶から逃げたくて、周囲に見えるものだけに集中しようと辺りを見回してみた。


「ちょっとだけ、待っててちょうだい」


 ママは院長室へ入り、扉も閉めずに正面の机へ手を伸ばし、引き出しを開けた。それから腰から取り出した鉄を入れ、その瞬間にレインと目が合い、気まずそうに戻ってきた。


「その……アーミーの人たちが来たとき、きっと、皆のために必要だと思ったの。あなたを傷つけるためではないわ。決して」


「…………」


 レインの頭は、今度は借金取りたちが襲撃してきたことで一杯だ。色々な色が押し寄せるのに、ぜんぶ真っ黒だった。


 また抱き上げられ、ある部屋のソファーに下ろされる。そこは子どもたちが過ごすリビングルームではなく、明らかに客室だった。


「レインちゃん。いきなり皆の元へ行くのは辛いでしょう? だからまずは、お客さま用のお部屋でリラックスしましょう。慣れるまで、いつまでもそこに居ていいですからね。もしそこで暮らす方が良いと思ったら――つまり、みんなと関わらないで過ごしたいなら――この部屋はあなたのものよ」


 彼女はリモコンでテレビを付け、音量を下げてテーブルに置く。


「テレビもありますからね。辛いことがあったら、まずはできるだけぼーっと過ごしてみましょう。ゆっくり、ゆっくり受け入れていけばいいの」


「…………」


「さぁ、おしゃべりなオバサンの話はおしまい。でも、もしもおしゃべりしたかったら、私はさっきの広い部屋にいますから。ドアは全開にしておきますからね。寂しいでも、おやつが欲しくなったからでも、なんとなくでも。思い立ったら来てみてちょうだいね。用事が無くたっていいんですから」


 黙ったままのレインの手元へ、ママは狼の少年の姿をした人形を置き、レインの肩に優しく触れてから部屋を出ていった。


 ああ。ユゥの人形。パパに渡したままだっけ。いまどこにあるのかな。家かな。


 家。いま、どうなってるのかな。ママは……。


[アハハ、緊張してる。ティアアーミーソーシングだよ]


 覚えのある声にレインは顔を挙げた。父と逃げるとき、一緒にいた女の人だった。


 そして、いちばん望んでいた姿が、その隣に立っていた。


[それっす。そこのカイです]


 誰よりも知っているパパなのに、見たこともない表情かおをしていた。


[はい拍手! ちなみにわたし所長!]


 女の人が別の写真で、画面一杯に映し出された。


 ニコ。それがパパをどこかへ連れていった人の名前だそうだ。



――Nico――

 時間は、かくも残酷だと思った。


 ニコが大慌てで避難所へ向かえば、その途中で会ったクレイに『レインちゃんなら孤児院に帰されちゃって……』と言われた。カウンセラーがケアが間に合わないと思うほど弱っていたために、環境を戻してまず回復してもらおうと図ったためだという。そのカウンセラーに相談したのはクレイだという。そのクレイが発見したのはリィラと話してからだという……。


 まるで狙いすまされたように、噛み合うべきでないものが噛み合ってしまった。僅かの隙に出発した送迎の車へ連絡を入れようとしたが、どういうわけかゴズ大佐がそれを阻止する形で情報を遮断しているのだという。それで取るものも取りあえず車で飛び出した。だが。


 ――時間は、かくも残酷だ――。


 走っている間に、感情に踊らされている自分を醒めた目で見られる程度には落ち着いてしまった。それで路肩に車を止め、どこを見るわけでもなくハンドルを握ったまま、ホイール車が切った風の音と、ホバーの吹き付ける風の音を聞いていた。


 なぜ、わたしが行くべきだと思ったのか。この問題にもっとも上手く対処できるはずのカウンセラーが匙を投げたからであり、次に上手く接することができると思われるカイがレインを追い詰めた原因だからである。その次には全ての情報を持って俯瞰できている者の方がいいだろうという、消去法でしかない。


 だが本当にわたしが行くべきなのか。あれと共にいるところを見られたのだ。ジェイクの心を破壊した張本人であるとは気付かれずとも、そうした組織の一員であることは子どもにだって分かる。


 現状における最もらしいアイデアはふたつだ。


 世間体の不利を覚悟し、孤児院のスタッフへ真実を打ち明ける。ヒーロー・カイが人体実験と偶然により、ジェイクを上書きした人格だと広まれば、世間はその正体をハッキリさせようと動く。その激流にカイが揉まれ、うっかり我々が食料にしている家畜人類が正体であると口にしてしまう……。ニコが嘘をついたとしても、国民がその先で真実に到達してしまう。そんな光景が火をスケッチするよりよほど簡単に思い浮かぶ。非人道的という大義名分と共に世論が正規軍へと傾くだろう。


 家族を奪った上でレインを見捨て、戦争を有利に進める。この一件を無かったことにするのだ。衰弱しきって倒れれば入院することとなり、その先で精神を回復したとき、きっと自分がジェイクの娘で、ジェイクが何者かに乗っ取られたと主張するだろう。しかしジェイク一家が亡命――しかも、不法移民による逃走――によりやって来たことで、ナラク国における彼らの公的記録は一切存在しない。ヒーローを貶めようとする頭のおかしい者として尻目にされるのだろう。


 後者だ。後者を選ぼう。この戦争に勝ち、クロウディアと決着を付けるための思考回路がそう言っている。世論は、戦いに勝ったあとでT.A.S.の者たちが存続していくために必要なのだ。何より、家族信仰など存在しないのだ。だから父親だからといってそこまでのショックを受ける訳がない。


 なのに――――わたし・・・は理由もなく前者を選びたがっている。目に浮かぶのは、レインを孤児院へ置いて車が走り出すとき、必死に車を追いかけようと走っていた幼い子の姿。


 どうする。どうすればいい。こういうときは、デフォルト・モード・ネットワークにでも頼ろうか。シャワー中のひらめき――待機的創造性に身を委ねよう。ニコはやっとハンドルから手を離し、気付けば蒸れて濡れたその手を拭った。どこかのダイナーで、いや、いっそモーテルで休憩したかった。それから自分が、物怖じしているのだと気付いた。


 ……違う。わたしは慎重に検討しているのだ。次の選択が重要なのだ。生み出された問題は焼成アニールするように、検討で暖めて時間で冷やし、その後で決断するのがよいのだ。


 ニコは車を降り、近くの自動販売機へ向かった。カエナジュースを買い、プルタブを下げ、自販機の横の壁に寄りかかって飲み始めた。カイが『滅茶苦茶にクセがある』と感じた味が、ニコは好きだった。口で味を遊ばせ、気付けば思考が別の話題へと切り替わってしまっていた。ずっと考え事をしてしまうのは研究者としての悪癖か、自分がそうだから研究者になったのか。ともあれボンヤリとして解を待つ作戦はすでに失敗だった。


 ――――オークラーたちが新型爆弾と相対したとき、敵は人感センサーを爆弾と一緒くたにして置いたにも関わらず、紐付けられていなかったのだという。それに対して行動を共にしていた老刑事が『間違って殺したくないヤツがいた』からだと主張した。その老刑事はとんでもない勘の鋭さをしていたようだ。


 その巻き込みたくないヤツこそ、まさにオークラーその人なのだ。自分がオークラーを愛していると知って、クロウディアは爆弾を地雷にはしなかった。それは即ち、あの現場にT.A.S.がやってくる前提があったからに間違いないが、ただ前哨帯の犯行声明に付き合うだけならばT.A.S.の存在は関係がないはずだ。


 あのテロは、前哨帯やファイマンを満足させつつ、ニコと会う陽動のためだけに行われたものではない。クロウディアには他にも意図がある。


 ただの陽動ならば立てこもりなんて演出をせず、問答無用で街を活気ごと爆破すればよかったのではないか。それが住民を避難させた上でT.A.S.の到着を待った。しかし、隊員への殺意は全くなかった。カイを罠にハメたことさえも、意図を誤魔化しつつ『ついでに死ねばいい』という程度のものだった。


 もしかしたら避難は副作用でしかなく、もっとも欲しい作用はキチンとT.A.S.へ爆発を見せることだったのかもしれない。ニュース映像などではなく、しっかりと肉眼で観察したその目撃情報が、ニコへと伝わることこそが目的だったのであれば……。


 思い出すのは、人が内側から焼けて死ぬガジェットを開発し、それを見せてきて嬉しそうにしていたクロウディアだった。わざわざ呼びつけてまであれを見て欲しかったのはもしや、誉めて欲しかったからでも、わたしへ兵器を持っていると脅しをかけたのでもなく、何かのヒントを出していたのか。


 ニコは思わず顔を上げた。


 ……そう、か。なんてバカだったのだわたしは。クロウディアは、発明した新兵器たるガジェットを〝半分ずつ紹介した〟だけだったのだ。新型爆弾の威力を司る、新たな燃料化の『超燃料化』とでも言うべき『Pp変換装置』の紹介。それが件の爆破テロ事件だ。


 そしてわたしが『処刑するためのガジェット』と勘違いした例のガジェット。あのデモンストレーションで紹介したのはニコやクロウディアの笑顔で起動する『点火装置』のみの紹介だ。超燃料化しきらなかった理由はひとつ、自爆しないようにだ。


 そしてモリモト襲撃事件こそが――――そのどちらをも使い、正式に爆弾として運用した場合の試用・・だったのだ。


 モリモトを始末しようとした〝爆弾〟は、三十二部隊員の〝誰か〟だった。ナイフ一本さえ持っていない者でも近付くだけで、確実に暗殺可能な〝暗器〟として使える。


 それに気付いて欲しかったクロウディアの意図は、この先に罠を仕掛けたとヒントを出すためだろうか。わたしとオークラーが回避できるように。気付かなければ、オークラーを喪うように……。


 考えすぎだろうか。いや、杞憂とは思えない。ニコはT.A.S.の方角を見て、それから、孤児院の方角を見た。


「………………」


 これから国外軍と国内軍の衝突があるのだ。ガキ一人に構っている暇などあるか? いや、ないね。そんな時間は、少しだって。


 ニコは車に飛び乗り、そしてアクセルを踏んだ。いつもの余裕がない、急ぎの荒々しい運転だった。一度は通った道だということもあり――あっという間に孤児院にたどり着いた。


 時間はないが、自分の中に重大な決断を実行せず放置しておくこともできない。僅かにだって思考の部屋の容積は多い方がいい。戦況など後でいくらだってひっくり返してくれる。それでいいだろう。


 ニコはツカツカと勇む足で、ノックもチャイムも無しに施設内へと乗り込む。どこに院長がいるかなどすぐに分かった。全開にされた扉の向こうに、目を見開いてニコを見つめている老女がいた。


「あなたは……」


ティアアーミーソーシング.のニコ所長です。会うのは、二度目ですね」


 老女は震える手で机の引き出しを開け、それから立ったまま微動だにしないニコを見て、伸ばしかけた手を引っ込めた。


「……レインちゃんに、何をしたの」


「それについて、説明に参りました。全て事実をお話しますので、少々時間を――」


 その言葉の中で院長は立ち、ニコへと迫り、肩を押した。


「出ていきなさい!」


「ですが……」


「あなたたちアーミーはそうやって、人の命をオモチャのように扱うのでしょう! いい加減になさい」


 押され、押され、部屋の外へ。そのまま出口まで押されて行きそうだった。


「聞いてください。わたしは……」


「何を聞くものですか! レインちゃんだけではなかった。あなたジェイクにも何かしたのでしょう!」


「――――っ」


 ああ、そうか。ジェイクはここへレインを預けるとき、彼女をママと呼んだ。


 レインが最初じゃない。わたしは、彼女の家族をも……。


「あの子はあんな表情をしなかったわ。いったい何したの! どうしてカイと名乗っているの!?」


「そ、その説明も……」


「出ていきなさい! あなたのような……ここはあなたのような人殺しの居ていい場所ではありません!」


「ま、待ってくれ……すべて説明する」


「言い訳など聞きたくありません! 行きなさい、人殺しッ!」


 今まで、何を言われてきても平気だった。同じ言葉を言われたときだって、平気だったのに。


「待って……」


 頭がいっぱいになって、返す言葉など少しも思い浮かばなかった。どんなに汚い手でも使うつもりだったのに、どうしてこんなどうでもいいはずの所で――――。


 ニコの表情に、怒り狂っていたはずの院長がその攻撃の手を緩め、荒い息を落ち着かせ始めた。


 小さな足音が、そうして静かになった空間に響いてきた。廊下の奥、突き当たりで、この孤児院の子どもたちが顔を覗かせている。皆が不安げな表情だった。


 その中に、憎悪の顔があった。


 深く、暗く、底の見えないほどの厭悪えんおと、ニコの眼が合った。


 天才と呼ばれ、憎まれることなどは一度や二度ではなかった。同じ表情は何度も見てきたのだ。それに対して感じることはいつも『クロウディアの方がよっぽど怖い』だった。


「レイ……ン……」


 だから、憎しみに対して心の底から恐怖を感じたのは、初めてだった。


 少女はいま院長の部屋から出てきた。その手に持っている物を見て、ニコは老女を突き飛ばした。


 その背が壁に当たる音も、子どもたちの息を飲む声も、ニコにとって聞き馴染みの深い音に上書きマスキングされた。


 レインが両手で拙く保持していた拳銃から、硝煙が立ち上っていた。


 痛みはなかった。だが、身体に力が入らなくなり、倒れてしまった。それから、当たったのだな、と思った。


「……返せ……返せぇえええっ!」


 一発。近くの床に当たった。


 一発。肩から全身に衝撃があった。


 一発。ずっと背後で着弾する音がした。


 ハイウェイで撃たれたとき、何発も撃たれたらどんなに痛いだろうと思っていた。だが現実には、痛みより苦しみの方が辛かった。


「返せっ! パパはどこ!」


 上手く息ができない。あのセミオートの装填数はいくつだったかな。確か、十三発だったと思う。半端だから印象に残っていた。


 ああ、分からんな。どうしてこのわたしが、ガキひとりのためにこんなに必死になったのだろう。やろうと思えばガキなんて、撃ち殺したってなんとも思わなかっただろう。なぜ、レインにだけ――。


 だが、これで彼女は仇を取れた。彼女にとって、父と母を奪った張本人の命を奪い返せたことになる。事実がどうであれ、これで彼女の中で決着がつくだろう。


 だったらこれも――悪くないと思った。


「レイン……レインちゃん!」


「パパはどこにいるの! 言えぇッ!」


「ダメよ! あなたまで人殺し……ひっ」


 少女は銃口を向け、黙らせた。引き金に指をかけたまま、全身へ不安定に力が入っている。


 いいんだ。早くわたしを撃て。早く終わらせないと、余計な人まで殺してしまう。


 いいから……。


『……相容れんな』


 オークラーの声が、記憶から語りかけてきた。


『そうかね。それは申し訳ない』


 そう言った瞬間の光景が、フラッシュバックした。


 ――ああ。


 ――――あれが――最期の会話か。


 ニコはその力の出ない手足を動かし、寝返りほどの僅かに、出口へ動いた。


「オークラー……」


 あれが最期なんて嫌だ……。


 彼女との、最期の思い出だなんて嫌だ。


 どうせ消えて無に還るのだからどうだっていい。そう思っていた今際の際がやって来て、文字通り足掻き始めてしまった。


 最後には、こうなる計画だったのに。


 彼女に嫌われたまま終わるなんて耐えられない。


 ニコは、入り口へ手を伸ばした。


「や……だぁ……オークラぁー……!」


 ニコの声が、パンという発砲音ひとつにかき消された。


 ニコの意識もまた、火のように忽然と、消え去った。

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