知る人ぞ知ればよく

――lila――

 やり直しは、効かない。


「……はぁ……」


 リィラは開発という山脈にある峰を一つ越え、ニコから休憩しろとキツく勧められたので、しかたなく一階ラウンジのテーブル席に座っていた。なにをするわけでもなく、本当に座っていただけだ。その視線は何度も現場への道へと向き、『こんなことしてる場合じゃないのに』という焦燥にさらされ続けていた。


 やり直せない。たったそれだけのことだ。それが、こんなにも重いものだとは思わなかったのだ。


 一度で成功させるにはとにかく、検証、評価、検証、評価だ。メーカーでは上層部を焦らし、仕事をしているフリに見られてしまうこの足踏みこそ、もっとも大切な進歩なのだ。そうエンジニアたちはを揃えて本に書いていた。


 ファイマンがいつ攻めてくるかも分からない。時間がなければとにかく数をこなすしかない。ひとつだってミスなどあってはならない。


 プリンターとは違うのだ。ミスがそのまま、カイへの身体的なダメージとなる。最悪は――――死に至る。


「あ~~~っ! もぉ……!」


 頭をかきむしり、机に突っ伏した。この時間はいったいなんなのだ。考え続けちゃいけないのか。ニコ曰く――。


「キミの腰のナイフだって、斬り続けるなら研ぎ直さなきゃあいけないだろう? キミはさしずめ、氷のナイフさ」


 ――らしい。よく意味が分からなかった。変なところで喩えないでほしい。


「リィラちゃんじゃん」


 やって来たのはクレイだった。


「どうしたのそんな悩んで。座っていい?」


 リィラが「ん」と言えば、彼は座った。距離は保ちつつ、彼女のような姿勢で頬杖をつく。


「悩むなんてらしくないね。いつもはズバズバって噛みきっちゃうのに」


「……うっせ」


「ごめんごめん。でさ、ほらどうしたんだ? グワっ、グワっ」


 クレイはアヒルの真似をしてみせた。なんだと思えば、ああラバー・ダックかと顔をあげる。


 ラバー・ダック・デバッグ。IT系エンジニアの流派の一つで、いま直面している問題をゴムのアヒルに語れば、ぼんやりとしたバグの原因がハッキリと見えて、めでたくバグを駆除できるという技だ。


 つまり『聞いてるから話してごらん』ということだ。気が利いている。


「知ってんの? そーゆうの」


「マッドが楽しそうに教えてくれたからさ。人形に話しかけるって、息子もやってるけど、あれって頭にいいんだな」


「ああ、そういうこと……」


 ということは、ガジェットの知識の度合いで言えばマーカスと同じだ。


 であれば、デバッグに付き合って貰うか。


「補助ブースターの設計しててさ、まー要するに、メインの移動じゃないとこの担当なんだけど」


「っていうと、どんな移動?」


「手足の位置制御だよ。こう、見てて。手がこんな――」


 リィラは立ち上がり、廊下側で両手をぶらりと下げ、反復横飛びを始めた。


 すると腕が大きな振り子のように揺れたと思いきや、肘を支点とした二重振り子として揺れを乱した。


「――って、こんな感じにさ、胴体を移動させても置いてかれちゃうじゃん? これがあるとさ、右に思いっきり飛んだときに手が左に流されて、手で攻撃したりとかができなくなっちゃうんだよ。あと、回転するのもムズくなる。だからそれを補正したいって感じ」


 慣性により取り残される存在。動きのセンサーという壁を打ち破った『正解』が、『問題』という壁として目の前に立ちはだかったのだ。


「なーるほど……? で、どんな問題があるんだ?」


「まず、制御がムズすぎる。胴回りはカイの動きたい方へ動けばいいけど、腕のものはそれを加味した上で、胴より速すぎず遅すぎずなんだよ。こう、繋がってるものはほら、長さで重さが違うじゃん?」


 要するに、『腕の長さ』が問題なのだ。それは人間の腕という意味だけではなく、物理学における『腕の長さ』だ。今回の場合、主に関連する物理現象は三つ。


「長さで重さが違う? どういう意味?」


「例えば、こう動くとき」


 リィラは手を真っ直ぐ前に突き出しつつ、また真横に飛んだ。すると腕が僅かに横へとずれ、着地と同時に力に逆らった反動で加速した指先が本来構えていた位置から大きく行き過ぎた。


 ひとつは、テコの原理。テコを動かすとき、力がかかるポイントから離れれば離れるほど楽に押せる。それは動かす距離うでのながさを増加させるかわりに、小さなモーメントでも大きなモーメントを産み出せることを意味している。


 今回の場合、支点から力点までの距離を示す物理用語『腕の長さ』が、文字通りに『腕の長さ』なのだ。横へスライドしつつ腕の位置を維持しようとするとき、肘よりも手首の方が、大きな力に耐えなくてはならない。


「――ってことなんだけど、問題は他にもあってさ。ほらこれ」


 リィラは腕を伸ばしたまま回転してみせた。それから止まって、フラフラと机に衝突しつつ片手を着き、もう片手で指を一本立てた。


「……これ……これさ。手がめっちゃ外側に引っ張られてた」


「あ、遠心力か。なるほどね~」


 もうひとつが遠心力……と、角運動量の保存だった。


 例えばハンマー投げをするとき、一定の時間で一定の角度だけ回転する場合は、鎖の長さが長いほど遠心力が強烈になる。公式において速度の二乗が有る式ではなく角速度の二乗が有る式では、腕の長さが力と正比例の関係である点からも明らかだ。


 そして角運動量保存の理解を助けるものでは、例えばフィギュアスケートの例えが有名だ。選手が回転するとき、腕を伸ばすと回転が遅くなり、腕を畳むと早くなる。これは回転するときの運動エネルギーが中心に集まるから発生する現象だ。


 このように回転では、スケート選手の手だったりハンマーだったりが物がグルグルと回る。運動エネルギーを持つものはみな、慣性の法則で一定の時間に対して一定の距離だけ進もうとする。現世で言えば、何かが百ローク/メイラで進むなら、一メイラで百ローク、二メイラで二百ロークだ。全ての物がそうであり、回転も例外ではない。


 紐で繋がれて回転している物体がある。それは一秒で一回転する。ここで、回転の円の長さを二倍にしてみる。円周は直径と円周率の積なので、円周の長さも二倍になる。ところが物体は一秒で同じ距離しか進めないので、一周どころか二倍の円の半分にしかたどり着けなくなってしまう。回転が、半分になってしまうのだ。これが角運動量保存による弊害である。と言ったら過言かもしれない。ともあれここではこの理解で十分である。


「――ってこと。じゃあ、もし補助ジェットがイマイチでさ、後ろにバッて振り返るのに、腕が置いてかれたり追い抜いたりしたら……?」


 ここまで理解できたならば、後は簡単だった。


「……したら?」


 クレイは完全に聞くモードで、答える気配はない。


 ……解ってるみたいな雰囲気出してるけど、ホントに分かってんの……?


「回転の早さが変わんだよ。つまり真後ろに向きたいのが、行き過ぎたり足りなかったりする。ジェットのパワーをフル活用するなら、致命的ってやつ」


 回転中に手を前に伸ばせば回転が足りなくなり、手を手前に引けば回転が行きすぎる。ではいったい、身体の向きを変えるときにどれくらいの出力を出せば良いのだろうか。


 もっとも速度が出せるジェットが背面に着く以上、前方への加速が最速の移動になる。最速を取り続けるならば――――回転は何ラジアンたりともズレてはならない。


 最終兵器の最終兵器が、たかだか〝手の先〟という全体重の中では軽いものに悩まされていたということだ。これが、素早く移動すればするほど重い枷になっていく。


「なるほど? それでそれで?」


 明らかな一区切りだというのに、さっきから返事が変わっていない。


 ああ。聞いてねーわコイツ。


 聞き上手な感じだったから熱が入って、熱心に語ったが、彼はただ分かっているフリをしただけだった。どうせ理解しようとしないって分かってたのに、なぜか『理解してくれてるんじゃないか』と期待してしまった。


「……あとはまー、腕の角度の問題。一番効果がある手首の辺りにつけたいんだけどさ、ほら、肩は可動域が広いし、肘と手首は骨が交差して回るから、手首をこっちにもあっちにも向けられるし、そしたらジェットの方向どうしよって」


「あぁ。確かにね?」


「…………。ところでさ。さっき、会ったよ。アンタの息子」


「ん? ……あぁ、避難部屋に行ったのか。どうだった?」


 返事の仕方も姿勢も明らかに変わった。


「……なんつーかさ。学校の奴らと一緒だった。なんも考えてなさそーってか」


「あの年齢の子はみんなそうだぜ? オレだって、すっげぇ頭の良いこと考えてるぜって思ったりしたもんだけど、いま思えばすげぇ浅かったなぁ」


 浅い。そう、それだ。リィラはそのピッタリな言葉が、見つからなかったピースみたいに思えた。


 学校にも、村にも、浅い奴しかいなかった。


「でも、だって疑似物質ソリッドの出来方もわかんねーんだよ? ちゃんと説明してんのに」


「いや、オレでも分かんないって。みんながバカなんじゃなくてさ、きっとリィラちゃんが頭良すぎちゃったんだよ」


「……頭良すぎってなんだよ」


「みんながなりたいのになれなかったトクベツ・・・・になっちゃった。みたいなさ。それに……」


「それに?」


「……あーごめん、言いたいこと忘れちった」


「なんだそれ」


 彼は大人としての笑顔を保ったまま、リィラを見上げて、目を伏せた。なにか、含みがあった。


「オレ、バカ野郎だからさ」


「……それ、よく分かんねーけどさ、なんなの?」


「え?」


 リィラはただ、不満げだった。


「なんかこう、アタシがガジェットとかの話してさ、でなんか急に暗くなってさ、そのあと出てくんだよ皆。『勉強できないから』とかさ。意味わかんねーし」


「い、いやそれは……そんなつもりで言ったんじゃ――」


「みんなだって、ファッションがどーとか、ゲームがどーとか、動画がどーとか、アタシに分かんない話ばっかしてるくせ、なんで何でアタシんときだけそーゆー風に言うの? ふざけんなよ。ガッコーで勉強できてないアタシが分かんだからお前らにだって分かるだろ!」


「……リィラちゃん?」


 学校の知らない背中たち。みんなが口を揃えて言う専門用語・・・・を理解できたことなんか一度もなかった。


 リィラはそれが、好きなことが違うからだと思っていた。知らない領域だから、分からないのは当然だ。だからちゃんと説明していけば理解できるはずなのだ。


 実際にそうだから、面白いらしい動画を人物の関係から説明しながら見せてくれた子がいた。可愛いらしいファッションを部位の名称から説明してくれた子がいた。アタシは分かろうって思って聞いたんだ。なのに――。


「なんでアタシのときだけ……最初っから分かろうともしないんだよ……。おかしいだろ……」


 ――どうして、角運動量とかモーメントとかちょっと物理の話をしただけで、みんな諦めちゃうんだ。お互い様じゃないのかよ。


 どうでもいいことなんだ。もう、理解できないバカたちなんてどうでもいいはずなんだ。なのに、どうしてこんなことが悔しいんだ。


 急にカイの顔が浮かんだ。ガジェットの説明を理解できないながらも、リィラが説明したらキチンと聞いてくれていた。ちゃんと理解しようと、質問だってしてくれた。


 ……カイ。


「ご、ゴメン。待ってくれ、リィラちゃん。なぁ……」


 リィラは無意識に地下訓練所へ向かった。開発のためというより、カイが戻るならあそこだからだ。


 エレベーターに乗り、待ち、降りた。そんな僅かな、何でもない間にだいぶ落ち着いた。時間は本当に何でも解決できるのだろう。


 広い広い訓練室から観測室へ入る。黒板の前に彼女はいた。


「おっ、ずいぶんと機嫌が悪そうだ」


 開口一番。コイツこそバカ野郎だった。


「……で、解決できそうなの?」


「う~ん……」


 ニコは考えの再確認とばかりに、目を閉じてチョークを持つ手の甲、拳の所で角をコンコンと叩いた。それから、頷いた。


「例えばキミが、学校のテストを受けているとしよう。あと一問を確実に取れば合格だが、最後で共有の選択肢プールを持つ二問の選択問題にぶち当たる。プールをかなり搾って二つにまで限定できたが、どちらの選択肢がどちらの解答欄に入るか、決め手がないって状況だ」


「えっと。じゃあ合ってれば二問正解で、違ったら二問ともミス?」


「その通り。パズルの、最後ふたつのピースさ。キミならどうする?」


 最高得点を狙うならば、もちろん五分五分の運に掛ける。だが――。


「……アタシなら、どっちにもおんなじの入れちゃう。だってそれなら、合格ラインなんでしょ?」


「それが正解だ。半分の確率で一点多くなるが、半分の確率で不合格。それくらいならば、最高を妥協して、確実を取る。そう言っていたエンジニアもいたろう?」


「エルプリスだよ。〝安定とは『十分盃』であり、欲張りほど取り落とす『性能』である。〟ってヤツね」


「その通り。格闘技などでは尖っている方が武器を持っていると言える状態だが、殺し合いにおいてはそうと言えん。敵に対し、どんなに有利になれる機能とて、それが負ける要素・・・・・になるなら捨てる。そういうことだろう」


 つまり、何かしらを捨てれば叶うということだ。捨てる前提ならば、リィラにも考えがあった。


「じゃ、手首から先を全部捨てよう。フリーハンドにすんの」


「手の装甲を捨てるわけだね。それならばモーターごとジョイント部を捨てられるからかなり軽くなるだろうが、それだと殴る動作などができないぞ」


「どーにかそこだけ、疑似物質であれ作ろ、なんだっけ、バックル」


「ナックル、ね。できれば全てのフレームを疑似物質にできれば軽いのだがねぇ……」


「それこそ危なっかしいっての。全部のガジェットを安定管理するだけの余裕が無いんだから、強度の面も含めてこの金属フレーム信用すんの。で、これならフレームが耐えられるだろうから肘と肩関節の補助モーターを反発式からパイル式に変えて、あと重さに余裕がでるから手首周りのフレームをリング状のジェットに置き換えれば方向を気にせず……」


 そこまで話したところで部屋の扉が開く。カイとオークラーだ。


「あ、カイ。……いいの? もう」


 さっきはあんなに死にそうな顔していたくせ、聞くとカイは胸を張り、破顔した。


「なんとか立ち直ったぜ。心配ありがとね」


「……うっせ」


 しかしリィラの方では、さっきのクレイの一件が思考の交差点に飛び出してきて渋滞を起こしていた。


「お、めっちゃ黒板やってるね。良い感じ?」


 彼はニコを少し気にしていたが、すぐ『お兄ちゃんモード』に切り替わり、あのヘナチョコと呼ぶべき笑顔になった。


「ん。いまは……」


 言葉が止まり、首を振る。


 もう関係ないっての。理解してくれるかどーかなんて気にすんなよ。


「……問題が一個解決したとこ。一旦手の周りを捨てて軽量化してさ、角運動量の問題を解決したってとこだよ」


「はぇ~……いいね。さすが」


 クレイと同じような反応に、胸が急激に痛くなってきた。


 やっぱり――――。


「……言ってる意味わかってる?」


 カイはちょっと驚いた顔になって、それから気まずそうに頬を掻いた。


「角運動量とかは大学の授業で聞いた記憶あったりするけど、なんつーか、全部はちょっと……」


「…………そ」


「だからさ」


「え?」


 カイは開いている椅子を持ってきて、まっさらな黒板の前に座った。


「ちょっともっかい、もっかいチャレンジしていい? 分かるまでさ」


 リィラはポカンとして、生徒として待つカイを見つめた。


 あれだけバカにされても、まだ挑戦するんだ――。アタシを許せなくならないのかな――。やっぱりカイは分かろうとしてくれる――。


 処理しきれない想いが、ワッと目から飛び出していった。横のオークラーやニコが、明らかに狼狽しているのが気配でも分かった。


 ぼやけた視界の向こうで、カイは微動だにせず待っている。見えずともきっと、ただ優しげな笑顔でいるのだろう。


「……うっせ泣いてねぇし……」


「まだおれ、なんも言ってない……」


「やる……やるぞほらぁ!」


「そのままやんの!?」


 鼻を啜りながらチョークを持ち、ただでさえ下手な図が線の集合体として描かれていく。


「まず……パイル式モーターと……反発式モーターだけどぉ……」


 そうして講義が始まった。いつの間にか涙は収まり、いつの間にか熱のこもった説明になっていく。そしてカイが問いかけに正解するたび、リィラが浅いと呼んだ者たちと同じ顔をしたとはついに気付くことはなかった。



――Cray――

 初めて、子どものことで心が折れかけた。クレイは後頭部を掻きながら、地下二階へと向かう。自分の子に会いたかった。


 話を聞いてもらえば解決することもある。それはエンジニアどうこう以前に、自分でも何度も経験があることだ。だからマッドに言われずとも、少しでも力になれればと思ってしまった。それが、こうも裏目に出るなんて。


 いくら大人びていても、子どもは子どもだ。そこにガジェットのスペシャリストという属性が加わるだけなのだ。リィラの暗く、悲しげな表情が頭から離れない。


 あのときクレイが気を抜きすぎて危うく言いかけた言葉は、少女には、いや、大人にだってあまりにも残酷だった。


『みんなさ、普通は深いところを見せる相手を選んでるんだよ』


 バカ野郎は、そんな言葉が少しでも思い浮かんでしまった自分への言葉だ。リィラは子ども以前に命の恩人でさえある。そんな彼女へなんてことを言おうとしたんだ。


「ホントにバカ野郎じゃねえかオレ……」


 そのバカ野郎が父親でも元気に育ってくれているウチの・・・はなんて良い子だったのだろう。とにかく会って、抱き締めたかった。


 地下二階。中を覗けば、誰か隊員の親族らしき老年の男と目が合い、笑顔で会釈しあった。


「隊員さん。どうかしましたか?」


「いえ、今のところは特に。時間が開いたので、ただ家族に会いに来ました」


「あぁ良いですねぇ。ウチのも、そうやって小まめに来てほしいものだ」


 物腰柔らかだが、少なくとも四十七部隊員の家族ではない。負け犬迫害の片棒を担いで絶縁している分を除き、全員分の家族とは会ったことがある。


「失礼ですが、どなたの……」


「ああ、失礼しました。モリモトと申します」


「え!?」


 思わず声を挙げ、しまったと口を押さえた。モリモトと言えば悪名高い三十二部隊の、さらに口が悪いアイツだ。そんな男の家族なのか。


 似なかったなぁ……。


「す、すみません。彼には……お世話になっているので」


「やぁそうでしたか! では是非、会いに来るよう言っておいてください」


「そ、そうします。はは……」


 そそくさとその場を離れる。仲良しエピソードでも聞かれればすぐにボロが出そうだった。少なくとも仲が良い相手ではない。


 危機を乗り越え、あるプレハブの二階へ向かい、階段から三つ目の部屋をノックした。ちょうど手が空いていたのだろう。すぐに扉が開いた。


「クレイ!」


「よっ。なんか慌ててる?」


「ちょうど、誰かを呼びに行こうかと思って……」


 彼女の背後を覗く、息子は暇そうながらも元気だ。


「どうした」


「預かってる子、いるじゃない。レインちゃん。あの子、急にふさぎ込んじゃって、何も食べてくれないの」


「あぁ……。いつ戻れるかも分からないんじゃ、確かになぁ……」


 部屋に入り、妻が目で示す先――寝室へ。リィラのときと同じ失敗はしない。気さくに話しかけて、誠実に接するのだ。


 そう思っていたのに、クレイは入口に立ったまま、その場に釘付けされたように動けなくなった。


 部屋の隅、ベッドと壁の隙間に収まり、ただ床の一点だけを見つめる少女がいた。その闇はあまりに深く、底に一片でさえの対話という希望が感じられない。


 ああ。この闇を、知っている。思い出したのは、四十七部隊のふたり。お互いの闇に引き込まれ、命を絶ったあの二人だった。その決行・・直前と、同じ闇だ。


 すぐ引き返し、妻の肩を掴む。


「すまん。あれはカウンセラーを呼んでくるからちょっと待っててくれ」


「えっ!? で、でも……」


「信じてくれ」


 真っすぐな言葉に、彼女もまた顔を引き締め、深く頷いた。


「分かったわ。お願い」


 そうしてクレイはプレハブを飛び出した。


 あーあ。情けねぇぜ。クレイはまた後頭部を掻いた。


 相手を理解するって誓ったばっかりなのにさ。一発目で自分の手に負えねぇって投げちまうんだから……。

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