John Doe(後)

――――

 娘のレインが抱きしめてきたのに、うまく反応することができなかった。ふと見上げると、扉の奥から妻のエリスがじっと見つめてきていた。


 しゃがんでそっと抱き返し、レインをそのまま抱き上げた。


「……ただいま」


 中に入れてもらい、テーブルにつく。落ち着かないながらも辺りを見回すと、部屋の中はずいぶんと良くなっていた。やっぱり、あの金のお陰だろうな。


「…………その」


 椅子に座ったままずっと黙っていたエリスが、やっと口を開いた。


「あのお金、どうしたの?」


 少し、ほっとした。出ていったことを責める訳ではないのだろう。


「アーミーがちょっと、仕事を募集してて」


「仕事を? もの凄い金額だったけど。どんな仕事なの?」


「それは……」


 答えられなかった。ジェイクの心が破壊されたという実験の被験者だ。今は、カイですけど、ジェイクの記憶も持ってます。なんて言えるわけがなかった。


「…………まあ、いいわ。よかった。やっと仕事が見つかったのね」


 彼女は立ち上がった。


 ジェイクはもう死んだんだ。そう言いたかったけど、口には出せないでいた。言えば、どれだけレインが傷つくか。


 ……それに、死んだとも言えないかもしれない。ジェイクの身体で、ジェイクの記憶を持っている。これはもう、ジェイクという人間のはずだ。そこにカイという人格も居るってだけだ。


 だったら、なにもさよならしなくたっていいじゃないか。俺の家族なんだ。そうだよな。金だって無限に使えるんだぞ。やっと、俺も上手く生きられるようになったんだ。ちゃんとした人間として家に帰ってきたんだよ。これで良いじゃないか。


「……パパっ、パパ!」


 後ろからつつかれ、振り返ると、人形が差し出された。なんだか旅人らしい服を着た、灰色のケモノの少年だった。


「お、誰かなこれは?」


「えっと、ゆーっていうの! ゆーしゃなんだよっ!」


「へぇ~、勇者のユゥねぇ……?」


 前世カイで読んだことのあり、かつ、友人が異世界転生した舞台のタイトルだった。ケモノの少年というところまで一致している。


 そんなことあるのか? あまりの偶然に、言いようもない違和感があった。


「……あれ?」


 大きな目が、俺の左手の平の変化に気付いた。


「まっくろ。なにそれ?」


「これ? これはスタン・バーストってやつだ。危ないんだぞ。お手々をさわりたかったら……、こぉっちだ!」


 右手で脇をくすぐる。レインはきゃっきゃっと大笑いしながら身をよじった。


 ふと、エリスが隣に立ったまま、俺の腕を見つめているのに気付いた。袖がめくれていたようだった。


「……それ……、なに……?」


「ああこれ? これはシールドだ」


 立ち上がって、シールドガジェットを起動して見せた。白菫しろすみれ色の半透明のドームが展開する。


「わっ、すごーい!」


 小さな手がシールドに触れ、疑似物質の不思議な感覚で遊んでいた。


「ほら、強く叩いてみて」


 シールドの腕を差し出す。ぺちんと小さな手が叩くと、プーン……とサイン音が鳴る。


「わぁ~なにこれっ」


「……それ、しまってよ」


 レインが喜ぶのと対照的に、エリスは嫌がっていた。


「なんだよ。これくらいはいいじゃないか」


「――ジェイクっ!」


 怒りで名を呼ばれた。レインは叩くのをやめ、俺と母とを交互に見て、最後に母をじっと見つめた。だがエリスの目は、俺に向いている。どんな文句を言おうか、そんな風に瞳を震わせて。


 そっちがその気なら――。


 ――って、違うだろ。


 やめろって言ったのに、取り合おうとしないからだろ。おれのせいなのに、どうしてキレそうになってんだ。


「……ごめん」


「……え?」


 シールドを切り、お母さんを安心させてあげてと、小さな背中を押してあげた。


 レインはわかったと言って、エリスに付き添うようにくっついた。


「上手く、察せなくて。ていうか、それ以前にちゃんと聞くべきだったよな、話。今からでも、遅くないかな」


 怒りの顔は、本当に嬉しそうな顔に変わり、かと思えば表情が消え、最後には緊張したような、強ばった顔になった。


「…………あなた、誰なの……?」


 男の目が、ぶれた。


 女は、ただただ怯えていた。彼女の娘を守るように抱いている。


 なにも答えられず、声が喉につっかえた。


 皮肉にも男は、女が怯えて初めて、自分というものの本質が見えた。


 なり切れない。


 それが自分だ。


 カイであろうとすれば、不安が多すぎる。


 ジェイクであろうとすれば、優しすぎる。


 おれは、カイジェイクじゃない。


 そして女は、得体の知れない男を前にして怯えている。至極まっとうな恐怖と戦っている。


「…………ごめんなさい」


 ぺこりと謝り、さっさと玄関へ向かい、抜け、そのまま廊下を戻っていく。振り返りもせず歩き続け、公園の横の道を通る。そこから抜ければ車がある。


 早足だったが、急に目の前がぐらりと揺れ、石の壁に手を付いた。


「ぉ……ぇえ……!」


 そして、嗚咽した。胃がひっくり返るような感覚はあったが、かろうじて嘔吐はしなかった。


「おれは……」


 自分でも気付かず、言葉になっていた。


「あれ……俺は……」


 どっちだ。いや――どっちでも、ないのか?


 分からない。


 混乱の中で、いくつか呼吸を数え、少し落ち着いてきた。そうしてリラックスして、ふと答えの道しるべを思い付く。


 そうだ。ニコ博士に聞けばいいじゃないか。こういう難しいことは、あの博士の方が分かる。きっと答えも知ってる。やっと見えた希望だが、右手に持っていたものに気付き、思わずため息を漏らした。


 人形だった。受け取ってすぐ置くのもはばかれるから、ずっと持ちっぱなしだった。


 返しに行かなきゃ、ダメだよな。この人形、きっとあの子のお気に入りだろうし。だけど家を飛び出すのはこれで二度目なんだ。流石に、今すぐ戻るってのも。


 じっと、その場で迷い続けて、やはり引き返すことにした。


「返すだけ……。返すだけだから……」


 そう言い聞かせながら、重い足取りでゆっくりと、何度も引き返し直そうとしながらマンションへ向かう。それから閃いた。そうだ。扉の前かポストに入れときゃいいんだな。


 やっと敷地に戻り、扉の近くに来たとき、ぞわりと嫌な予感がした。


 中で、動き回る音。ひとりじゃない。そしてわずかに小さく――レインの泣く声が聞こえていた。


 扉を体当たりして開け、転がり込むように入る。まず目に入ったのは、廊下の向こうで驚いたようにこっちを見ている、覚えのある二人の男の顔だった。


 強面の男と、生真面目そうな男。


「ジェイクさん。ちょうどいいところに来ましたねぇ」


「……なんで……こんなところに……」


 借金取りだった。何度も、何度もうちに来ては無い金をせびってくる、いつもの二人だ。だがこいつらはこの家を知らないはずだ。最初に家族の存在を知られてから、すぐに引っ越させたんだぞ。


 廊下少し奥の、右手の部屋から娘が顔を覗かせた。泣き顔だった。


「パパっ!」


「おい引っ込んでな」


 強面に押し戻された。


「レイン! おいてめえ、なにすんだよっ!」


 落ち着いてくださいと、生真面目が割り込んできた。


「ものすごい高級車が走っているなと思えば、まさかあなたが乗っているとは思いませんでした。目立つことはするものじゃないって、考えるだけの頭もなかったようだ」


「違う。借りただけだ。あれは」


「まぁ。そうですよね。しかし借りただけなら、売ることはできませんよねぇ」


 生真面目はただ半笑いで、バンクの通帳を見せつけてきた。


「奥さんのバンクの暗証コード……。知りませんか? 分からなくなって困っちゃってましてね」


「言う訳ねえだろ。関係ない人を巻き込むんじゃねえよ!」


「巻き込まれてしまったのはあなたのせいでしょう。奥さんもきっと……、怨んでますよ」


 生真面目は哀れみの目で、泣き声のする方を見た。強面はずっと無表情だった。


「……何をした。エリス!」


 進もうとすると、強面がはだかって立った。


「どけ――うぐっ!?」


 退かしながらすり抜けようとした腹に拳がめり込む。


 息もできず、力なく床に落ち、四つん這いになったところに胸ぐらを掴み上げられた。


「番号のヒントはありませんかね。なんでもいいんですよ。三つほど出してください。再会はそれからということで」


 足が浮いたまま、息を戻そうと無理やり呼吸する。


「あるでしょう? 記念のナンバーとか、娘さんの生まれ年はどうですか?」


 ――クソ野郎が。平然としやがって。


「そう睨まれても困ります。全部、あなたのせいじゃないですか。借りた金を返さないなんて選択肢はないんです。因果応報という言葉をご存じない?」


「……あいつに……何をした……」


 胸を絞って声を出す。


 生真面目がため息を吐いて、強面へ「会わせてあげなさい」と耳打ちでもするように囁いた。


 やっと足が床に付き、男ふたりをすり抜け、奥の部屋へ飛び込んだ。


 倒れた妻に、娘が寄り添って泣いていた


「エリス……!」


 駆け寄って揺り起こそうとする。だがその肩に手を掛けたとき、それも無駄だと分かった。


 目を見開いたままで固まって、右の角が折れ、その下の額が陥没している。


 死んでいた。


「事故ですよ。豪快に転んでしまいまして」


「…………嘘をつくんじゃねえよ」


 男はゆっくり立ち上がって、振り返った。


「そう怒らないでください。八つ当たりなんてみっともないですよ?」


「…………レイン」


 低く、抑えた声で娘を呼ぶ。


「目を閉じて、耳を塞いでるんだ」


「…………パパぁ……」


「いいから。ぎゅっと目を閉じて、耳を塞いで。じっと待っててくれれば、すぐに終わるから」


 娘は泣きながら、身を縮こまらせ、言われた通りにした。


 生真面目がうんざりした顔で、首を横に振っていた。


「ジェイクさん。早まらないでくださいよ。今度は事故じゃ済みませんよ? もっとも、その子は『巻き込まれ事故』するかもしれないですが」


「ああ。『事故は起こらない』さ」


 男が冷たく言い、一歩前に出た。強面も一歩前に出る。生真面目は呆れたため息をついた。


「痛め付ける程度にしてくださいね。ちょっと、加減が難しいと思いますが」


「おう。おい死ぬなよ、ジェイクさんよ? ガキを痛めつけて番号を聞く趣味はねえんだからよ」


 強面を目前に、男は腰のマッスルガジェットを起動した。


 この瞬間をリィラ君が見たら、どう思うかな? あの博士の声がする。


 関係あるかよ。カイでも、ジェイクでもなくなった。なにも気にすることはない。なにも、怖くない。


 オレはもう、誰でもないんJohn Doeだ。


 姿勢を低くしながら踏み出し、全身で体当たりする。左の肩で相手の身体を押し上げながら右手のアンカーブレードを起動し、壁に叩きつけるのと同時に腹に刺した。そのまま引き抜き、また刺し、引き抜き、刺し、滅多刺しにして、最後に顔へ叩きつけるようにブレードを振った。


 頭が半端に割れ、強面が力なく崩れた。


 ほんとう、クソだな。あのときほど怖くないなんて。コツを掴むなんて。人殺しに、慣れるなんて。


「…………な……」


 生真面目が声を上げるのに反応したように、男が向いた。


「……う……嘘だろ……待て……」


 引け腰で、ゆっくり廊下を下がっていく。それを、ゆっくり歩いて追う。


「お、お前のせいだ。全部お前が悪いんだ! お前の――!」


 喚く男の腹にブレードを向け、発射した。身体を輝く刃に貫かれて膝から崩れた男を、アンカーロープで引き寄せた。


 ガジェットを切り、呼吸が上手くできずに喘いでいる男の側にしゃがんだ。


「ああ。オレが悪いよ」


「…………助け……」


 開いた口を、左手で抑えた。


 手の平を、口の位置に合わせる。


「全部。オレのせいだ。上手く生きられないのも、エリスを死なせたのも、レインを悲しませるのも、お前が死ぬのもな。……それで、いいんだろ?」


 生真面目が目を見開く。男はただ、スタン・バーストを起動した。轟音と共に人が中から砕け散る。文字通り、破片となった。男は反動で浮き、宙で半回転してテーブルの上に叩き付けられ、衝撃で板を割って床へ崩れ落ちた。視界が白黒する。


 咳をしながら頭を振って立ち、あの部屋に戻った。レインは言われた通り、目を耳を塞いだままだった。


「……レイン」


 そっと肩に触れると、びくりとして顔を上げた。


「大丈夫。パパだよ。追い払ったけど、目はまだ閉じていて」


「……でも……」


「お願いだ。お外に逃げよう。早くしないとさっきの奴らが戻って来ちゃうんだ」


「……うん」


 目を閉じ直してくれた娘を抱き上げ、倒れた妻の手を握り、「ごめん」と呟いて立ち上がった。


 すると、大窓からコンコンとノックの音。外にニコが居た。窓を開けると、どうぞ外へと言わんばかりに身を引いた。


「なにをしてるんだ」


「なにやら様子が変だと思ってね。車を後ろに回しておいたよ」


「……そうか。ありがとう」


 窓から外へ抜け、ニコに付いていく。通りに出ると、ちょうど車が横付けされていた。後部座席にレインを乗せる。


「行く宛はあるかい?」


「ある。信頼できるヤツが居るんだ」


 ニコは両方の口角を上げ、キーを投げ寄越した。


 車を出し、ひたすらに走る。


 なんとなくで覚えている方角へ向かう。ずっとずっと走り続け、レインが眠って起きたころに、やっと覚えのある道に出た。


「……パパ? どこに行くの? ママは?」


「安全な場所に行くよ。ママは……」


 遠くに行った。いや、入院した? 違う。どう言えば良いんだ。だけど絶対に、まだ生きているとは言えない。いつか帰ってくるかもなんて、思わせたくない。


 いつか迎えに来るからねと言って、オレの……ジェイクの両親は帰って来なかった。


「…………死んじゃったんだ」


「……え……えっ。……なんで……」


「パパのせいだ。アイツらはパパを狙って、ママに手を出した」


「やだ……やだよ……なんで……」


 レインはただ、泣きじゃくっていた。


「だから、恨むならパパを恨め」


 いくつかの道を曲がり、建物の密度が低い地域に出て、ひとつの大きな建物の前に止まった。


 車を降りると、中からひとりの老年が出てきた。男を見るなり驚いた表情になり、すぐさま歓喜の表情へと変わった。


「……ジェイク? ジェイクでしょう!」


「……久しぶり。ママ」


「まぁ~っ。大きくなって……!」


 両頬を摘ままれる。その痛みは昔のままだった。


「さあさあ。中に入って」


「…………」


 なにも言えず立っていると、彼女が後部座席の窓をちらと見た。


 男は耐えきれず、ドアを開ける。


「……着いたよ。ここが安全な場所だ。中で待っててくれ」


「…………」


「……レイン」


 娘は顔も合わせず、素早く車を降りて建物の中へ飛び込んでいった。


 振り返ると、ただただ、信じられないという表情があった。


「……ごめんなさい」


「ジェイク……、あなた」


「ママ、なにも言わないでくれ。……お願いだ」


「無理よ。置いていかれる気持ち。あなたがいちばんよく知ってることでしょう? どうしてあなたが……」


「最後にはそれでよかったって、そう思えたさ。あんなクソみたいな両親の元じゃなくて、ここで育てたんだぞ」


 男は必死に言葉を探す。


 そうでないと、レインへの罪悪感と、ママへの罪悪感と、両親と同じになった自分への嫌悪を抑えきれない。


「――ママなら、俺なんかよりずっとマシだから。ここでなら、あの子はずっと幸せになれる。オレがそうだった」


「……ジェイク……」


「あの子にちゃんと言ってやってくれよ。苦しいのも、悔しいのも、生きづらいのも、全部パパのせいだって。ぜんぶ押し付けて逃げたんだって。自分のせいじゃないよって、ちゃんと教えてあげてくれ」


 言うだけ言って、引き返して車に乗った。


 ドアを締める音で、レインが孤児院から飛び出した。


「……パパ?」


 男はただ、アクセルを踏んだ。車は加速する。バックミラーに、走って追いかけてくるレインが居た。追い付けるわけもないのに、息を切らせて必死に呼んでいるようだった。だが声はホバーの出力に掻き消された。車にはただただ、彼の嗚咽だけが響いていた。


 それから、ずっと走った。


 どれだけ走っても、強固なボディに身を埋めても、周りと同じ速度でいても、強烈な痛みだけはいつまでも消えないでいた。


 ずっと走り続けて、基地の側の山道で車を停めた。静寂が怖くてエンジンを切れないでいる。


「…………博士」


「なんだい」


「オレは、カイじゃない。だけど、ジェイクでもない。どっちでもないんだ」


「なら、John Doeどこかのだれかさんというわけだねぇ。ふたりの記憶が混ざった結果、どちらともつかない別人となってしまったか」


「ジョン……か。なら、ジェイクの記憶が消えたらオレはどうなる?」


「単純に考えるなら、カイに戻る。ジェイクとジョンは死ぬだろう」


「まあ。そうだよな」


 男は沈黙し、ただ車の計器をじっと眺めていた。


 やがてその目がニコに向く。


「青い薬をくれ」


 ニコは男を見つめ返す。


「それで、いいんだね」


「ああ。それでいいんだ」


 ニコはポケットから小さなボトルと、薬を取り出した。


「万が一と思って持っていた。だが、まさか飲むことになるとはね」


「まさか、か。どうせ、最初からそういうつもりだったんだろ」


「いいや違う。ただ、『パープル』の前例がないからできれば避けたかった」


「なんだパープルって」


「赤い薬の服用はレッド。青い薬の服用はブルー。そしてそれに対する、両方の摂取パープルだ。少し間が開いたから、恐らく大丈夫と思うが……」


 彼女はためらっていた。


「他にも問題が?」


「うん。ずっと隠していたけどね、ブルーは『全ての記憶』が消えるんだ。一部なんて都合よくはいかないよ」


「…………」


 最後に、とんでもないことを暴露してきた。


 だが――。


「……悪くないな」


 好いてくれているみんなは、明るく振る舞った自分が好きなのだ。本当の自分を見せれば、引いていく。それなら全部消してまっさらになれば、きっともっといい人になれるかもしれない。カイもジェイクも、自分じゃなくなりたかったんだ。自分の持つものを捨てたかったんだ。


「どっちも、消えちまえばいいさ。記憶が混ざったら他人になったんだ。消したって、他人になれるだろ」


 彼女は驚いた顔で、男の顔を見た。そして、本当に申し訳なさそうな顔をした。


「ごめんね。キミがそこまで深いってこと、もっと早くに気付けばよかったよ」


「いいからくれよ」


 差し出された薬を受け取ろうと手を伸ばすと、すっ、とお預けにされた。


 ニコは何を思ったか、唇に薬を挟んで、顔を突きだした。


「……なんだよ、それ」


 思わず苦笑いをすると、ニコも笑った。


「こんなときくらい、ふざけないでどうする」


「分かった分かった」


 男も身を乗りだし、唇を重ねた。薬を奪って、ボトルで流し込む。


「しまったな。今の君ならやれるじゃないか。まだ間に合うかな」


「間に合っても、やんねえよ」


「いいじゃないかぁ。さっきは発情してたくせに」


 男は運転席に深く座った。


「あー、じゃああれ、もっと良い女になったら、で」


「これ以上良い女になったら、キミ以外の買い手が続々とつく。もうキミじゃなくていいな。アハハハハっ」


 ニコと一緒に男も笑う。それでも、迫る終わりの恐怖は消えない。


 ニコはまた、シートに寝そべるようにして横向きになった。それから、男の右手を握った。その顔は笑っていない。


「自分のことじゃないのに怖いのか?」


「そうじゃない。わたしにだって、罪悪感くらいあるさ」


「オレの選択で、なに気負ってるんだよ。人の心がないくせに」


「なにおう。悩みだってあるんだぞわたしには」


「ほんとかぁ?」


 ニコは自分の胸を鷲掴みにした。指の間から肉がはみ出している。


「やはりねぇ。巨乳は他人の乳に限るよ。自分のだとデメリットが多すぎる。服を着れば太って見えるし、下半身真っ暗になるし、これで誘惑すればホイホイついてくるのにわたしという人を知った者はみんな逃げていく。唯一よかったのが、これにむしゃぶりつくオークラーが世界一可愛かったことだけだ」


「分かった分かった。オークラーさんもこんなところで暴露されて災難だな……」


 会話が途切れて、静かな間があった。


「ひとつだけ聞いてもいいかな」


「どうした」


「我々アーミーを、恨んでいるか」


「恨んじゃいないよ。生きたってどうしようもないオレのために金を用意してくれたしな。今回のことも結局オレの……、ジェイクの因果応報さ」


「わたしが薬の存在を教えなければ……とは思わないかね」


「オレが帰ってなくたって、借金取りどもはあそこを見つけたさ。遅かれ早かれ」


 ジェイクは結局、どうすればよかったんだろう。そんなことばかりが頭をよぎっていた。それを吐き出すようにため息をつく。


「……皮肉だよなぁ。ジェイクでいたときもカイでいたときも、オレ以外の誰かになりたかったのに、混ざってどっちでもいられなくなって、こんなに早く消えようとしてる」


「アハハ。ほんと、皮肉だねぇ」


「あーあ。もう、全部クソッタレだよ。人生も。オレも。しかもオレみたいなクソッタレが居なくなっても、このクソッタレな世界は何も変わりゃしない。無駄死にするしかねえのかな」


「クソッタレがひとり居なくなれば、ひとり分だけ世の中が良くなるだろう」


「そうか。…………ま、やっと、お役に立てるってわけだな」


 深く腰かけたまま、男は目を閉じた。


「もう、眠いのかな」


 ニコの声が遠くに聞こえる。返事をする気も起こらなかった。


「……おやすみ。ジョン」


 その言葉を最後に、世界はどこでもない遠くへ行ってしまった。


「俺みたいには……なるなよ……」


 誰かに向かって、そう呟いた。


 暗くなった世界の後を追うように、自分も暗くなっていく。


 消えていく世界の中でも。


 天使だけは、ずっと微笑んでいた。

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