Talk About
――Lila――
ラウンジ、テレビの前。リィラは、気の抜けたカイの隣に座った。彼は顔をモニターに向けているものの、その視線はずれていて、どこでもない遠くを見ているようだった。
声をかけよう。リィラはそうとだけ決めていて、だけど言葉が見つからずに困っていた。ニコが新しいガジェットの開発を始めたというのに、そこへ行くことすらできないでいる。
カイに教えるべきでないことを教えてしまったんじゃないか。そしてそれを背負って自分だけ楽しんでいいのかという、二重の罪悪感。だがガジェットの開発を楽しまないことは何の贖罪にもならず、そもそもの原因がリィラのせいなのかも怪しい。検討違いの行動かもしれない。
それでも彼女は、幼かった。
「…………あの……さ……」
「…………」
やっぱ恋愛なんかするものじゃなかったんだよ。恋とかバカみたいなものにハマんなくて良かったじゃん。そんな言葉がよぎって、口を閉じた。少なくともリィラはそう思っている。だが、目の前で呆然としているカイは、本気で恋をしたのだ。
そして、本気で傷付いたのだ。
――ワケわかんねえのはこっちだよ。
リィラは目を熱くして、椅子に片足を乗せて膝を抱いた。こういうとき、どうすればいいかなんて分からなかった。自分にできるのは噛み付くことだけなのに、今のカイに噛み付けば壊れてしまいそうだった。
……こわくて噛みつけないヤツなんか、初めてだよ。それが、こんなヘナチョコだなんて想像もできなかった。
「…………ごめん……」
できることは、ただ謝ることだった。
「……リィラ」
カイが、初めて言葉を発した。
「謝ることなんか、なにもないよ。おれが勝手にショック受けただけでさ」
「でも」
「正直、おれ途中から気付いてたんだ。ミィがファイマンだったって」
「え」
よく、分からなかった。だったらなぜ途中からでも
リィラが遊園地に向かうときは必死で、会話から少しでも情報を得ようとしていたから気付かなかったが、思い返せばカイはひたすらに浮かれていた。いま殺し合っている相手と……いや。
とっくにT.A.S.のメンバーを何人も殺した相手と、だ。
「じゃあなんでさ、デートなんてしてたの? ……あ、脅されてとか……」
「違うんだ。たぶんだけどおれ、ミィがファイマンだって認めたくなかった」
「……イミわかんねーよ」
「……なんでだろうね」
カイは自嘲気味に笑った。
「ねぇリィラ。開発、始めてるって言ってただろ。行っておいで」
「でも……さ。アタシ……」
「おれは大丈夫だよ。ミィ……ファイマンはきっと、列車でおれの説得を聞いてくれたんだと思う。だから、戦うかどうか決められなくて、さっきみたいに来たんだと思うんだよ」
カイはただ、微笑んだ。
「だからさ、次に会ったときに勝って、もうひと押しして、一緒に武器捨てたいんだ」
「……うん」
リィラは立つ。ならきっと、新たなガジェットをしっかりと完成させなければならない。確実に勝てるように。
アタシにできることは、エンジニアの仕事だけだ。
「待ってて。完璧に仕上げて来てやるからっ」
リィラは走る。向かうは地下三階で、カイがハッキングガジェットを埋め込まれた部屋。
入ると、ニコが笑顔で迎えた。
「やっと来たね! ショータイムだっ! アハハ!」
「とっとと始めよ。何を作って……」
見れば、長机に鎧が横たわっていた。
違う。あれはフレームだ。恐らくは身体能力強化のためのアーマーだろう。
「パワードスーツぅ? それで勝てるとは思えないけど」
どんなに力を強化したところで、パンチ一発当てられないのであれば意味がない。防御面に至っては全くの無駄だ。人体程度のスケールでは、グレートライフルの弾を防ぐどころか、貫通する弾の威力を減衰させられるかすら怪しい。
「その通りっ! まず無理だ。そこで、目的を変える。すなわち移動を強化し、バリエーションを増やすのだ」
「……あ! じゃあジェットスーツじゃん!」
カイの回避方法は今のところ、脚を使った跳躍かアンカーブレードのみ。動きが限定されるので、次の一手を読まれるのも時間の問題だ。
これは、その解決法方だろう。
「そっか。今までは横に飛ぶか、上に飛ぶかくらいが限界だったから、あらゆる方向への移動を素早くできれば……」
「単純に言って逃げる先、そして攻める手を増やせる。ということだね」
「でも熱の放出と運動のかかり方を考えると、腰とかの一点にジェットを集中させるべきじゃないね」
リィラが、アーマーのフレームを見つめた。
「アタシもそーいうスーツ想像したことあんだけど、ジェットの分布が何気に難しいんだよね。後ろに下がるんなら身体の前にジェットが欲しいけど、どんな姿勢でもそこの位置はジャマだし」
「ほう? では……要件決めのお時間だ」
「うわ。なんだっけ要件決め……」
リィラが顔をしわくちゃにし、思い出すように顔をうつ向けた。ガジェットの用語ならなんでも網羅する彼女だが、複数人での開発プロジェクトに関する用語は後回しでうろ覚えだ。
なので、開発の流れまでは僅かにしか知らないのだった。
「どういう機能が必要か洗い出す工程だ。一応、流れを簡単に説明すると、企画でどういう物を作るか決め、要件決めでどういう機能で叶えるか定義したり分類したりし、開発でそれぞれ作っていく。あとは運用と保守だよ」
「あ~そんなだった気がする。ってことは、もうジェットスーツってことは決まってるから……、次の要件決めか」
「そういうこと。それで……リィラ君ならどのように解決するかな?」
少女は顎に手を当て、それこそ学者のようにウロウロと歩き始めた。
「まーやっぱ、機能をできるだけ分割して考えて、後からくっ付けられるところを統合していくよね。最初っから完璧な配置で組み立てんのなんかムボーだし、時間かかるじゃん?」
「そうだね。作りかけた機能と後々に実装する機能とが競合しては目も当てられない。ではそのように進めよう。それで?」
「まずは単純な移動の場合と、そうでない場合。例えば――滞空したりするときで機能を分けて考えなきゃ」
リィラは黒板に向かった。ニコは分類を示す樹形図と、正確な人体図を描いて、リィラへ「どうぞ」とチョークを手渡す。
「では仮に、移動という機能だけを考えよう。そして移動の中をアクセルとブレーキにする」
「あれ、滞空は?」
「重力加速度の減速として考える。さらに広く捉えれば全て加速なのだが、まずは機能としてアクセルのための加速と、ブレーキのための加速の二種類を考える」
「そっか。じゃ、まずアクセルの話。メインになる移動はなるべく胴に集中させよ。手首や足首の辺りに着けると、重い胴体だけが取り残されて回転するのは目に見えてる」
「重心を意識しないと、まさに腕の長さだけのモーメントで振り回される、というわけだね」
「だね……けど、引っ張る方向の力に関してはそうとも言えないんじゃない? 例えばふくらはぎに上向きのジェットを入れれば、素早い着地ができるし……蹴りとかすげぇ強くなりそう」
リィラは人体の隣、膝下に加速後の力を示す下向きの矢印を書いた。
それに対してニコは、地面からリィラの書いた下矢印と同じ長さの上矢印を書いた。そして、ジェットと地面の間に唯一存在する間接である足首に丸を付ける。
「いいアイデアだ。しかし、着地時にジェットの推進力が足首にばかり集中しないかい?」
「あっ、そーじゃん! じゃあ腕は……腕も自由に使えなくなるからダメか。んーっと、やっぱ胴回りに限定しよう」
「基本のジェットはそれで良いと思うよ。そして、メインジェットの機能は実装できない部分を補助ジェットに任せよう。それで肩や太ももにくっ付けるくらいはできるはずだからね」
「いいね。それでさ、移動の方向は全方位だよね」
「そうだね」
全方位とは、文字通りの全方位だ。前後左右の水平方向だけでなく、上下も加わる。
「ってなると、背中にだけつければ解決って訳じゃないよね」
「そう。そこで問題の『後ろに下がるにはどうするか』という課題が出るのだ。広告でロボットもののフィクションを見たことが何度かあるが、やはりそこが解決できず、背中にしかジェットが付いてないものが多い」
「ん~。思い付く感じだと、腰の横に、こーやって前に噴射するジェットをくっ付けたら安定するんだけどさ……」
リィラは言いながら、腸骨稜から地面に対して水平かつ前方へ、見えないレールを撫でるように手を動かすジェスチャーをした。
「その言い方。腰のジェットで手が焼けるのに困っているね?」
「そーなんだよ! それをこう、クリアできたらな~」
「単純な問題だが、システムの全体に気をとられて気付いてないようだね? アハハ」
「え? できんの? 解決」
ニコは手近なレンチを手に取り、腰に当てた。まるで武士が刀を差す角度に角速度を与えて回転させ、刀が溢れる角度――身体の前方へ行くほど下っていく変化の割合を作った。
「あ……下向きにすりゃいいんじゃん」
「そういうこと。これで、後方加速ならびに前方減速は解決できる。あとは手の位置を考え、邪魔にならない位置だと、やはり腰しかないだろうね」
人体図に暫定として、前方下向きジェットが足される。
「噴射口は複数にした方が安定するけど、えっと、身体を曲げることを考えると……」
「こらこら。まずは機能の洗い出しだよ?」
「あーそっか。じゃあ、背面のメインジェットは、えー、ちゃんと対象性を……」
「待った。それは左右の線対象?」
「うぅん、上下左右の点対象。常に人体が地面に対して直上向きであるとは限らないから。このままだと自由回転する状態だし……」
「なるほど。だが……ジェットの数が増えすぎると熱の処理をどうするか……。それプラス、システムの統合難易度も考えねばならんな。まず熱の問題を考え、難しければジェットの数を減らす方向でゆこう。Ppならいくらでもあるから、何かしらの冷却機を必要とするだろうが……」
「クーラーガジェットは装備してるけど使えない。身体から熱を放射するからジェットが温められんだよね」
「逆も然り、だ。ジェットスーツを放射型で冷やせば、カイが熱せられる。だからと言ってどちらも起動すれば……」
「あ~誤検知で冷やされ過ぎて死ぬか。じゃあそれには頼れないと、し、て……」
リィラはうつ向いてウンウンと唸った。
「じゃあ、線対象にしよう。数自体を減らすの」
「そうかね? その場合は状況が限られるけれど。例えば、重力にどう対応するか……」
「考え方はふたつ、かな。たぶんどっちも採用できるかな? いっこはこういう風に――」
リィラは短い二本の平行な直線を、人体が立つ軸に平行に書いた。そしてそれは、人体の背中に取り付けるジェットの意味だった。
「――縦の長さを持たせんの。で、上は下向きに、下は上向きにジェット噴射させる。こうすれば、背中側に反り返ったときに頭とか尻とかが焼かれない。で、お互い反対方向の左右に角度を調整する。これで細かい補正とかできるし、左右上下の四隅からの噴射レベルの調整で回転モーメントを打ち消せるはず」
「ほうほう。直線のそれぞれの場所から焦点に向かってジェット噴射するイメージだね。もうひとつの考え方は何かね?」
「ジェットの出力を想定よりもめっちゃ上げる、ってのはどう?」
「あっはは! 加速度を思いっきり上げて、重力加速度を誤差にしようってワケだ。ユニークじゃあないか」
ニコが笑ったが、リィラは真剣な表情で考え続ける。
「ただ問題があって、加速度が大きすぎることで気絶するかもしれないってことと、たぶん……上下が分からなくなるんじゃないかな」
「あぁ、空間失調症か。よく気付いたね。そこは人体の機能によって発生するところだから、ジェットの方でどうにかしないといけない問題だ」
「……じゃあ、姿勢を補正しよう。ただ重力を誤差にしちゃうレベルで動いちゃうし……」
「ジェットの出力との比較をすれば、どの力が重力かは取得し続けられる。が、カイ君自身の移動や、アンカーブレードでの移動、敵の攻撃による加速を考えると、一瞬でも擬似的な無重力が生まれる。重力の方向を取得値にするのは危ないだろうね」
「だよな~……」
考える少女の隣でニコは、チョークで人体の地面を伸ばして壁を作った。
「重力を考えない以上、考えるべきなのは“衝突”のみだ。地面も壁も関係なく、どこにもぶつかってはならない」
「あ、そーじゃん! そもそも天井も壁も全部、地面として使えるようにすればいいから、向かう先にモノがある前提で考えればいいんだ」
リィラはいくつかの弧を書いて、人体から信号を放射している様子を描く。ニコはそれと左右対称の弧を壁に書き、反射波を表した。
「なるべく大きな桁の素数周波数で部位ごとにセンサーを付ければ、どうにか受信の混合を回避できるだろう。ここは、人体姿勢の基準となる背中――特に腰周りのものを多くしよう」
「いや、できるだけセンサーを増やそう。取得できる情報が多ければどういう姿勢でも近い面を割り出せんじゃん」
「そうかね? まず、元々センサーを搭載する時点で格闘相手や車といったものにも反応する可能性があるという問題を抱えている。更に、センサーがひとつ増えるということは処理すべきデータが一つ増えるということであり、変数が一つ増えることになる。どのアルゴリズムでも、ラージ・オー・パレスでnの右肩がおっかないことになると思うが……」
「……そっか。取得情報が多すぎて処理落ちすることも考えると、遅延すんじゃん。でも、腰に集中させた場合の姿勢変動はどう対処すんの? 相手の攻撃とかで吹っ飛ばされた時は外的な運動だから内部計算じゃ対応しきれない。ほら、そもそも理論値で現実の姿勢を算出しきれないでしょ、分解能があんだから。誤差が積み重なっていくからどっかでイニシャライズしないといけないけど、そのイニシャライズのタイミングで変な姿勢だと、そっから次までバグりそうだし……」
「むむ。それに、斜めの姿勢で地面と平行に飛ぶ場合があることを考えると……難しいものだな」
「じゃあ、面を検知するセンサーと動きを検知するセンサーも分けよ。面を検知するのは単純に、検知場所を広く取って密度を下げれば済むかな。それで大味に取得して、足にもセンサー着けて、『着地した場所』を床として定義する。センサー量はスーツの最高速度と計算速度の兼ね合いになるだろうけど、衝突に間に合えばいいから、動いている方向の面をだけを検知できればいいかな……」
言葉が尻すぼみになり、独り言になっていく言葉を聞きながらニコは、ふたつのセンサーの項目を書いた。そして『慣性センサ』の項目から線を引いて空いたスペースに伸ばす。
「ひとまず『動きのセンサー』を議論しよう。速度計を利用するのはどうかね? ジェットごとの運動方向から人体の姿勢と向きを割り出すのだ」
「ドップラーは無理じゃない? 受信側のカイが動きまくるし、なにより格闘を前提としてんだから、相手とかの物体を誤検知すると思う。……理想を言えば計算なしでいい値を取得したいんだよなー。ほら、そこの訓練所もそうでしょ?」
リィラが部屋の外を指差す。カイ――ジェイクを訓練するための地下三階の空間は、壁に多数のセンサーを持っている。それはアウトプットとの同期を前提とした計算速度のために取得値のまま計算できるようにしたものだった。
「そうだねぇ……。どうにかこう、あの部屋にファイマンを誘い込めないものかな。それなら動きの取得も楽なのだが……」
「例えば太陽とか、なんならウォールの光を取得するってのも考えたんだけどさ、それじゃー、室内や物陰に入ったら終わりじゃん? なんか、使えないかな……」
「軟化は使えないかな。なんかだけにね」
ニコ渾身のダジャレが炸裂した。このナラクの言語でも『なんか』と『軟化』は同音異義語だった。そして考えを柔らかくしようという、下らないレトリックでもあった。
疑似物質は固いという性質があるのだが、軟化技術を使えばそれを一時的に柔らかくすることができる。それだけなら難しい技術ではなく、カイの装備で言えばアンカーブレードのロープにも使われている。高度な使い方は、シールドでされている。固いままだと運動を全て腕に受けることとなるのだが、瞬間的に軟化させることで衝撃をシールド表面の波として発散させる音波分散技術を使っているのだ。一瞬だけ柔らかくし、即座に元の形に戻すというのはかなり難しく、シールドは何気にカイの装備で最も高性能だったりする。
確かに軟化現象に使い道はあるかもしれない。アーマーの曲げによる応力反応か、内部センサーとして振り子のようなものを用意するか。あるいは移動による運動で圧力を上げるようなものにするか……。
「は? いまそういうんじゃないだろ」
それはそれとして、下らない洒落にリィラが嫌悪感をさらけ出した。今のは結構、苛ついた。
「おぉこわ。でもこういうアイデアは畢竟、リラックスしているときに湧くものだよ」
「リラックスぅ? なにすんのさ」
「シャワーか、ペイデイか、マスターベーションかな」
「キモ。一人でやってろバーカ」
「あ。あと甘いものを食べるって言うのがあったな~」
「……」
「貰い物のメップフレーバーのチェムリがあったけど、どうしようかな~」
「…………」
「ひとりで食べるのもいいけど、誰かにお願いされたら一緒に食べてもいいかもな~」
「………………食べる」
「なにか言ったかなリィラ君。……あ~、お願いする人がいるなら分けてもいいけどな~」
「――うっさい! よこせコラっ!」
リィラが飛び付く。それをニコはひょいと避け、走って逃げた。
「アハハハハ! あげないもーん!」
逃げ足は思ったより早く、白衣のような白コートをふわりと浮かせた。
それを見たリィラが、ビクりと身体を強ばらせて声を挙げた。
「あ、あっ、あぁーーーーっ!」
「なんだなんだっ!? どうしたのだね!」
絶叫に、珍しくニコが慌てた表情で戻ってきた。
「それだ! それ使える!」
「チェムリが!?」
「そっちじゃねえバカ! そのコートだよ!」
ニコは自分のコートを見下ろす。それから、くるりと一回転して見せた。コートの裾がふわりと浮き、ニコという軸の回転を追い掛けた。
「なぁるほど。慣性に取り残される存在、か。良いじゃあないか! アハハハっ!」
「それにプラスして、ちょっとしたセンサーで補強してやれば移動は検知できる。自然に吹く風も、重力を誤差にする速度なら影響を無視できるはずだよ。ジェットの火に触れても――」
「熱情報伝達の観点から受熱率を合わせてやれば焼け落ちることもない。いやぁマントのヒーローとは洒落ている! が、まだまだ問題はある。ジェット流に飲まれぬように工夫も居るし、決まってないことも山のように。さてそれでは……」
ニコはチョークを差し出す。
「お菓子にするかい? 面検知センサーの議論にするかい?」
黒板には、細分化していった問題の樹形図があった。いつの間にか、ずいぶんと立派な樹に育っている。あの閃きは、まだ見ぬ膨大な葉のひとつを解決したにすぎない。
リィラは、チョークを取った。
「食い応えがあんのは、こっちだろ?」
――Kai――
リィラが行って、カイはまた虚空を見た。ラウンジのソファに身を沈めて、ただ本当に『何もない』を見ていた。街でミィとのデートを思い出し、地下でファイマンを説得したときのことを思い出し、混乱がやってきて、リセットされる。ずっとそれを繰り返していた。
ミィへの想い。ファイマンへの想い。その二つはどうしても混ざり合わなかった。ファイマンがミィであることなら受け入れられるのに、ミィがファイマンであることは受け入れられなかった。ミィはミィであって欲しかった。
その自分から生まれた矛盾が、どうしようもなく嫌だった。助けようと思っていたファイマンの存在が認められないのだという、自分の無意識なのだ。あんなに救いたいと思った相手を、おれは嫌っていたのか。ファイマンがファイマンであれば、ミィがミィであれば、こんなに悩むことはなかったのに。
それでもニコが認めたのだ。あの後、ミィはファイマンが遊ぶときのキャラである、と断言した。別人格という訳ではないらしいが、他に彼女が何を言ったかなどほとんど覚えていなかった。
少し前に殺し合った相手に恋をしたのか。恋をした相手が人殺しだったのか。ミィは情報収集のための嘘だったのか。ミィがカイのために利用されたのか。本当に、カイのことが好きだったのか。その結論は出ないが、少なくともカイはまだ、ミィのことが好きだった。手痛い裏切りを食ったはずなのにだ。自分でも意味がわからない。
こういう状況に陥った主人公を見て、さぁどう立ち上がるかとか、どう悩みを打ち倒すかなどと思っていた。こうして自分がなってみて分かったことがある。
そもそも、立ち直れる気がしない。自殺を悔いたときとは全く異質の傷を心に負っているようだ。それなのに『前を向け』だの『いつまで悩んでいる』などと言うのは余りにも酷だろう。
傷の痛みに喘ぐのは、傷を負った者だけだ。そんなことを思っていた。
「……カイ」
不意に声がして、感覚を引き戻される。オークラーだった。二つの紙カップを持ってカイを見下ろしている。
「隣、いいか」
「……どうぞっす」
オークラーはカイのすぐ隣に座って、カップの一つを差し出す。どうやらコーヒー……のような物だ。カイは礼を言って、すぐに一口飲む。誤魔化せるなら、何でも良かった。
……甘い。それがむしろ、ミィのことを思い出させてしまう。
「回りくどく言うのは苦手だ。だから単刀直入に聞くが……。ずいぶんと元気がないな。何があった?」
「いえ、その……」
カイがミィと会っていたことは、彼とリィラとニコだけの秘密になっていた。リィラは納得しかねていたが、カイの願いで渋々でも従ってくれた。
「……恋か?」
「…………実は。あ、その、オークラーさんじゃないんすけどね」
「そうか。なら安心して相談に乗れるが……。さっき会ってから今までのちょっとの間に、そんな何かがあったのか?」
「……えー、その、秘密にして欲しいんすけど、デートしてました」
オークラーはまた飲みかけたものを喉に詰まらせ、咳き込んだ。
「わ、悪いとは言わんが……。ずいぶんと積極的だな」
「ま、まぁ。それより、どうして分かったんすか?」
「ニコに――コホン。博士にやられたときに、鏡の中の私も同じ顔をしていた」
「失恋の顔ってことっすね」
そう言うと、オークラーは自嘲気味に笑う。
「我ながらひどい顔だった。あんなものは、後にも先にもあの一回だけだからな」
カイは少し身を起こす。どうにも、他人を放って置けないらしい。
「よかったら、聞いてもいいっすか? 細かい話……」
「ああ。どうせあの時、うっかりベッドを共にした事を漏らしてしまったしな」
そうして、彼女はその語りを始めた。
あれは何年も昔。ニコが長期出張――この間、彼女が参加していたと判明したφ計画――から帰ってきたときのこと。オークラーは部隊長として、T.A.S.の主に留守中の報告事をまとめたレポートを提出しようとした。
そこでバッタリと出くわしてしまったのだ。いわゆる、真っ最中に。
「そこで私は何をとち狂ったのか、その……『私に気があるんじゃないか』と思った。そういう行為を止めない上に、私の名を呼んできたのだ」
「え。あぁ……なるほど」
ニコのことだから、しながら「どうしたのだねオークラー君」とでも言い放ったのだろう。
それを誘われたのだと勘違いしたということだ。かなり無理がある気がするが、ニコとオークラーという組み合わせだ。どんな事故が起こってもおかしくはない。
そうしてオークラーは覚悟を決めてしまった。
「あのときは、その、初めてのことに慌てていた。色恋沙汰に縁がなかったから、他人のそういう行為を見たことが無くてな……。初めて――いままでどんな任務でもならなかったのに――パニックになってしまって、そのせいで解釈を間違え、取るべき行動を間違え、挙げ句に結婚まで頭をよぎった」
そうして、彼女はベッドに潜った。愛し合って、全てが済んだとき、オークラーは愛の約束を囁いた。だがニコは、ただ驚いた顔をしていた。
それで、全てを悟った。自分がただ遊びに使われただけだったと。ニコの話に間違いはないらしい。
「一瞬で恋をして、失恋した……というのかな。愛するとまで決めたのに、あれほど悔しかったことはない」
「それで、どうしたんすか」
「思い切りブン殴った。それから部屋を出ていって……。まあ、以降はこの通りだ」
ニコにだけ、ただただ距離を取っていた。彼女に心を許せば裏切られると知ったからだ。
「ずっとこのまま過ごそうと思っていたが――いつからか、違和感に襲われるようになってな」
「違和感に?」
「……その。できれば、ここだけの話にして欲しいんだが」
「もちろんっす」
「私は懲りずにまた……いや、あの日からずっと恋しているのかもしれん。あの事は許せていないが、何かにつけては彼女のことを考えてしまうのだ。それに、ニコが誰かに惚気ようとする度にどうにも、こう、嫉妬というかな……」
オークラーは頬を染めた。そして気恥ずかしさを口から抜くように、深く息を吐き出した。
「とにかく、私は許せない相手に恋をしている。私が割り切れれば良いのだが、どうにも割り切れん私が邪魔をする。だからといって切り捨てるには……」
彼女は言葉を切って、チラとニコの部屋の方角を一瞥した。それから恥ずかしげに、顔をそらした。
「……私が意地になりすぎてるのだろうな。きっと」
オークラーの悩みは、その着地点は、驚くほどカイの悩みによく似ていた。そして、カイより長く悩んだだけあって解像度の高い言葉になっていた。
そうか。おれは、ファイマンが嫌いなんじゃない。ファイマンに許せない罪がくっついてるだけなんだ。
許せない所ごと受け入れる覚悟と、決して変えられない過去をどこまでを意地になって受け入れ続けられるかという線引き。それこそが悩んでいたことだったんじゃないのか。
カイはそう納得したが一旦置き、目前のオークラーの悩みを考え、自分の悩みと切り離した言葉を紡いだ。
「……でも、そういうものなんだと思うんすよ」
「というと?」
「おれも、ぶっちゃけ
「ははっ。そこは客観視でいいだろう?」
オークラーは柔らかく苦笑いした。
「それで、どういう結論になったんだ?」
「ぜんぶ、やりゃいいんすよ」
「ほう」
「こう、理想的な……理想な? ことするなら、愛してるから受け入れて、ぜんぶ許して忘れて、ってするんでしょうし、そうするなら『やっぱ許せない』ってことはしちゃいけないじゃないっすか」
「そうだな。そういうものだと思うが……」
「でもそれって、理想じゃないっすか。たぶん現実はそうじゃないんす。矛盾してたら矛盾したままで、あのことは許すけど他人として受け入れられないとか、逆に許さないけど受け入れるとか、あると思うんです。だから、こう、行動に……えぇと」
「行動が一貫してなくてもいい、か」
「それっす! そんな気がするんですよ」
彼女はいつの間にか、いつになく真剣な表情をして頷いていた。
「そうだな。ちょっと無茶苦茶なことになるかもしれんが……。やってやりたいことをやってやるか」
「いいっすねぇ。ちなみに、なにをするんすか?」
「それは……」
オークラーは言葉を切って、イタズラっぽく笑った。
「秘密だ」
「え~そうなんすかぁ?」
「カイこそどうするんだ?」
「そ、それはまぁ……」
勝って、付き合って、デートして、あとは……。
「……秘密です」
「ふふ。なら、お互い様だな」
それからカイへ「お前に相談してよかった」と微笑んだ。そしてカイも「言ってくれてありがとっす」と微笑み返した。
その時カイは、オークラーがこのタイミングで相談してきた理由が分かった。きっと彼女はカイの『誰かのためになるのが好き』という性格を見抜いたのだろう。だから、赤裸々な相談をしてきたのだ。
どこまでも信頼しきれる上司ってやつだ。だったら――――。
「……こっちからも、相談してもいいっすか?」
「ああ。もちろんだ」
「その、さっきオークラーさんに、おれは選んだことがあんまりないって話、したじゃないですか。それで、やりたいことを思い付いたんすけど、ひょっとしたらダメなのかなって……」
「ふむ。よければ詳細を聞かせてくれ。もちろん、適当に肯定などはせん。きちんと良し悪しを見よう」
こっちの相談の雰囲気も感じて、何が欲しいのかを分かってくれる。それがカリスマの柱の一本なのだろうとも思う。
「ふたつあるんすけど、ひとつは、ここにやって来るときに亡くなった四十七部隊の四人の遺書を、読みたいんす」
「……自分のために犠牲になった者たちのことを知る、か。立派だが、私としては勧められん」
「え……どうしてっすか?」
彼女はただ厳しい顔をして、どう言おうか考えていた。
「……まず、あまりにも重すぎる。私は隊員十一名の命を預かる身として、喪った者を決して忘れぬよう、遺書を読む。だがお前の場合は違う。お前が読もうとしているのは、守るべき
「それは……でも、それこそ知るべきことじゃないっすか」
「……暗い話だが、現実として聞け。我々が担当する特殊任務において、全ての命が救えるわけではないとな。しかもこの内戦だ。いったい、いくつの命が喪われると思う?」
「…………」
確かに、そうかもしれない。思い出すのは、駅で撃ち殺された無関係の人。
あと何十人、何百人も死んでしまうかもしれない。そうしたら……。
「……きっと、押し潰される……っすね」
「ああ。酷いと思うかもしれんが、私が背負う死は、隊員のもので精一杯だ。救うべき相手を知らないこともまた、この仕事を続けるコツだ」
酷い、なんて言えない。彼女はきっと、あの無力感を何度も味わった。人質だけでなく、隊員の死でも。何度も、何度も。
「……すみません」
「いいんだ。それより、もうひとつは?」
カイは衰えてしまった勢いのまま言おうとしたが、姿勢を但し、キュッと口を結び、頷いた。
「三十二のモリモトさんに、会いに行こうと思うんです」
「む……」
するとオークラーは少し考え、頷きを返した。
「分かった。送り迎えはするが、話は二人きりがいいか?」
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