A Big Debt

――Kai――

 大丈夫だろうか。急ぐ足で部屋から出ていく彼女の背を見ながら、カイは思った。


 正直なところ、ニコに子どもの相手が務まるとは到底、思えなかった。確かに、レインにとっての自分の父親の身体を借りた得体の知れない存在がやって来たら怖いだろう。


 だが人間性が試されるような場面で、ニコは無理だろう。なにより今回、彼女はかなり慌てた様子だった。やはり心配だから後を追おう。と、勇んで避難所へ来たものの……。


「レインちゃんなら、お家に帰ったわ」


 聞き込みの末たどり着いたクレイの妻から、思ってもない言葉が飛び出した。


「か、帰ったぁ? なんでっすか?」


「食べもの食べる元気も無くなっちゃって、すごく弱っていたからカウンセラーさんに見てもらったんだけど、最初は『しっかり見る』って言ってたのに、急に『やっぱり帰した方がいい』って。酷いと思わない?」


 淀みなく言い切った。きっと言う相手もなく、ずっとぶちまけたかった不満なのだろう。カイがちらと見たのは、退屈そうにカイを眺める子どもだ。一緒に暮らしているとはいえ、自分の子に愚痴を溢してもしょうがないというのは正しい。


 しかし、ニコに禁止された避難所への入場を破ってしまったというのに宛が外れてしまった。肝心のレインがどこから来たのか、さっぱり分からない。連れてこられた以上、誰かは住所を知っているだろう。問題は、誰なのかだ。


「っすね。危ないから連れてきたのに、これじゃ無茶苦茶っすよ」


「そう! そうなの。よかったぁ、ちゃんと分かってくれて。おかしいって思ってるの私だけかと思っちゃった」


「あの、誰が連れていったか分かりますか? 名前……」


「うぅん。ごめんなさい。知らない人だったわ」


「それじゃあ、連れてきた方は?」


「それも……ごめんなさい」


「あ、おっけっす。ちょっと探してみますね」


「ありがとう。よかったらレインちゃんに、いつでも来て良いって、いつまでも居て良いって伝えておいてくれないかしら?」


「分かったっす!」


「カイ君もいつでも来てね? クレイとみんなでディナーなんて、いいかもね」


「わ~いっ。あざっす!」


 元気よく返事をしたが、手詰まりだった。何か、ヒントは無いものだろうか。大抵は散歩したりしてると思い付くのだが、いまはそれをしている時間は無さそうだ。


 避難所から廊下階段を上がり、とりあえず売店へ行った。何かと詰まったときには移動する癖があった。最後にそうしたのは、大学生だったとき、死んで受けられなかったテストの対策で、水力発電における計算途中、水車とモーターの回転数をいきなり同じとして扱った理由が分からなかったときだ。


「あ」


 と思っていたら、さっきのリィラの授業で解決してしまった。そうか。モーターとその先は軸で繋がっている。当然、ふたつの回転体は同じ角速度で回る。


 二重の意味でため息が出た。電気がない世界で今さらそれが分かってもなぁ、という意味と、いまそれはどころじゃない、という意味で。


 解決すべき問題は、レインがどこから来たのかだ。当然、家から、そして家族と……。


「……家族?」


 思わず呟いた。そう、レインはこの身体の主であるジェイクの娘として連れてこられた。クレイの家族は子と母で避難してきたが、レインの母親はどうしたのだろう。


 つっかえていたはずの思考が、解放されたダムの水みたく流れ始めた。


 もしジェイクの他に保護者が無ければ、そもそも彼はT.A.S.の実験に身を投じただろうか。パートナーとどういう関係だったかは分からないが、レインは父が得体の知れない何かに変わって衰弱するほどショックを受けた。であれば父娘の仲は良かったのだろう。いくら高額の報酬が出るからといって、その上で娘が一人ぼっちになってしまうリスクを背負うか? そうとは思えない。


 ではジェイクの他に保護者がいたと考えるのが妥当だが、もしそうなら避難のときにレインだけではなく、保護者ごと連れてくるはずだ。それが・・・できなかった・・・・・・理由があるかもしれない。例えば『保護者が避難を望まなかった』か、『避難できない立場にあった』か、だ。


 前者である場合を考える。避難のために連れ出すときに危機が迫る可能性があると説明があったはずだが、T.A.S.への不信感を拭えず、自分は行かないことにした……。しかしそれだと、レインだけを差し出す理由が分からない。避難を望まなかったなら、手元に置いておくはず。


 後者である場合を考える。同じく説明を受け、だけど自分は離れる訳にはいかないから、せめてあの子だけでもと差し出した。これならまだ納得できる。なのでまず、このピースを持っておこう。


 とりあえず小さな女の子だけが避難してきた理由が『保護者の避難できない立場』であるとして、その父親が実験材料になった理由はなんだろう。これはほぼ一択で、金のために自ら研究材料となったに違いない。生活のために金が欲しかったとすれば、預けた段階では金がなかったはず。莫大な金に目がくらんで後先を考えなかった訳じゃないなら、片道切符の予感がしながら愛する娘をちょっとしたホテルに預けるだろうか?


 ジェイクはここへ来る段階で、娘を信用できる場所に預けた。母親を含む親戚か、子どもを預かる施設かだろう。前者である場合手詰まりなので、後者の場合を掘り下げる。研究に応募した当時、彼の周囲ではアーミーを悪の組織みたいに差別する風潮があったであろうことを考えると、帰ってこられない方に賭けたはず。であれば、その先の成長を任せられる組織にする。


 ふと思い出す、むかしに見た映画では教会に預けられる描写があったが、この世界には宗教がない:神がいない。なのでそれを除き、親のない子どもを育てることができる施設と言えば、慈善団体だとか――――孤児院とかだろうか。


 立場のある親戚か、様々あるであろう施設のうちの孤児院か。大雑把な二択にはしたが、まだ見えてない選択肢があるかもしれない。かも、だろう、はず、その言葉がいくつも並ぶ、ニコに言わせれば『不確定要素の塊』みたいな考えだが、カイに言わせれば『普通に考えたらそうなる』アイデアだ。もうこれに賭けるしかない。


 そうなると、今度は足がいるか。と想像はするが、マッスルガジェットで強化して駆け抜けるくらいしか思い付かない。アンカーブレードで赤いスーツの蜘蛛ヒーローのようにビルの間を飛べば……いや、それだとビルを穴だらけにするな……。


「どうした?」


 後ろからオークラーの声がして、閃きと共に振り返った。そうか。三十二部隊へ会いに行ったときのように、彼女に車を出してもらえばいいかもしれない。


 だが……どうしよう。突然レインに会いに行く理由がない。ニコの裏切りに関係がないところだから……事の顛末を話しても大丈夫だろうか?


 いや、オークラーさんを疑うとかナンセンスだろ。バレたらおれのせいでいいから、言おう。カイは意気込んでひとつ大きく息を吸った。


「あの、孤児院に行きたいんです」


「な……い、今は忙しくてな。その、どうしてだ?」


 明らかに様子がおかしかった。そこでもう、ピンときた。


「レインって子に会いたいんすけど」


「だ、ダメだ! その……とにかくダメだ」


 やはりだ、と確信した。誤魔化すのが下手だというのも知った。


「知ってたんすね。ジェイクさんの娘だって」


 その一言で、あっさりと崩れたようで、彼女は観念したかのように目を伏せた。


「すまない。騙すつもりはなかったんだが……」


「いいんす。気遣ってくれて嬉しいんすけど、もしかして連れてきたのも四十七部隊オークラーさんとこだったりします?」


「そうだが、どうしてだ?」


「緊急事態なんすよ! 実はそうだって知らずにレインちゃんと会ってたんです」


 彼女は目を見開き、悔しさに瞼で瞳を押し潰した。


「……やっぱりお前に教えておくべきだった。判断ミスだ」


「そこはいいんで急いで車出してください! よりによってニコさんが対応に出ちゃったんです!」


 その言葉で今度は、目を真ん丸に見開いた。


「それを先に言わないか! あのロクデナシじゃ悪化するだけだぞ! 急げっ!」


「あざっす!」


 二人してすごい勢いで駆け始め、あっという間に駐車場のホバーへ乗り込む。


「間に合うか分からんが、急いで先に行って待ち伏せしよう。それでニコを捕まえたら次の問題だ」


「レインちゃんにどう説明するかっすね」


「いいや。その前に、追い付いた警察とひと悶着ある」


 急激なアクセルで身体がシートへ押し付けられ、カイは掴まれそうなところをしっかりと握った。道路に出たところで更に加速。ホバーはグングンと上昇していく。


 まさに空飛ぶ車って感じだが、周囲にこれだけ高く飛んでいる車は無いし、何より警報音が鳴りっぱなしになっていた。


「オークラーさんヤバくないっすか!?」


「小難しいことは知らんが、速ければ速いほど高く浮くらしい!」


「じゃあみんなもっと低いところ飛んでるのって!?」


「法定速度だからだろうな!」


 曲がる時にはバイクレース並みに車体が傾き、車の景色で下の方に見切れて見えなかった通行人が、やや頭上に現れた。しかし一向に止まる気配がなく、ビルの壁面ギリギリで急に勢いが殺されて衝突を回避。ホバー下面のジェット噴射が、近くに地面がある前提で作られているため、空中で曲がるためのブレーキがあまりにも弱かった。


「着く前に死にそう!」


「死なないよう捕まっておけ!」


 景色がグングンと変わっていく。さっきまでビル群の中にいたのが、住宅街の屋根の上を飛び、山の中腹に向かっていく。


「もっと上っすよ! 上がって!」


「く、燃料Ppが足りん! これじゃ山を避けても徒歩だぞ!」


 タンク残量は普通ならば行って帰るのも余裕なほどあったはずだった。しかし過剰な加速では運転の最高効率点を大きく外れ、より過剰な燃料を消費する。メーカー想定外の運転をして、あっという間に底をついてしまった。


 カイは『徒歩でもいいんじゃない? ニコさんが死ぬわけではあるまいし』とは思ったものの、状況による緊迫感によってそれが口に出ることはなかった。


「ボトルどこっすか!」


「タンクか!? 後部座席の右側だが……」


 カイは助手席から後ろへ飛び出し、言われた位置に右腕をかざしてみた。すると腕の中に妙な感覚があった。これでタッチレスチャージャーのペアリングをハッキング完了だ。


 授業のお陰で、何が起こっているのかちょっと分かるようになっていた。


「む、これは……。よし、カイ、掴まれ!」


 ホバーが加速しつつ上を向き、グッと強烈にブーストした。カイとリィラを追い掛けたホバーが壁に挟まったときに脱出できたのは、この強烈なワンセル・ジェット噴射装置のお陰だった。


 ホバーが上を向いて角度をつけ、スタックしてもないのに緊急脱出ブーストしたことにより、強すぎる加速でカイは後部の壁に張り付けにされた。前方の窓には空しか写っていない。


「ぐぇ……」


「いったいなにをしたんだ?」


「じ、実はニコさんに何か埋められました!」


「埋められた!? あ――――だからマシンガンが満タンで返ってきたのか! 知らせておけあのバカ!」


 走っていると、急に重力が消えた。山の頂上を越え、慣性で落ちているらしい。その隙にカイはフワフワと助手席に戻り、シートベルトを着用した。


「孤児院ってあれっすか?」


 ちょうど目前に、大きな館があった。その大きさや周囲の自然に対して庭は狭いらしく、館の少し前方に場違いなホバー車が停まっているのが見えた。


「手遅れだったか。お前は……いや、ニコを連れ戻してくるから車内で待っていろ」


「いや行くっすよ。ふたりで無理やり連れていきましょ」


 ホバーの直上加速度は重力加速度を打ち消しきれず、ドスンと車体が地面にぶつかる音がして二人とも突き上げられた。もしかしなくても、このあと修理に出されることになるだろう。


「カイ。レインと出くわしたらどうする?」


「出くわす前に逃げるんすよ。中でなんか揉めて、しかも警察まで来たらやべぇっすよマジで」


「む……じゃあ、これは命令だ」


「一応、四十七の一員じゃないっすよ。ほら書類上?」


「ええい、ニコみたいな屁理屈を――」


 オークラーが黙り、急ブレーキで止まって車から飛び出した。


「オークラーさん!?」


「銃声だ! 行くぞ!」


 車から玄関まで全力で駆け、開け放たれた入り口に立つ。


 目の前に、ニコはいた。


「や……だぁ……オークラぁー……!」


 偶然なのか。到着の音を聞いたのか。ニコはまっすぐに、オークラーへと手を伸ばしていた。


 それが見えた瞬間に、大きな銃声と共に彼女がビクりと痙攣し、床へと沈んで動かなくなってしまった。たどり着いて、一瞬のできごとだった。


 カイの目には、惨劇が見えていた。


 いつか、この身体の主の娘と知らずに出会った女の子の手元からは、硝煙が登っていた。


 いまオークラーの名を呼んだニコは、うずくまって苦しむでもなく、力なく開いた指は少しも動かなかった。


 ニコに呼ばれた、オークラーは。


「……ニ……コ……?」


 ニコに飛び付いて、顔に手を添えながら、身体を揺すった。


「ニコ! ニコ、おい! しっかり……」


 オークラーの、涙の混じった声が響いて、レインの銃口が、ゆっくりと降りていく。少女の顔には、決して復讐を果たした愉悦などなかった。


 オークラーを見つめて、涙を流していた。もう少女に憎しみはない。あるのは後悔のようだ。


 到着と同時に音を立てて起こった惨劇が、静かに終わっていくようだった。


 だが。


 オークラーが顔あげ、少女を見る。部下が怪我させられただけで、部下を襲った村人を信じられない早業で殺しかけた。そんな部隊長の表情が、レインの恐怖に染まった顔から間接的に見えた。


 カイの目には、これからの、惨劇が見えていた。


 見えたことを冷静に判断し、十分な決断を下す余裕が無いことも、知っていた。


 気付いたら時には、オークラーはすでにレインの目前にいた。


「あ……」


 少女が声を漏らして尻餅をつく。その目には、オークラーの憎悪に飲まれた表情ではなく、彼女の腹から突き出した、Pp色に輝く疑似物質ソリッドの刃の先端が映っていた。


 アンカーブレードの刃から、アンカーロープがカイの右手へと伸びていた。


 カイは、何かを決めて撃った訳ではなかった。オークラーの凶行を予感したあと、カイの〝私の部分〟は少女のいままで感じたこともないほど大きな憎悪を受け止めきれず、ただぼうっと『レインちゃんが殺されたら、誰がオークラーさんを襲うだろう』なんて思っていた。孤児院にいるくらいだからきっと、あの子の親はジェイクだけだったのだろう。


 そして、撃ってしまってから、見過ごしてしまっても復讐の連鎖は起こらなかったのだろうなと至り、そこから始まる倫理的な問いに対する思考が始まるはずだった。だが、その頃には時間切れだ。背にアンカーブレードが刺さったオークラーの姿があった。


 全ては、あっという間だった。綺麗に判断する時間だけがなかった。残ったのは一つ。『なんでそう動いたんだろう』という後悔の問いだった。


 アンカーブレードを切り、床へ倒れ、痛みに喘ぐオークラーを介抱する。


 目前には、思い出したようにカイへ銃を構えたレインがいた。いつかT.A.S.隊員に向けられていたときとは違う拙さがあり、あの子は真っ直ぐに構えているつもりだろうが、明らかに銃口が斜めを向いていた。


「……パパ……」


「……違うんだ。おれ」


 どう説得すればいいか。それを考える時間もまた無かった。だがそんなこととは無関係に、カイは口走っていた。


「レインちゃんのお父さんは、おれがどうにかしたワケじゃないんだ。おれが来た頃には……」


「……ちがうよ! パパだった! うちにきたとき、パパだったよ!」


 彼女は、カイにではなく、ジェイクに話しかけている。カイが口を開けば、期待とは違う答えしか出てこないのだ。


 あの子は、来もしないジェイクの言葉を待っている。


「きっとそれが……。ジェイクさんはそのあと、その……世界を守りたい計画で、死んじゃったんだ。おれが来たのは、その後だった」


「ウソつかないで! パパにもどして! パパ!」


 彼女は銃を落とし、駆けて、カイの両肩を掴んだ。


「……ごめん。……お父さんの身体、勝手に使って……」


「ちがうよ。パパはパパだよ! 目を覚まして! ヘンな人みたいにならないでよぉ……!」


 目の前にあるのは、想像さえできない苦痛。


 感情を読み取れすぎてしまうカイを、簡単に押し潰すほどの哀しみだった。


「本当は、おれも死ぬはずだったんだ」


「え……」


「死んで、心が消えちゃうところだった。それが、きみのお父さんがね、身体を使っていいよって、貸してくれたんだよ。だからおれは、生きてられた」


「…………」


「ジェイクさんにはおれ、感謝してもしきれないんだ。だから――――」


 この子に、こんなに愛された男はどんな人生だったのか。自分が死んででも、この子のために生きていくカネを作った男がどんな人間だったのか。


 少なくとも、悪人じゃなかったことは分かる。


「――――おれだって、ジェイクさんが死んじゃって悲しいよ。おれも話とかしたかった。ちゃんと、お礼言いたかった」


「……やだ……やだよぉ……」


「レインちゃん。お願いだ。この人たちを、助けさせてくれ。貸してくれたジェイクさんに、後悔させたくないんだ」


 レインは銃を下げ、へたれこんで、ただ泣き崩れた。


 少なくともあの殺意は、もう無かった。


 足元のオークラーは、そんな少女を見て、目を閉じ大きく息をはいた。いつの間にか腹部に刺さっていたブレードは小さくなっている。


 身体に流れているのと同じPpとはいえ、こんな塊が身体の中にあったら大変だろう。


「すみません。抜きますよ」


「あぁ……やれ……!」


 ブレードの先端をつまみ、引き上げた。彼女の腹から細いブレードがするすると抜ける。時間で小さくなっていくことが、こんな利点を持つとは。


「オークラーさん。これを」


 彼女の腰に装備されたボトルを取り、首に当ててフル充填してオークラーへ渡した。彼女は仰向けになってどうにか飲んだ。


 その彼女を置き、ニコの元へ。やはり動いていない。彼女のふさふさの髪のせいで、どこが撃たれたかもよく分からなかった。


 顔を覗く。ゆっくり、ゆっくりと瞬きをしているようだった。


 背筋をゾクッと冷たいものが走った。


 むかし、ペットを飼っていた。その子が死ぬ前日に、こうやって、呼び掛けにも応じず、こんなゆっくりとした瞬きだけをしていた。


 ニコはまだ生きている。


 だが――――。


 ――――もう死ぬ。


 自分には、ガジェットの知識なんて無い。気絶したクレイを救った方法が使えない。


 自分には、医学の知識もない。ニコへ適切な応急処置を施すことはできない。


 おれ、なんにもできないじゃん。馬鹿でいいことなんか、ひとつもないよ。なんで、命を助けるスキルの一個でも持ってないんだよ。


 神様は地獄さえも見ているのだろうか。ニコへ、いかに最悪な形で罪を償わせようと、躍起になったのだろうか。


 カイは目線を動かさなかったが、違うものを見ていた。ニコの奥、地面の、その先。ここが地獄で、地球の裏側ならばきっと、向こうが現世の空てんごくなのだろう。


「すんません神さま」


 カイは小さく呟いた。


 そうだ。おれは馬鹿だよ。だから――――。


 そうして、両手を胸の高さに持ち上げる。


「おれ、そーいう結末キライなんだわ」


 ――――こういうバカなやり方しか思い付かねぇんだよ。


 アンカーブレードを起動し、右手に疑似物質の刃を生み出した。


 そして――――左の手首に叩き付ける。


 刃は手首の真ん中で止まった。


「が……あぁあ!」


 クソ。一発でスパっていけよ。


「カイ……!」


 オークラーの声が響いたが、静寂のように聞こえなかった。


 痛ってえだろふざけんな。


 身体ごと捻り、生存本能を無視して右腕を引っ張った。


 途端に感触が軽くなる。そして、左手には激痛以外のなにも残らなかった。


 Ppが、冗談のように噴射している。


 そして、アンカーブレードを服の間から覗くニコの腹へ当て、引いた。肉が、ぱっかりと割れる。


 このままPpを流し込んだらヤバいということは、心を破壊する『Ppサージ』という用語だけで理解できた。だからカイは、アンカーブレードを側の壁へ発射した。それからそのロープを伸ばし、斬った左腕に一回りで巻いて量を調整しようとし、そのときくらっと目眩がした。


 なんだよ。無限にPpがあるんじゃねえのか。なんで……。


「カイ!」


 ほどけかけたロープをオークラーが掴み、引っ張って絞めた。その痛みで目が覚める。


 それから、痛みで気絶しかけたとやっと理解した。


「む、無茶苦茶を!」


「見殺しに……するくらいなら……」


「分かってる! やるぞ、気合い入れろッ!」


 オークラーと共に、ニコの切り裂いた腹へ、切断した左手を挿入した。それから、わずかにロープを緩め、Ppを流していく。


「ニコ……」


「だいじょ……大丈夫っすよ……」


「ああ、きっと大丈夫だ。分かってる」


 オークラーは言うが、そうではなかった。


 左手が体内に入っているのだ。彼女の、内蔵の動きを感じられていた。傷口を撫でられるたび、激痛に苛まれていた。


 痛みが、自分とニコの生を教えてくれていた。


 彼女の様子を見ながらロープを絞めたり、緩めたり。


 傷口が絞まろうとして、カイの腕を絞り始めていた。その痛みもまた、意識を飛ばそうと吹いていた。


「呼吸が戻ってきた」


「……っすね……」


 呼吸が戻ったのだろうか。よく分からなかった。どういうわけか、とんでもなく眠い。それは寝起きの、布団から出られない苦しみに似ていた。


「おい、カイ、起きろ!」


「……ぅう。起きてるっすよ!」


 気合いを入れて叫ぶ。永遠に感じる時間が過ぎたが、きっと現実では刹那に過ぎないのだろう。


「もうそろそろ大丈夫だ。あとは起こして、ボトルで飲ませよう」


「うす……」


「これを」


 彼女に差し出されたのは、切り飛ばした左手だった。拾ってから来てくれたらしい。


「くっ付ければ治る」


「……うす……」


 いつもなら『治るんすか!?』とでも叫ぶところが、生返事しかできなかった。眠い。ただ、だるい。それを耐えながら、手を腕にくっ付けてみる。


 また痛みがパッと開き、スヌーズのように目が覚めた。


「……ありがとう。止めてくれて」


 彼女は、目も合わせずに呟いた。


「今回のやり方でPpサージが起こるかどうかは分からん。もしどうなっても……感謝している」


「…………っす」


 腕がくっつき始めたからか、急激に意識が戻ってきた。見ると、傷口が冗談のようなスピードで塞がっていっている。気付けば、ニコの腹の大きな切開傷も塞がっていた。


 ファイマンほどではないが、恐ろしい治癒速度だなと、ようやく冷静に考える余裕が出た。


「……やれやれ。やっと来たか」


 彼女が入り口を振り返れば、カイの耳へやっとパトカーの音が届いた。


「カイ。今回のことでは黙秘してろ。それで事が済む」


「で、でも……」


「状況は私の方から言っておくから、余計なことを言うな」


「……うす」


 警察の者が銃を構えて数人。やって来たと思えば、カイとオークラーを見て銃を下ろした。


 どうやら、こっちは平和的に解決できそうだ。そう思って立ち上がったとき。


 カイは、自分の左手を表裏逆にくっ付けていたことに気付いた。




――Okhra――

 病室で、オークラーは外を眺めていた。診察に来る患者たちの往来や、稀に救急車が入ってくるのが見える。それと、過剰と思えるような数の警備が巡回していた。


 モリモトを襲撃した爆破テロを受け、全国の病院で警備を増やしているのだという。テロが起こった原因とは程遠いところでも、だ。


 特定の人物を狙ったから病院で起こったテロだが、テロが起こったという事実が病院という安全圏を脅かしたように広まって、病院であるというだけで防衛を強化してしまう。テロの余波とはそういうものだ。


「博士。……ニコ」


 オークラーは、その景色を眺めたまま、背後のニコへと呟いた。


「サドに頼んで、カイの状況を聞いてもらった。無事に釈放はされたが、どうやら私たちどころかリィラにも会えないそうだ。罪悪感、だろうな。おかしいものだ。こっちは感謝さえしているのに」


 返事はない。


「私たちこそカイへ罪悪感を感じるべきなんじゃないのか? お前はレインの家族を奪った。私は、レインを殺すところだった。そうだろう」


 返事はない。


 オークラーは振り返り、ニコへと向いた。


「聞いてるのか。お前に言ってるんだ」


 彼女は空腹の獣のような、不機嫌な顔で、腕組みをしていた。


「聞いてるよ。わざわざ言われなくたって分かってる」


「そうか。それが、嘘じゃないと良いんだがな」


 ニコは不服そうだったが、オークラーは過剰に責めることはせず、話を続けた。


「カイに止められなければ私も、取り返しのつかないことをするところだった」


「……カイ君は、よく止められたねキミを。隊員でも無理だって噂じゃないか」


「恥ずかしながらな。それを知ってるからこそカイは、私の背中にアンカーブレードを撃った」


「なんだと! アイツは――――」


 今度はニコが感情に駆られそうになったところを、腕を掴まれて止まった。オークラーは、信じられないほどに力が強かった。


「カイの判断は正しかった。レインと同じ動機で私は、あの子を殺すところだったんだ。復讐を復讐する泥沼を止めてくれたんだぞ」


「だ、だがブレードを撃つことないじゃないか!」


「なら、スタン・バーストか? 床で倒れていた重傷のお前が巻き添えになったかもしれん。フラッシュ・バンなら、私が背を向けていたのだから効果は薄い。最善の一手だったと評価している」


「だが……」


「一方で分からんのは、お前だ。ニコ」


 名を呼ぶと、ニコはピタリと止まった。


「なぜレインを連れてきた。あの子を放っておいてやれば今回のようにはならなかった。あの子に全てを話すならそうすべきだった。あの子を育てるならそうすべきだった。だがお前のやったことは、誘拐みたく連れてこさせて、ただ知らない環境に軟禁して、その挙げ句、いちばん会ってはいけない者に会わせて、そうなったことにも気付かずのうのうと過ごしていただけだ」


「……そんなに言わなくとも」


「そんなに? まるで足りないくらいなのをこれくらいで済ませてるんだ。いつもなら機械的にレインを見捨てる判断をするお前が、どうして、子どもじみた贖罪なんてしようと思ったんだ」


「…………さぁね。わたしはいつも、深く考えて行動しないんだ」


「罪悪感を感じて、突発的に行動したとでもいうのなら、ちょっとは嬉しいニュースだ。お前の人間らしいところを見られたような気がしてな。だが――」


 彼女は、切なさを胸に秘めておけず、その悲痛な表情に溢れさせた。


「――どうして、その罪悪感を私に感じてくれなかったんだ」


「…………」


 ただしおらしげに、ニコはベッドに収まり直し、オークラーへ背を向けながらシーツを被った。


「……どんな形で、博士呼びから戻るのかなって、思っていたんだけどな」


「私だって、あんな形で呼ばれるなんて思っていなかった。今際の際の、命乞いでだなんてな」


「ちがう。命乞いのためなんかじゃ……」


「何が違うものか。こんな形でお前に向けていたシールドを捨てて、ナイフで身を守りたくなかった」


 言いながら立ち上がり、病室の入り口へ向かう。


「オークラー。その……」


 呼ばれて立ち止まり、少ししてやっと振り向いたオークラーの顔には、表情はなかった。


「あいつに手を汚させた、私やお前の方が恥じるべきだと、まだそう思えるか」


「…………思ってるよ……」


 オークラーは僅かに微笑み、「よかった」と一言を残して出ていった。


 病室の外、廊下を曲がったところで、壁に背をついて立った。


 本当はあの瞬間、命乞いをされたわけではないと分かっていた。ニコは、自分が到着するより早く、入り口へ手を伸ばして、オークラーの名を呼ぼうとしていた。


 救って欲しいからか、後悔があったからか、どちらにせよ、今際の際に想ったのは自分だった。


 ――――そこまで想ってくれているなら、どうして、なにも行動してくれないんだ。


 謝って欲しいわけではない。反省して欲しいわけでもない。


 私はただ、私だけが意地になっているだなんて思わせないで欲しいだけだ。


「……このバカ」


 退出するときの寂しそうなニコの表情へか、その顔を想って寂しくなってしまった自分へか、オークラーは呟いてまた歩き始めた。

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