ミィの一歩
――Phiman――
カイと、デートだ。ファイマンは待ちきれない気持ちでアジトへと戻ってきた。
早く会いたい。こんなのアマベ以来だな。
ミィとなる段階になり、カイとのキスを思い出して、抑えきれない楽しみが焦燥となって全身を巡った。
焦るな。メイクに失敗する。そう思うほど、焦がれていく。
「……ファイマン」
願い叶ったりか、嫌でも冷静にさせてくる存在がやって来た。
「なんだ」
彼女は何も応えず、注射器をファイマンの腕に当て、何かの液体を注射した。
「それは?」
「…………」
彼女は黙々と、二本目、三本目と、注射を続ける。光っている色からしてPpのようだが、ひどく濁っていた。
「前に注射されたものも、結局効果は分からなかっただろ。なにをしてるんだ?」
「……あれは〝人類の夢〟よ。……多くの人間は、あんなものを欲しがってるの」
「人類の夢? なんだそれは」
いや、とファイマンは首を振る。
「あれもこれも、どんな効果は知らないが後にしろよ。戦闘の予定は無いんだろ」
「……いま、すぐに」
「…………」
いつものようには従えなかった。
だが、従うしかなかった。
「じゃあ、早くしてくれ」
黙ったままのクロウディアに従って、いつもの訓練場――ではなく、奇妙な部屋に連れていかれた。
窓も無く、明かりもない。白く、頑丈な壁に囲まれた、出入口の他に何一つない部屋だった。
開けた扉から入る光と、ファイマンの目によって、その様子がわかった。
それと、どこもかしこも黒く焦げているところも。
ガシャン。と背後で閉まる音。随分と重い扉のようだった。
「これは何をする部屋だ?」
暗闇の中で振り向けば、扉の覗き窓。
クロウディアが醜く笑っていて――――。
――――。
――――暗闇の中で、アマベの呼吸が聞こえていた。肌を撫でる感触があって、近くにあったアマベの熱が離れて、カチャリと持ち変える音がして、また呼吸が近くなる。
不思議なくらいに、優しく触られている。瞳孔の確認のため瞼を捻り持ち上げられることも、口腔内の確認のために口をこじ開けられることもない。
まるで、手作りの爆薬を扱うように、古い本を扱うように。
「あ、こら笑っちゃいけません」
ファイマンはまた口を結んで耐える。
くすぐったさは、痛みとは別のものであった。こんなのは初めてで、皮を剥がされるよりも大変だった。
柔らかいものが顔に当たって撫でて張り付いて、まつ毛を僅かに引っ張られ、くちびるを何かがなぞって、繰り返し、繰り返した。
「……うん。目を開けてみてください」
許可に従えば、信じられないものが目前にあった。トイレの鏡に写るアマベの顔と、もうひとつの顔。
「ど、どう……?」
やはり、顔が良くなった。目線、瞼の動きが一致するから――当然だが――間違いなく自分の顔なのだ。だが、訓練場などの鏡で見る自分とは、まったく別物だった。
自分じゃない自分が、目前にいる。
なんとも奇妙だったが、不思議と胸が弾んでしまうファイマンだった。訓練スコアが大幅に上がったときのようだ。
「……これがカワイイか……?」
「あ……ち、違った? 元が良すぎてあんまりいじれなかったんだけど……」
「違う? 違うってどういうことだ」
「良くならなかった? ってこと……あ、ことです」
また鏡を見る。答えは明白だった。
「うぅん。良くなった。すごく……良くなった」
言葉にしたとき、なんだか嬉しくなって、はにかんで笑った。すると横で「か、可愛すぎる……」とうめき声が聞こえた。
やっぱりそうか。こういうのを、カワイイっていうんだな。覚えたぞ。とファイマンは満足げだった。だが、確認はするべきか。
「カワイイっていうのは、化粧で顔が良くなったら言うのか?」
「ん~……。そういうときもあります。可愛くなったら、可愛いって言うんですけど……」
「じゃあ、カワイイってなんだ」
「そー……れはー……。今のあなた、ですかね。説明が難しいな」
ファイマンは首をかしげるしかなかった。どうやら不思議な世界が広がっているようだ。
「……うぅん」
「どうした?」
「いや、短い髪もいいんですけど……。こういうタイプの顔だと長い方が好きですね。そうだ、ウィッグを買いましょう!」
「ウィッグ?」
「もっと、変身しようよってことっ! ……です!」
また知らない単語だが、聞きはしなかった。
きっとカワイイは、聞くより見た方が早い。
「じゃあ、すぐにでも行きますよ!」
アマベと共に、パーカーのフードを被って街へ出る。基地から出るのは初めてではない。護衛などと共に車で、正規軍への成果発表として会議室へ同伴することが何度かあった。
だが、命令とも独り言とも取れないアマベの言葉では次の行動が定められず、どのような攻撃があった時にどう動くべきかがまるで分からない。
積み上げたものが改造によって崩されていく、あの焦燥が胸を撫で始めていた。
目的は分かった。だがそのために、ボクはなにをすればいいんだ。
列車の外の景色は、片方が明るく片方が暗い。停まれば、その明るい方角へとアマベが手を引いた。
「行きつけの所はこっちの方が近いです」
遠くから見ればどこも明るい街が、近付いて見れば暗い路地ばかりだ。それに、大小様々な大量のパイプラインたちが、あらゆる所から出て、あらゆる所へと入っていく奇妙な光景だった。訓練施設にもパイプラインは通っているが、視界に入るのは多くとも三本。しかし今は――デザインに隠されたものも含めて――何十本ものラインが、あらゆるオブジェクトたちへ絡み付いている。
ファイマンは暗い路地の一本へと、手を引かれて入っていく。
ブロック状の壁に挟まれた路地。こういうところでも、戦闘することがあるのだろうか。
「お、可愛いじゃん」
壁際に立っていた男とすれ違うとき、不意に声をかけられた。どう対応すればいいか、アマベを見ると、彼女は首を振って先へ行こうとした。
「それは、安全のために自分だけ離れるという意味と、共に離脱するという意味のどっちなんだ」
彼女に聞いてみた。普段ならば許されない行為のはずだが、アマベになら、聞いても良いような気がして、不思議だった。
「あ、なんだよ、キモチワリィな」
ふと隣から、気配がした。声に含まれる成分。体重の移動。言った本人が気付けないほどの感情の機微。
――殺意――――。
それは本能だった。男の腕と脚が反対へ折れ、首が一回転して千切れ飛ぶ。その間に誰一人、一切の声を漏らすことはなかった。
アマベ以外は。
「ひっ――ぁ――!?」
「どうした」
彼女は素早く周囲を見て、それからファイマンの手を取った。
「に、逃げます! はやく逃げなきゃ……っ!」
「了解」
アマベの手を引き返し、身体を抱き上げた。
「へ……?」
それから、周辺のパイプラインに足を引っ掛け、あっという間に屋上へと出た。
敵がこちらを探すときには、優先順位がある。まずは地上。自分の周囲――攻撃の有効範囲に存在しないかを確認する。それから、空中だ。本能的にそうしてしまうらしいことは、教えられずとも経験則で分かった。
それから、逃走にあたっての鉄則を考える。逃走者を追うとき、追跡者は『逃走されたら困る方角』と『逃走者が逃げたいはずの方角』を潰す。人員と時間が限られる中で、『逃走者にとって不利な方角』は滅多に対策されないのだという。
ファイマンはアマベを抱きかかえたまま、向かっている方向、大通り方角へと全力で走った。
「え、ちょっ、ちょっと!?」
「捕まってろ」
「はっ――――」
飛び出す瞬間。彼女は息をのんだ。空を切りつけ、常人の何十倍もの距離を飛び、六車線道路を遥か下に飛び越して、向かいの施設の屋上へと着地した。
「……! ……!!」
声にならない声をあげながら、アマベはファイマンへ無言の訴えをおこしていた。
「どうした?」
「こわ……こわかった……!」
怖かったからなんだというのだろう。よく分からなかった。
「逃走距離はどれくらいを想定している」
「も、もう十分です」
「了解」
「あのですね、いいですか――」
彼女はまた、周囲を確認した。ベンチなどが置いてあるものの、周りに人はいない。
「人をですね――いえ。……ええと……」
「…………」
「ですから……。……っ! そう!」
彼女はファイマンの顔を、指差した。
「可愛い時に、人を殺すのは禁止です。これは命令です」
「了解……いや待て」
また、自分の行動に驚かされた。了解してから訂正するなんて初めてのことだ。
「カワイイ時は……どんな時だ?」
「えっと。じゃあ、私が可愛いと思ったときで……」
「確認すればいいか」
「はい。そうしてください」
「了解」
そそくさと階下へ向かおうとしたアマベが急に振り返り、指を立てた。
「……あと、これは人間社会でのルールですが、今回のように悪いことをした場合には謝罪が必要です」
「悪いこと……?」
今まで、間違えたことに対して責めることなどなかったアマベが、急に叱る顔になった。
ファイマンには、彼女の基準が分からない。通達はなかったが、評価基準の改定があったのだろうか。
「人を殺すのは……えっと、任務の対象となっていない一般人を殺すのは悪いことです。いかなる理由があれ」
「一般人?」
「あ……えぇっと……。ちょっと待ってください」
彼女は考える。その思考は、口から漏れだしていて、耳に調整の入っていたファイマンなら全てを聞き取れた。
「そっか。攻略対象と司令塔だけで成り立っていたのだから他の属性はない、か。でも属性外の存在を殺した……。ムカついたからだと仮定したら、前任者はとっくに殺されて……」
それからハッとして顔を上げた。
「どうしてあの人を殺したんですか?」
「訓練対象が攻撃をする前と同じ状態だったからだ」
「状態……感情。殺意ってこと、かな。やっぱり、そこの機微を感じ取ることはできるみたいですね。ですから……よし。じゃあ……」
彼女は本当に分かりにくいと思った。どこが独り言でどこが指示なのか。前任者よりも混ざっている。
その点、右手の人差し指を立てているこの瞬間だけは分かりやすい。
「ルールを決めます。まず、偽名です。今回のように野外活動をする場合は……そうですね……いや、野外活動に限定すると後々に影響が出るし……あ、そうだ」
やはり分かりにくかった。指示と独り言をシームレスに繋げないで欲しかった。
「特定の条件内では、あなたじゃないあなたとして活動してもらいます」
「ボクじゃないボク……」
鏡を見たときに、見つけた人のことだった。その人は自分じゃないのに、自分が動かしている。そう考えると不思議な感じがした。
「そうです。特定条件とは、今のように可愛い時のことです。このときあなたは〝ミィ〟と名乗ってください。少なくとも、私がミィと呼んでいる間は、可愛いということです」
「了解」
「ミィである期間の、殺人や暴行……つまり一切の武力行使は禁止です。殺害だけでなく、暴力――殴ったりするのも全て禁止。ですが例外として、身を守るためなどに相手の武器を破壊する行為などは認めます」
「了解」
「またミィである間は、ファイマンとしての活動内容の全てを秘密とします。ミィとしての活動以外のことは、関係者外の誰にも言ってはなりません」
「了解」
「よし。いいですね」
「ところで」
「はい」
「謝罪ってなんだ?」
「えっ」
彼女は驚いた顔をして、それから硬い笑顔になった。
「……悪いなって思ったらごめんなさいって言うんですよ」
「悪いなって思う……?」
「…………な、なんかニコ先輩みたい……」
アマベは口が苦いような顔をした。
「不必要に危害や損害などを加えた時、相手に『申し訳ないって気持ち』を伝えることがあります。〝ごめんなさい〟という言葉を使用します。命令外の殺害を行ったので、まずは反省です。ね?」
「了解。ごめんなさい」
あまりにも心がこもっていない謝罪に、アマベはさっきのような顔をした。
「ホント、ニコ先輩みたい……」
――Me――
来たのは多くの廉価な化粧品や、様々な種類の――はずなのに何故か偏っている――服たちを売っている店だ。しかしファイマン――ミィの目には全てが同列の『服』でしかなかった。実用性がなさそうなものがいくつか見えるだけだ。
店に入る上でファイマンに課された命令は、なるべく自分からは発言しない事だった。
店員がアマベに気付くなり、服の確認作業をやめて小走りでやって来た。
「テンブさん。いや〜この間の『トモコ』よかったですよ〜。『
「いや〜けっこうチャレンジでしたよ。姿勢のせいでお腹がどうしてもね〜……」
「いやもう、ぷにっとさせた方がいい。なんならもっとぷにっとさせよう」
「え〜? でもな〜……」
知らない単語たちだが、テンブは分かった。アマベが見せてくれたSNSの写真に付属していた文字列であった。つまりあれはアマベの偽名なのだ。
「えっと、その子は?」
「ふふん。逸材。ミィ、パーカーを取って」
「了解」
言われた通りにすると、店員が目を見開く。
「え、おと……男性さんだったの……? すっご……」
発言を求められている訳ではないはず。ミィは命令通りに黙っていた。
「あ、自己紹介しなきゃね。僕はナセルで〜す。よろしくぅ」
彼は親指を立て、顔の横で振る動作をした。
「よろしくぅ」
ミィも、全くおなじ言動をした。挨拶には同様の挨拶を返す。すると相手は「ノリ良い〜っ」と笑った。
よし。成功だ。そう思ったが、アマベの方は気まずげに手を弄っていた。
これは……失敗か?
「ホント可愛いですねぇ。あ、なんか、SNSとかやってる?」
「SNS?」
質問であるので返答する。が、知らない単語だったので聞いた。
すると相手は、キョトンとした。
「え?」
アマベが間に割り込む。
「ちょぉっと変わった子でぇ! 発掘したばっかりなのでそういうの無くてぇ」
「え、そうなんだ?」
「と、とにかく、例のウィッグを買いに来ました」
すると彼は指を差す。
「もしかして、あの超ロング?」
そしたらアマベも指を差し替えした。
「そう。あれ、ミィちゃんならいけると思って」
とりあえずミィも、指だけさしておいた。
「お、やる気すんごい。じゃあお待ちください」
彼は店の奥へと引っ込んで行った。
「……なにか間違ったか」
「間違った?」
アマベもまた、キョトンとした。
「挨拶だ。相手は喜んだが、お前は違った」
「あぁ……ちょっと恥ずかしいというか……」
彼女はまた同じ顔をしたが、顔をふって、微笑んだ。
「でも、あれでいいよ」
「……いいのか?」
「うん。可愛かったし」
やはり、よく分からなかった。
「言い忘れてだけど、ミィのときは休めの顔だよ。ミィのときは、可愛いに全力出そう? ……だ、出しましょう?」
「了解。なにかすべき行動はあるか」
「すべき行動? えっと、じゃあ……」
ちょっとした動きを教わった。その後、その超ロングと呼ばれたウィッグがやって来た。
ミィのふくらはぎまで届く、少し眩しいくらいのピンク色の髪で、そのシルエットはふっくらとした曲線を描いていた。
「さぁ、どうかな?」
アマベとナセルとで協力し、ミィの頭にヴェールのようなピンクが被せられる。長い毛を額の角の外側へ。短いぱっつんの前髪を、角と角の間に収めて――。
「うわっ、思ったより合う!」
「うひょ〜。似合いすぎてんねぇ」
二人は言うが、自分ではいまいち分からなかった。するとアマベに「きてきて」と手を引っ張られ、試着の鏡の前に立つ。
目前にはまた自分じゃない自分がいた。
ずっとずっと、よくなった。髪だけでこんなに変わるなんて。
「よくなった……」
いや、とミィは笑顔を咲かせてアマベに向いた。
「カワイイなっ」
「あぁ可愛すぎて無理ぃ……!」
「?」
この奇妙な反応はなんなのだろう。少なくともマイナスの感情ではないようだから、間違ってはいないのだろう。ミィはそう納得した。
だが納得できないこともあった。いまはミィであるために言い出せないが。
「ね、ね、ミィ。ちょっとこれで歩いてみない?」
アマベが言うと、ミィは習った仕草を実行した。身体を横に傾け、指二本を真っ直ぐに立てた敬礼だ。
「りょーっ、かいっ!」
アマベは、とにかくだらしない顔をしていた。
――Nico――
とりあえず、今できることは完了した。後で来る機器の、セットアップ以外の全てだ。
そして、信用構築の目的でお出かけさせてみたアマベたちを出迎えたが……。
「ほかの、ああいうのって無いのか」
「いっぱいあるよ! アクセサリーもコスメも。コスメだったらあなた専用に選んであげるからね!」
「ボク専用? そんなことができるのか」
「肌とか骨格とかで変わって来るからね~」
別れた時の格好ではあるが、ふたりの間の雰囲気が違う。
アマベが、と思っていたらなんと、ファイマンまで笑って帰ってきた。
兵器らしく素直すぎるくらい素直だが、生まれてからここまで殺戮機械として育てられてきた彼だ。それがあんなに楽しそうにしている……。いったいどんな魔法を使ったんだ? とニコは目を見張るしかなかった。
「あ、ニコ先輩。ぷっ。どうしたんですかその顔」
ニコは顔に熱を感じつつコホンと咳払いをした。
「楽しいお出かけができたようで何よりだ。こちらも楽しく準備できたとも」
「あ。楽しんできたからって『やっぱり一緒に行けばよかった』って思いました?」
「失敬な。一人でやるセットアップの方が快適だもんね」
それより、とニコは胸を張った。
「ファイマン。やれコスメだなんだと聞こえたが、お化粧でもしたのかね?」
「した」
彼は嬉しそうに答えた。なるほどと頷き、ニコは「どうだったかね?」と聞いた。
ファイマンは「どう?」と聞き返し、少し考え、口を開いた。
「化粧をして、カワイイときにはミィというコードネームで活動し、ファイマンとしての情報を秘密とする。戦闘行為を禁じ、なるべく目立たないよう隠密活動とする」
「ん? ……あぁ。いい方便を考えたね、アマベくん?」
「先輩がよかったんでしょうね」
「分かってるじゃないか。アハハハハ!」
ニコは、改めてファイマンへと向かった。
「いまの『どう』は、『楽しかったかどうか』の『どう』だ」
そう聞くとファイマンは、お出かけの思い出の中にいる顔で、「うん」としっかりと頷いた。
――まるで、ただの子どもだな。
ファイマンがこちらを見た。次にアマベを向いて、首をかしげた。
「これは、何に対する報酬なんだ?」
「え? 報酬?」
「最近のスコアは低かった。それに、なにか達成したことも無いはずだ」
「それは……」
ふたりは見つめあって、同時にニコを見た。それに対してニコは、肩をすくめた。
「報酬ではない。しかし今後、いい子にしているならば可愛くなれるものを仕入れようじゃないか、ファイマン君」
「本当かっ? そうか……」
しみじみと約束を噛み締めていた。こんな表情もできるなんてな。第一印象とは大違いだ。
一方のアマベは、少し不満のようだった。
「次の用があればこちらで呼び出す。ファイマン君。いまは休みたまえ」
「了解」
彼が足早に部屋へと向かっていくのを見守り、姿が見えなくなったとき、アマベがニコへ向いた。
「……先輩」
「不満かね?」
聞くと彼女は頷いた。
「報酬って言えば、まあ、それっぽいですけど、でも」
「でも?」
「あの子にとって、可愛くなることは独立した、平和な喜びです。それを、人を殺すご褒美にするべきなんですか」
ニコは頷いた。
「与えられた役割を全うするため、そのパフォーマンスを向上させるためだ。ただ
「……であれば、他のものでもいいはずです。報酬系を刺激するのであれば、可愛くなること以外のことを。それこそ、現状のスコア管理だけでも改善の余地はあります。スコアをただの数値から、概数的に丸め込んでランク分けをし、自身の現状の位置を分かりやすく明示する、とか」
「一理ある。さて、それでは全てが最高ランクに達したとき、どうする」
「それは……」
「兵器としての運用を考えたとき、必要能力に達させるまででなく、それを持続させる必要がある。スコアの次には何を報酬とするのかね? 外界と断絶した存在に金は効かんだろう。食事や性欲に関することならば、戦場の活動の邪魔になりかねん。であれば趣向品――それも、酒などのパフォーマンスに影響が出ない範囲の物を与える」
「ですが、よりによって本人にとって大切なものを、報酬にするなんて。他の、なにか……」
「残念ながら、そこは解決できん」
アイデアを出そうと構えたアマベが、不意を突かれて固まった。ニコは顎に手を当て考える。
「キミが問題にしている点。解決したい点は、ファイマンにとって大切なものを利用するな、ということだと思う。そこの認識は合っているかね」
「……そこに加えて、こう、平和的な趣味を殺しのために活用する点が……」
「気に入らない、だね」
そう言うとアマベはムッとして、腰に手を当てて前傾姿勢になった。
「そ、そうではなくてですね! ちょっと、言葉が出てこないだけです」
「もしかして『気に入らない』ってのは理由にならないのかい?」
「いいえ! ……ん? いえ、理由に……え?」
噛み合わず、ニコが吹き出した。
「わたしはなると思う。人間の行動など、すべて後付けで動機を語る『学部生の研究目的』ではないか。芸術みたく、言いようひとつ、解釈ひとつを抱いて生きている人間でしかないではないか。『感じる』ことに動機はないのさ。かわいいおバカさん」
ツンと唇をつつかれ、アマベは調子を崩されて、「もうっ」と赤肌の顔をピンク色へと染めた。
「いいかね。そもそも管理とは〝彼にとって大切なものを作って与える〟ことなのだぞ。報酬とする以上、それは本人にとって大切なものになるのだ。そうでなければ報酬の意味がない。であれば、本人の大事なものを殺しの材料にする点はどう転んでも動かない」
「それは……そうですけど……」
「はいここで」
ニコはパンと手を叩いた。それを合図にアマベは改めて背筋を伸ばす。議論を整理するときの、いつもの儀式だ。
「文脈を確認しようか。わたしは報酬としての価値があるとして『可愛くなること』が有用であるという、計画における価値という視点で語っている。アマベ君は?」
「……人道的観点です」
後輩がいつもの叱る顔で、先輩に詰め寄った。
「私たちが苦手な、『人道』という定量的どころか定性的にも怪しい言葉が、人間の行動基準とすべき法に必要なのは、越えてはいけない一線があるからじゃないですか。どこにあるかさえ分からないですが、感情論と片付けて無視すべき存在でもない。……言ってること分かりますよね?」
「わ、分かるとも。そこまでロクでなしじゃないよ? ほら、一般人どもが計画後に余計なバッシングとかしてくる点を気にしてるのだろう」
「そこまでロクでなしじゃないですか……」
ニコはムスッとして唸った。それを差し置いてアマベは、顎に曲げた人差し指を置いて視線を泳がせた。
「っていうか、わたしの主張とニコ先輩の主張って共存しますよね。やっぱり、他のものを報酬とすれば成り立つ話じゃないですか。現状、可愛くなることには特筆すべき優位性がありませんよね?」
「はい待ってました」
もはや口癖だった。そしてアマベが顔にシワを深く刻む
「優位性は、その持続性にあるのだよ。
「
「たとえば酒ならば、刺激に慣れて飲む量が増えていく。依存はどんどん加速していき、健康に害が出はじめる。それは依存する対象がひとつしかなく、かつそれを得る方法も一つであるからだ。だがね、可愛くなることは、〝本人が満足しさえすれば成り立つ〟のだ。アクセサリーをジャラジャラつけたって健康には害がない。あるメイクに飽きたって、別のメイクをすればいい。客観的に見た目が変だろうがなんだろうが、本人が満足すれば、報酬としての役割を達成する」
「で、ですが依存しすぎれば……」
「依存しすぎれば破綻する、ね。だがその定性的論理は、全ての物事に適応可能ではないか。定量的に見てじゅうぶんに有意な差が出るかを検証しなければ否定の材料にはならない。……らしくない
「…………」
それだけファイマンを想い始めているのだろう。仲良くなれるのはいいが、なれすぎるのも考えものだな。ニコは後輩の追い詰められた表情を見た。それから、ピンと指を立てた。
「本計画の目標は、生物兵器とも呼べる人体改造兵士の育成にある。万人に使えずとも、その瞬間までファイマンにとっての報酬であればよい。育成手法が完成したあと、プロトタイプは役目を終える。新たに育成された軍団によるデータ群の、外れ値になるだろうからね」
「…………」
「キミが思うところの平和は、その後でいい。兵器とは関係なくなった後でね」
「……ですが」
彼女は目を伏せて、「大事なものを、後悔にして欲しくないんです」と呟いた。
ニコはただ黙って待った。イエスと言わせるために相手を責め続けるのは議論ではない。討論というそれらしい言葉で着飾らせた、子どもじみた口喧嘩でやればよいこと。
つまるところ、この議論の落としどころはひとつだ。
「可愛くなることをキミ、殺しに利用したくないのであれば、代わりを見つけよう」
「……やっぱり、その結論しかないですよね」
「現状、その他がないから、それでやるしかないのではないか。であれば、スコアでもなく、可愛くなるでもなく、新たな報酬を見つけるのだ。計画が動いているんだから、なるべく早くにね」
「……先輩? もしかしてですが、スコアの方も廃止しようとしてます?」
言葉の端から見つけたのか、そう考えていることを見抜かれるほど一緒にいたのか。ニコは驚いた顔をしたが、微笑んだ。
「戦闘をいかにして勝つかなど、そもそもナンセンスだ。試合とは異なり、戦闘が始まったらどちらかが勝つまで終わらないなんてことはない。戦わず撤退、一部に損害を与えて帰還、あえて長期戦にさせるためひたすら時間稼ぎすることもある。勝つことを報酬とすれば、報酬に引っ張られて退くタイミングで退けなくなるのだよ。職業柄、そういうのには詳しくてね」
「T.A.S.の所長……ですもんね」
「計画が進んでいる以上、報酬についてはさっき言った通りとする。ただし、他に用意できる場合は他のものでもいいとする。構わないね?」
「……はい」
決意を固めたアマベの表情を見る。
彼女はブレーキとして、あまりにも強い。
さてそれが、どう転ぶか。まともに終われればいいのだが。とニコは、ため息をひとつ。
「さて初回の報告会が近い。が、報告ってめんどくさいんだよね。発表してくれないかな?」
冗談のように言うが、ニコは実際にやらかしたことがあった。しかしアマベがあんまり上手く代理発表するので、それ以来、機会があれば後輩に発表させているニコだった。
しかしアマベは、「しょうがないですね」と両肩をすくめた。
「じゃあ、発表するべき概要と今後の展望について……」
ふたりで、廊下を歩いていく。
ひそかにニコは、可愛くなる以上の報酬は何だろうと考えていた。実際にそれを得るクオリアがあれば、なにか思いついたりするのだろうか、と。
……おめかし、してみるかねぇ。
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