松方財政と自由民権運動の伸展

 第一次勝内閣の退陣は、大久保利通という政治家にとって天祐に等しいものだった。

 勝の後継首班に指名されたことで、大久保は西南戦前から続いていた政治的逆境を完全に脱した。

 さらにライバルたる旧幕閥の中心人物である勝と榎本が半ば自滅するように失脚したために、慶喜を除けば政府内に自身に比肩するような人物もなく、当面は政治的主導権を握れそうな情勢であった。

 

 その喜びようは、組閣大命を受けた日の日記に「一大快事ナリ」と記したことからも窺い知れる。

 大久保の日記は淡々と日々の出来事を記す覚書のようなものであり、このような感情を表現するのは珍しい。

 

 さて、四八歳の気力・体力ともに充実した首相が組閣した陣容は以下のとおりである。


内閣総理大臣   大久保利通(薩摩)

外務大臣     大隈重信(佐賀)

大蔵大臣     松方正義(薩摩)

内務大臣     黒田清隆(薩摩)

陸軍大臣     西郷従道(薩摩)

海軍大臣     佐藤政養(旧幕)

警察大臣     土方歳三(旧幕)

農商務大臣   板垣退助(土佐)

司法大臣     津田真道(旧幕)

文部大臣     西周(旧幕)

逓信大臣     前島密(旧幕)

内閣書記官長(非閣僚)    伊藤博文(長州)

内閣法制局長官(非閣僚)  林董(旧幕)

開拓使長官(非閣僚)   柳原前光(薩摩)


 閣僚人事で注目すべきは、蔵相に松方、内相に黒田、海相に西郷という薩摩閥の次代を担うと見られていた人材を起用している点である。

 閣僚数は旧幕がひとつ多く、海相と警相という重要ポストを譲っているとはいえ、前任の勝内閣では重要閣僚の椅子を有力藩閥で分け合っていたことを考えると、「旧幕閥の後退」と「薩摩閥の伸張」という図式が浮かぶ。

 

 少なくともこの時点での大久保は、藩閥を自身の政治的資産であると考えていた。 

 三人の起用は西南戦争で人的に大打撃を蒙った薩摩閥の再建策であると同時に、自身の政治的立場の強化策であった。

 

 だがしかし、旧幕閥退潮を好機として行われた主導権確立策は、必然的に他の藩閥の不満を生み、大久保に政治的苦境をもたらすことになるのだが、それは後の話である。

 

 さて、大久保内閣の最初の仕事は列強各国公使へ条約改正交渉の打ち切りを通告することであった。大久保は条約改正問題を当面棚上げし、内政の充実を優先させる方針を採る。

 

 差し当っての課題は西南戦争後の経済の正常化であった。西南戦争後の経済財政運営をめぐっては政府内に二つの路線があった。

 

 ひとつは戦後不況の克服を優先し、積極財政を推進する政策と、もう一つは戦時中に乱発した国債と通貨を回収し、財政を再建することを優先する政策である。

 

 前者を推進していたのが蔵相の由利公正であり、後者を唱えていたのが大蔵次官の松方正義であった。

 この二つの路線をめぐって両者は激しく対立し、やがては第一次勝内閣が対立する一因となったことは先述の通りであるが、職を賭してまで財政健全化の主張を枉げなかったのが。松方という男であった。

 その松方が蔵相となったことで、「松方財政」として日本財政史に刻まれることになる一連の政策が始動する。

 

 松方が蔵相に就任した当時、明治一一年度予算は元老院の承認を得て成立していたが、松方は大久保の支持を背景に、各省に一部予算の執行停止を求めるまでして財政支出の削減を行っている。

 大久保と松方がこれほどまでに財政再建を急いだ理由は複数あるが、中でも政府歳入の圧迫と士族の困窮、それに大商人の不満が高まっていたことが大きい。

 

 西南戦争前から産業振興予算などのために政府支出は膨張傾向にあったが、西南戦争がこれに拍車をかけた。

 増大した支出を補うために貨幣を増発したため、銀と法定通貨の交換比率は一;一・八まで下落していた。当時の政府歳入で最大のものは地租収入であったが、これは通貨によって納められていたため、通貨価値の下落は政府歳入の実質的な減少をもたらした。

 また、通貨価値の下落は定額の公債利子によって生活する多くの士族たちの生活も困窮させ、士族叛乱の再燃を招く恐れがあった。

 

 政府が財政支出を補うためのもう一つの手段として国債発行があったが、まだまだ日本の国際的な信用は低いため、外債募集は振るわず、不足分は国内の大商人に半ば強引に割り当てた。

 信用の低い国債を押し付けられた大商人たちの間では、政府への不満が高まり、遂には元老院で商人出身議員が公然と政府批判の演説を行う事態となっていた。

 当時の政府にとって、大商人の協力は必要不可欠であり、彼らの不満を和らげるためにも財政再建の姿勢を示す必要があった。

 

 松方は次の第一次榎本内閣でも留任した松方によって明治一四年まで継続するが、その間黒字予算が常態化し、法定通貨の発行残高は四分の三まで減少し、銀と通貨の交換比率は、ほぼ等しくなった。

 新規国債の発行も行われなくなった。この限りにおいて、松方財政は成功したといえる。

 

 しかし一方で、強引な緊縮策は深刻なデフレを招いた。

 特に米や綿花などの農作物の価格低下は著しく、農村の生活を直撃した。

 特に小作農や零細自作農にとってその打撃は大きく、埼玉県で起きた「秩父事件」など、大小の農民蜂起が全国各地で発生した。

 また、農民反乱の一部は自由民権運動とも結びつき、それまで都市部の資産家や知識人層が中心であった自由民権運動が地方や農村に波及する結果を招いた。

 

 松方財政に対する評価は現在でも賛否両論あり、一定しない。

 明治一一年当時の国家財政はかなり悪化しており、仮に緊縮が行われなければ、破綻していたとも言われる。

 もしそうなっていれば経済の瓦解を招き、より悲惨な状況になっていたかもしれない(国家財政の破綻が、国家経済の崩壊を招き得ることは現代の中南米やアフリカ諸国などの例を見れば分かる)。

 

 だが一方で、「財政のために経済を殺した」とも言われ、松方の性急な緊縮策は深刻な景気後退を招き、本末転倒であったとする意見もある。

 

 ここでは経済議論に立ち入らないが、松方財政の政治史的意義を上げるとするならば、それは民権派の勢力拡大に貢献したということである。

 初期議会において民権派の流れを汲む「民党」は議会の多数を占めつづけ、政府を苦しめた。

 そのため、ある時点において政府は民党との妥協を選択せざるを得なくなった。

 そのことが政党政治へとつながってゆく。

 民党がそこまでの力を持つことができた背景は、議会開設前夜に発生したデフレ不況とそれに対する政府への不満というものを抜きには考え難い。

 その意味で、松方財政もまた、政党政治の親の一人であったといえるのである。

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